【萬世永頼】いつまでも人の役に立つ:初代内閣総理大臣の思い

長浜鉄道スクエア(旧北陸本線、柳ケ瀬トンネル東入口にあった石額)伊藤博文の揮毫

日本人が歴史上最も頑張った時期はいつかと考えると、私は明治維新から昭和初期だと思います。欧米列強に追いつくため、政府も役人も必死に学び、努力し、働きました。鎖国をしていた日本が一気に侵略されかねない程遅れている矮小国家だと気づきました。明治の政治家や企業家は、目の前のこともその先の日本の繁栄も命懸けで考え、行動に打ちこみました。
殖産、富国強兵、近代化の旗印が鉄道でした。日本の国土がまた、さして大きくない島国の上、山が多く平地が少ないことは、フランスやドイツ等を見た使節も驚いたことでしょう。
産業を興し、貿易や軍備を進める上で,港と街や工場を結ぶ鉄道を建設するのにも、山を迂回するかトンネルを掘らないと行けなかったのです。
【萬世永頼】(万年経っても永く頼む)「いつまでも人の役にたって欲しい」初代内閣総理大臣、伊藤博文の筆によるものです。明治17年に完成した日本で初めて1000メートルを超え中央分水界を越えた山岳トンネルとなった柳ケ瀬トンネルの入り口の石額です。今はルートは変わりましたが滋賀県長浜から福井県敦賀に至る現在の北陸本線の前身となっています。伊藤は宮内卿時代から鉄道推進派でした。こうして重要な港だった敦賀が東海道線と結ばれ、青森まで続く日本海縦貫線へと結実します。
初めてのダイナマイト使用がこのトンネルで、その後昭和初期の丹那トンネルや清水トンネル等の長大トンネルへこの経験が活きます。
地盤の難しいところや、崩落、湧水もあり、丹那トンネルは70名近い工事関係者の事故死の犠牲で15年の工期でようやくできました。トンネルの地上にあった丹那盆地のわさび澤や水田は渇水していましました。
多くの犠牲の代償として日本の近代化があったのだと改めて思い知ります。
機関車等でもそうですが、トンネルの工法においても削岩機、発破、シールドマシンを欧米から輸出するのではなく学び取り、自国の製作にします。
戦後の新幹線、速度が飛躍的に伸び安全性にも優れています。トンネルの工法は近年は進歩し、過去の難工事のトンネルの横に幅広で長大な新幹線や高速道路のトンネルができています。
昭和40年代の山陽新幹線六甲トンネルは最後の難工事でした。この時代でも40人以上の犠牲者を出していました。
開通後の事故の死者こそ出ていない日本の新幹線ですが、トンネルを掘る労働者はそれだけ大変な現場にいたのです。本当に日本の高度経済成長までをささえたのは、政治家や役人もですが、現場で命がけで使命感だけで働いた人や土地や水利を公共事業に捧げた人、市井の人々の涙ぐましいまでの理解と協力です。
いつの時代も、公共事業は強いリーダーシップで強引に進めないと、大きな国家的成功は描けません。確かに万人にベストとは言えず、犠牲や補償がつきまといます。それでもリーダーがしっかり説明をして明るい未来を語り、新しい未来の日本を共に築いていかないといけません。自分の選挙や派閥等目の前の小さな事しか見えない政治家ではだめです。【萬世永頼】まさに永遠に人の世の頼みとなる政治家が次代のリーダーに望まれます。


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