墓参りのありかたも変わる #墓仕舞い

 正月なので一昨年亡くなった母、七回忌を終えた父らのお墓に参りました。
 両親が亡くなって、分家にあたる私は墓の管理はしていません。気楽であるとともに自分の墓をどうするかという宿題はあります。少子化の中、名門の家ならともかくもう「家」や「墓」を守る考えは古く、合理的でなくなってきています。
 京都の中でも由緒あるお寺に結構なお金を毎年払い続けるというのも、現役で暮らし続ける世代にもかなりの負担です。ファイナンシャル的にもカット節約の候補です。
 「千の風に乗って」という歌に「そこに私はいません」という歌詞がありました。これは複数の僧侶にも聞いた話ですが、まさにその通りでお墓は単なる入り口の象徴で、ご先祖様は子孫みんなの心の中にいるのです。子孫の心の中で忘れ去られた時、肉体の死に続く第二の死を迎えるとも言われました。
 その談でいうとリアルな形式的な墓参りはあまり意味がなように思います。
 引っ越しなどの都合で居住地域と先祖の墓が離れている場合などは、わざわざそのために移動するのも墓を動かすのも大変です。もう墓そのものがそれほど重要ではないと思います。
 個人を偲ぶならば、画像や功績、言動をデータ化してオンラインで先祖を敬い、両親祖父母に感謝、供養、墓参りもできるようなシステムで良いのではないでしょうか。
 実際に私の父等も、地元の図書館やら商工会に行くと名前の残った資料があったりします。それらも一元化して、ああこの人はこういうこともしたなとか、こういう時代を生きたのだと振り返れれば、永代供養や管理費も高くはないのですが。
 墓、寺というとなかなか大きく改革しにくいのですが、お坊さんがバイクで義務的に檀家を回りこなしているだけの現在です。そんなものにお金を払えない世代が先祖を敬わないようにならないためにも、もっと効率よくシステム化すべきです。

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