コロナ禍と死生観

【死生観】とは、辞書等で調べれば「生きることと死ぬことに対する考え方、または判断や行動の基盤となる生死に関する考えのことです。」 誰にでも死は訪れるものですが、死後の世界は未知の世界でもあります。 そのため、人の死に対する考え方や価値観などは個人で異なります。
自分らしい最期を迎えたい。今は「安楽死〕「尊厳死」といったことが問題になり、【健康寿命】【終活】という言葉が流行りですが、昔から老いと死は大きな問題でした。死にざまとは生き様です。
私の子供の頃の昭和40年代頃までは、老人が大家族の中にいるのは当たり前でした。老人ホームはできましたが、姥捨て山のイメージもあり、ネガティブなものでした。
今介護老人施設などは当たり前すぎるほど、街にあちこちにあります。
施設に入らなくとも、デイサービスで定期的に車いすの高齢者が、ワゴン車に乗せられて、つかの間家族介護者が心身を休める時間になっているようです。
ただよく自宅マンションでも見かけるこの姿、どうも高齢者の笑顔をみかけることは少ないです。健康寿命の老人は今でも経営者だったり、政治家や芸能人だったりします。
コロナで外国と日本の医療体制の違いが問題になっています。
ここでは死生観につながる違いについて考えてみましょう。
日本にもかつて「老醜をさらさず、晩節を汚さず」との死生観がありました。ところがいつの間にか、高齢者医療や介護現場は尊厳のない延命に方向を変えました。
これには様々な原因があったのですが。残念ながら禅とか武士道の潔さはそこにはないです。
コロナ禍は、高齢者に死者も感染者も多いこの病により、ちょっとした世代間の問題を呼び覚ます結果ともなっています。
少子化でたださえ医療財政や、年金や保険の多くを高齢者にお金を回さないといけない上に、高齢者しか死ぬ可能性も重篤になる可能性がないのに、若者や現役世代が自粛や我慢、挙句の果て廃業や失業の運命です。
健康寿命,元気での長生きならまだしも、生きながらえるだけの老人に税金も吸い取られ続けるのは何ともいびつではあります。これを人権で批判するのは少し違うのです、ただ生きながらえることを人権として良しとするか、むしろ否とするべきとの死生観があってもいいのではないでしょうか。とことん自分の足で歩き、消化器や循環器含め身体のケアに努めて健康のままの高齢者でありたいものです。

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