【死生観2】尊厳死と延命

 戦中戦後の戦死や特攻が美学だった時代が去り、食べるモノが少なく配給や不衛生、闇市などで飢えを忍んだ時期を終えると、日本人は高度経済成長期を迎え一気に飽食の時代を迎えます。
 安全や衛生状態改善、栄養不足の解消で子供や若くして亡くなる命が減り、医学も急速に進歩していきます。死因となる結核などの病気もどんどん克服されて、寿命は伸びていきます。
 それと同時に、死と生の美学、意義はあいまいになり、医学によってただ生きながらばよい、身体に道徳がついてこなくなります。
 親を老人ホームに入れるなど昭和の時代には罪悪感のあったようなことが、今は介護施設、高齢施設、デイサービスに委ねるのは当たり前、順番待ちの時代です。
 人間としての盛り、旬を完全に過ぎた人が、毎日毎日無気力に車いすで、介護施設のバンに乗せられ、送られていって、また帰ってきて出迎えられます。もちろん家にいるよりたぶん多少なり、充実した時間、快適な入浴やリハビリ等をしてもらっているのでしょう。昔の大家族なら誰かがやてちたフォローや、できない場合自分の身体をギリギリまで動かしていたことを今はお金や保険制度で他人がやります。
 そこに高齢者の尊厳は薄れているといえないでしょうか。
 食事することができなくても最後には胃ろうでも生きながらえることはできます。私の親などはその選択はしませんでした。自分で食べて、自分の足で歩くことに尊厳をもっと持たせないと、動けない老人が日本中にこれからもっと溢れます。
 健康寿命という言葉がようやく着目されています。もっと苦しくても歩くことや、食事を作って食べる、身の回りをかたずけ掃除する、体操をするなど、リハビリ以前、病気以前にやるべきことを医学界、厚労省は考えるべきです。そこに薬や治療、介護と同じ程度の予算や保険からのお金が回る仕組みを政治がつくらないと老人大国は成り立ちません。
 コロナ禍でそのことがさらにあぶりだされます。(つづく)

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください