【死生観4】生物が死ぬことは次世代を生み、社会に役立つ

 日本人の寿命を戦前戦中と比べたり、人間と動物の寿命を比べたりすることがあります。しかし前提として、いわゆる寿命をまっとうする生涯と、不慮で死ぬケースを同列にあつかってしまう計算になります。
 動物の場合、元々繁殖を終えたら死が待っているとか、数多く生まれ肉食の天敵などに捕食されて死ぬのが大多数の寿命だったりします。
 捕食されたり、土に還り植物や他の生物のためになります。
 人間は知恵をもって生まれているため、最も死を恐れてしまいます。
 私の友人にも優れた才能を持ち努力もされ、素晴らしい人生を送っている人が何人もおられます。
 いくつもの事業を手掛け、多くの夢を実現して人の何倍も人生を楽しんだのでいつ死んでもいいぐらいと呟いていた方がいます。60歳も過ぎこれからは人生のボーナスステージだと、力を抜きながらも、さらにいろいろ挑戦されているようです。
 一方別の友人は、このコロナ禍で移動やさまざまな制限で仕事も余暇も満足に過ごせずに、家族のロスやペットロスも重なり、不幸や不満ばかりぶち上げストレスをため嘆き悲しんでいます。
 生きている者が老い、死ぬのはごく自然当たり前のこと、多くの人が聞けば分かっていることですがいざ自分の目の前に来ると受け入れがたいものなのでしょう。本当の意味で死が地球全体、社会全体への貢献と思えれば、もう少し軽くならないのかと思います。
 いつ死んでもいいというぐらい、人生を全うした気持ちには私もなかなかなれません。自分はその友人らに比べても凡庸で才能はありません。それでも、20代や50代で親を失くしたり仕事や人間関係で悩む人に比べ、60歳で、自分の健康や先行きが不安だとか、親が死ぬ友人が離れる、飼っていたペットを失う等という悲しみは悩みは俯瞰してみれば小さいものです。
 かつて人生50年とも言われた時代もあり、30や40で死ぬのも多くあり、60歳まで生きられた今、こんな時代に生を受け、食べるものに困らず生きてるだけで丸儲けとしないといけません。
 もちろん経験を活かし、向上心は必要ですが、すべては自己のためエゴではなく。社会のため子供たちのためと思えた時に、いつ死んでもいいと思えるのでしょう。【完】

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください