昔も今も止めたくて止まらない悲惨な戦争

 ウクライナ問題をきっかけに戦争や安全保障に関連する本も読まれているようです。今の戦争とは関係ないという人もいますが、歴史を紐解くことは何らかの問題解決の糸口になることはあります。
 世界を巻き込んだ大戦争からは70年以上たちもはや、生きた証言のできる人は減り、伝聞や記録などで類推することも多くなります。
 証言自体は個人の感想や聞き手の恣意的なものが入ります。できるだけ数値的な記録や、客観的事実、歴史的な時系列を確認していくと大きな間違いはないでしょう。
 それにしても人間は何と大きな間違いで戦争を起こしてしまうものです。
 第一次の世界大戦がありもう二度と戦争はしたくないと、国際連盟もでき各国誓い合ったのですが、第二次世界大戦は未曽有の大規模で勃発しました。
 とくに日本からは遠い、欧州の東部戦線はその死傷者歴史上最大です。
 東京大空襲の数ですら半端ではなく、今のウクライナより激しい規模で無差別に爆撃されています。

 こういう本を読んでいて、やはり人間は戦争を止めたい気持ちを戦争をやりたい気持ちを両方持っているのだということが良くわかります。
 花を愛でて家族を愛し街を愛し優しい人間が片方で銃を取り、爆弾を投下しているのです。
 それは時代や地域が違うのではなく、今もどこでもそうです。
 狂人のような独裁者や軍部の戦犯クラスが始めたからというのは、あとから書き換えた自分を殺戮者としたくない人達の修正、自己正当化のゴマカシです。
 民間人を殺してはいけないという原則は何も第二次世界大戦後にできたわけだはありません。昔から戦争は兵隊同士でやるものでした。
 それが卑劣な奇襲や先制攻撃をしたとか、生物兵器を開発しているとかの事情があると何でもありで民間人攻撃も許されるようです。要は世論で許されれば後は勝てば何とでも言い逃れできます。いったん国と国が戦いに入れば、国民全てが戦いに加わり戦場にいることになります、兵隊や軍事施設だけ選んで攻撃することなどは、大変難しくそんな生ぬるい攻撃なら変装や偽装で何とでも逃れられます。
 実際に今の日本の世論でも、敵基地攻撃を是とし、基地だけでなく指揮命令系統の攻撃もやむなしが9割を超えているようです。
こういう風潮を見ると、戦争を憲法で放棄している日本でこれなのですから、元々軍人の地位も評価も高い国で戦争に傾くのは容易な流れです。
 それでも戦火に散った多くの命をもう一度考えると、一人一人は子供を抱き、花束を抱え、愛犬を散歩させていた平凡な人達です。
 市民を巻き込む戦争がオワコンになり、バトルフィールドのような特別空間でやってもらえるような未来は来ないものかと思います
 

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