日本最大の企業の栄光と崩壊【カネボウ】1

カネボウと歩んだ人生1

明治20年(1887)年から平成19年(2007)年まで120年間存在した大企業、カネボウに私は昭和57年(1982)年から解散の日まで在籍しました。
戦前の日本を支えた戦後復興の中核だった栄光の繊維産業の時代はほとんど知らないわけですが、この恐竜のような大きな企業の断末魔を見ることができました。
何章かに分けて、先達、同僚からお聞きした話を含め、この企業の盛衰が現代にも語り継がれるべきもの警鐘とされるものを紡いでいきたいと思います。
昭和51年に横浜の山手ワシン坂に偉容を誇る教育センターを開設していました。伊藤淳二社長の人材教育の肝入りで、化粧品で採用された私ですが入社時は統一採用となり本体の繊維と同じ待遇で入社式を行いました。
都島工場や小田原工場、関西の須磨の教育センター等、横浜に比べると食事も施設も劣るところを入社導入教育ということで2週間か3週間回りました。
最後の社長となった帆足隆氏が、当時チェーン店部長という幹部でした。激を飛ばすパワフルな個性のまま、会食の同じテーブルでした。粘り強い営業スタイルの逸話が多い方で、美容畑の女性幹部古島町子氏の「シャツは綺麗にしておかないといけない」の言を語った同期に「そんなものどうでもいい」と一喝していました。夜討ち朝駆けで、毎朝毎朝、早朝に攻略する薬店のシャッターの前に立ち開店の準備を手伝って信頼を得た人たらしで粘着的な気質の方で、このDNAは長きに渡りカネボウ化粧品の幹部に受け継がれました。
慶應出、本社総務人事出身が歴代社長、重役のコースだったのを最後の帆足隆氏だけが異例ともいえる地方大学の、子会社出という経歴でした。化粧品戦略を中心に据えその恩恵を受けた伊藤淳二氏が帆足を評価し、またいかに帆足が伊藤に取り入ったかを示しているといえます。
関西の私大から入った私は、「慶應閥の会社で、本社に行って企業の中枢に行けるのですか?」という質問を教育担当の講師にしたところ「帆足さんの例があるじゃないか」と言われました。
晩年、粉飾に手を染め汚名をかぶり獄窓に入った帆足氏ですが、当時飛ぶ鳥を落とす勢いだったのです。
そして高度成長期でカネボウもシーズンのキャンペーンを資生堂と競い合い次々と話題を提供する。戦前とはいかないまでも、テレビでの露出は一流企業であり、食品や漢方薬の薬品、ハウジング等も手広く発展しているように傍目には見えました。
しかし四季報等で良く見ると株価やその内容は決して良くはありません。もはや日本の中心輸出産業は繊維から家電や自動車に以降していく時代でした。繊維から脱却を図っているようでうまくはできず化粧品という孝行息子の働きを食いつぶす不良老人。
戦前は退職金で都内に3軒も家が買えたという、超一等の会社が、日本はおろか業界トップの資生堂に比べても給与賞与で大きく差をつけられていました。
同期の「戦前に入ってたら良かった」という嘆きは分かるほど、一流とは呼べない待遇と、泥臭い現場の営業でした。
入社して見習いを終え、8月1日が正式配属ですがその日に私の同期2名、なんとなくウマがあったNとKという二人は、先輩方の情けない営業や向上心の無さにあきれ辞表を叩きつけました。Nはその後国家公務員上級試験に合格したという便りがきました。外務省で日本を支える立場になっているようです。私は当時、そこまでの選択をするアタマも度量も無かったです。その後何度も後悔もしましたが、この企業を看取ることができたことは今ではいい経験ができて幸運だったと思っています。

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