アントニオ猪木と昭和プロレスの時代

1971年日本プロレス時代のUN選手権猪木対Jブリスコ

 闘病中で、なかなかやつれた壮絶な姿しか見られなかった晩年のアントニオ猪木でしたが、昨日とうとう訃報に触れました。

 アントニオ猪木という人は多くの人を愉しませ、騙した昭和の時代のプロレスを支え、本当に数奇な運命で政治家にもなり数々エピソートに満ちた人物でした。

 私は兄がプロレス好きだったもので、小さい頃からテレビでプロレスを見ていました。初めてプロレスをテレビで見たのは1968年1月3日、お正月で親戚の家に集まった時にいとこたちと見ていた正月興行の特番「ジャイアント馬場対クラッシャー・リソワスキー」のインター選手権試合でした。その迫力に怖がりながらも圧倒されました。
 この時のリソワスキーのパワフルでタフさぶりはまだルールも詳しく分からない子供にも強烈なインパクトを与えました。
 翌年、リソワスキーは生傷男と言われるディックザブルーザーというさらに大物とタッグで馬場と若き日のアントニオ猪木の持つインタータッグ選手権に挑戦してきます。
 猪木は馬場に比べて小さく、細くて俊敏な印象で等身大の応援したくなる選手でした。屈強そのもののブルクラコンビには苦戦しそうに思えた戦いですが、ブルーザーは前評判ほど迫力はなかった記憶だけがうっすらと残っています。
 このあたりは、前年のリソワスキーと馬場の一戦の迫力にも大人的な背景があったことは、のちに知りました。(同日、ライバル団体国際プロレスが興行をはじめたため急遽ぶつけたタイトル戦で、馬場は意地でも試合内容含め後発団体を圧倒する内容を示した)

 1970年前半、日本プロレスでジャイアント馬場に次ぐナンバー2の時代のアントニオ猪木を小学生時代、兄と懸命に応援していました。ちょうどタイガーマスクのまんがが連載され、アニメにもなり、実名で馬場も猪木も登場していたころです。

 猪木はナンバー2のタイトルとされるUN選手権を奪取(与えられ)馬場に並ぶエースとなり、日テレに加え新たに参入したNET(現テレ朝)の放送での看板となります。この時代の最も面白かった試合が1971年8月5日のアメリカの若手有望株雨で次期NWA王者候補ジャックブリスコとの防衛戦でした。(写真)

 こんな時代の動画が今になって動画サイトで見れることは夢のようです。今みてもスピーディな技の攻防、決めのジャーマンまで猪木のベストバウトはこの試合だと思います。

 その後、猪木は大人の事情?乗っ取りの疑いで大阪でのドリーファンクジュニアとのNWA世界選手権直前に日本プロレス(会社名)を追放され、独立し新日本プロレスを設立します。馬場も独立して全日本プロレスを作り、両者は興行のライバルとなり、エース二人に抜けられた日本プロレスはみじめに崩壊します。この時に一連の事情を考えると、もう十分プロレスはウラのある世界だとわかります。
 それでも新日本の猪木を応援したい気持ちはあり、大学生くらいまでその推移を見守っていました。
 因縁のジャックブリスコはNWA王者になりましたが、NWAは馬場の全日本と強く結び、王者はじめ大物レスラーは馬場の全日本中心に参戦し、猪木の新日本は外人招聘では苦戦しました。二流のレスラーに無理くり箔をつけ、タイガージェットシンとの抗争、ストロング小林から始まる日本人対決、アリ戦にいたる異種格闘技戦と、独自の工夫と猪木のカリスマで全日本以上の人気を得ました。

 ブリスコはNWA王者陥落後1979年新日本に一度来ますが、猪木との試合はつまらない内容でした。猪木の名勝負としてはビルロビンソン戦や、その前のジュニア戦、小林、シン、スタンハンセンやアンドレとの抗争を挙げる人もいますが、直近で動画を見直しても1971年のブリスコとの初戦がベストです。
 スターになってしまった猪木の試合は、やはり相手がプロレス的忖度をしてしまう部分があるのです。

 そして、プロレスがスターを作ること、タイトルの移動、タッグマッチや反則、覆面レスラーなどなど、全てプロレスには筋書きヤラセがあることだということをだんだん気づきながら私は大学生になり、大人になっていったわけです。

 プロレスの世界では、あたかも真実のように語られていた、外国で起こったこと外国人レスラーのインタビュー記事、NWAとかの権威など、はっきりいってほとんど全て嘘っぱちに近いものでした。

 噛みつきで有名だったフレッドブラッシーと力道山の流血試合でテレビ観戦していたおばあさんがショック死したという逸話がありました。流血そのもが仕込みで八百長なのに、それを見てショック死したなど死んでも死にきれないような話だと憤りかねませんでした。
 ところが実はおばあさんがプロレスを見て死んだというニュース自体が今でいうフェイクだったそうです。何ともほんの一部に真実はあり、屈強な肉体と技を鍛えてはいますが、うすばっかりの興行がまかり通るのが昭和のプロレスでした。

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