
平均寿命➖健康寿命がゼロに近いほど、幸せな老後と言われます。
尊厳死の微妙な問題とか、差別的意味合いも含んだ表現になってきますがご容赦ください。
点滴や胃ろう、酸素吸入になり、自分で口を動かし食べることができなくなれば、延命をためらうことを亡き父の主治医は説明されました。
市井の人々にとっては、輸血を続け高度な延命治療を続けることは医学的には可能でももはや生物として生きているだけで、人間の尊厳は無くなってしまいます。亡き母も最期は、心臓に器械でショックを与え続ければ動かすことだけは可能な危篤の状態の残酷な場面でお別れをしました。
尊厳死、胃ろうまで行くとまだわかりやすいですが、生きることは可能でも、多くの今までの利便を失う苦しい状態が、冒頭の「寿命-健康寿命」の期間です。
それまで、見えていた視力を失ったり、動き回れていたものが歩行困難、言語や運動の制限、排泄ができないなどです、
仕事はもちろん日常生活も困難になっていくことが何年も続く状態は、若い頃不自由無かった人ほどショックが大きいでしょう。
お金や家族等人脈で多少はマシになるかもしれませんが、この不自由は大金をはたいても全て解消はできないことです。
普段からの運動、食事、摂生など比較的若い頃から健康寿命を心がけるにこしたことはありません。
あとは情報も含めて家族や友人とのコミュニケーションも、この時代こそ大事です。
昭和一桁生まれの父母の時代は、直接のお見舞い、看護や電話しか無かったです。母は残念ながら、昔のワープロを打つところまではできましたが、ケイタイのメールはどうしても理解が出来ず、テレビのリモコンのBS切り替えや録画とともに、晩年覚えてさえいればもう少しカンタンに楽しく過ごせたのにと思います。
今も私自身2週間ぐらい入院しているのですが、スマホがあればたいていのことができます。コロナ禍で面会が基本できないため、持ってきて欲しいものをLINEで連絡して電話して折り返しとかはほぼ無しですみますし、テレビや新聞、映画やゲーム、情報もほぼ全て事足ります。
もちろん、健康ということを考えるとしっかり食べて、退院したらリハビリして、運動不足を解消していきたいところです。
どこまで生きる、寿命がどこまでかは運命のようなものでしょうか。まだやりたいこと、やり残したことへの意欲、拘りのようなものも必要なのかもしれません。上手くいかないとき、身体が苦しいとき、同年代の自殺や事故死は心に響きます。
それでも、天命の道があれば一歩一歩歩むことしかありません。いいことが待っているか、楽しみながら行くしかありません。