
私は冷めているのか、ミステリとか戦争の話を読んで何人も死んでも、それは身近に感じられない。医療ドラマでスーパードクターや熱血救命士が命を救う話を見ても、感動の安売りに思えてしまうことの方が多かったです。ウクライナの戦場を見ても、義憤はあっても対岸の火事という方も実は多いのではないか。
命にかかわることは、やはり自分に身近にならないと実感が本当には沸かないものでしょう。毎年、喪中欠礼のハガキもいただきますが、そこにはそれぞれ友人知人たちの家族との別れの切なさがあったと、想像はされます。
いざ自分が両親と別れ、欠礼ハガキも出し終えて喪中が明けると、何気ない日常は戻りますが、年末になってと届く喪中欠礼ハガキにふと自分のことを思い出します。
『ああ、この人も、このおうちも介護の見取りや、お葬式、相続、家の整理で大変やったのかな』と思えます。
病気や、人の死、親とのやり取りを扱った何気なく見るドラマや映画に、うるっと涙腺が緩んでしまうときがあります。
私は次男で家も別でしたから、そんなには親の面倒をみた訳ではないです。同年代も親はおろか本人も老いて「終活」という時代ですので、死は受け入れがたいほど不運で稀有なものでもなんでもありません。亡くなってしばらくは晩年の老いた親のイメージしか沸かず、それはそれで別れの悲しみを和らげましたが、ふと若い頃のウチの親もこんな年代で、いろいろ苦労したのかなと思うと、感謝や憐憫の気持ちが沸きます。
自分にも周りにも、やはりそこに迫りくる「死」は怖いものであり、尊厳のあるものだと思います。元気なうちは何事にも悔いなく一生懸命やっとこうと思います。