電卓ワザに長けたB野君、借金まみれのA田氏ら同僚と過ごしたバブル期

1980年代後半、バブル期と言ってもパソコンはまだ、会社でも一人一台ともいかず、まだ電卓やワープロの時代でした。

 化粧品メーカーの現場で販売の部門にいましたので、売上の予想や集計には電卓をたたいていました。
 B野君は転職組で過年度の入社ながら、やり手で一気に当時のロートルメンバーを脅かし、陰の実力者と言われた後の経営幹部となるN課長に取り入り、管理職目前まで登り詰めていました。今ならパソコン、その当時より少し前なら珠算、算盤なのでしょうが、彼の電卓をたたく術はとにかく早かったでのです。コツや技術と手先の器用さもでそうが、パソコンならブラインドタッチ(タッチタイピング)のような鮮やかさでした。

 対照的にA田さんという人はもうそろそろ同期が経営幹部や支店長になるとかの話もチラチラ出る中で、まだ課長にもなれず、売上成績はドル箱を抱えてそこそこながら、その仕事ぶりや私生活は借金や女の問題などひどいものでした。

 この二人とは少し距離を置いた関係で、工場経験ありの変わり者S古氏と、ベテランP府氏、私の3人がN課長の派閥に入らず、反主流派で村さ来とか安いところでよく呑みに行きました。

 シャープで時に豪快でいい仕事をしていたB野君ですが、私の転勤後数年して、不倫相手の女性が自殺したということで、職を追われたと聞きました。当時N課長と対立するパワハラ気味のトップが君臨して、別部門の責任者M杉さんはノイローゼになり首を吊った。B野君は直接、自殺には関係してはいないのですが、自分には奥さんがいながら付き合っていたことは公然と知れていたので、スケープゴートになった感じです。
 私は当時独身でしたが、離婚経験はあるけどM杉さんは美しい方で憧れていました。一度二人で美術館に行ったことがありましたが、それ以上何もなしで転勤しました。当時からB野くんとは付き合っていたようで、まあ馬鹿な役回りでした。しかし死んでしまったとなると、ちょっと何かできることがあったのではないかとしばらく後悔していました。

 A田さんはその後、借金まみれで懲戒免職、離婚後、身投げしたそうです。P府さんは早期退職でリストラを受け容れ、仏壇屋の営業をしたあと、職を転々とされていたところしか聞いていません。S古さんはついに定年までも、役職にはつけず現場のままで、すでに管理職になっていた私の地区にも挨拶に来ましたが、あまり同席する気にもなりませんでした。

 私はどこかで、先に出世しそうだったB野君の電卓術にライバル心を覚え、パソコンが導入され、エクセルなどで表計算ができると意地でも電卓を一切使わない仕事を習得しました。後年パソコンの中に電卓ソフトやテンキーでも電卓替わりになるのが出ますが、何だか電卓には良い印象はないのです。
 M杉さんと行った美術館は「ダリ」だったとだけ覚えています。その後フレンチも食べたはずなのです。年上でバツイチではあってもそこは気にしないくらい美しい方でした。けれどどこかでほんの少し感性が合わないようなところがあり、負け惜しみですが、それがこちらも強引にならなかった点です。
 結局、あの当時の部署の5人で管理職、支社幹部になって生き残ったのは私だけだったのは、本当に偶然、運命はわかりません。
 若くして亡くなったM杉さん、A田さんともに北陸、福井県の出身で、カニなどを小さい頃は安くいっぱい食べたという話も妙に覚えています。

 

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