生きてる限り新しいことに命を懸けたい

 持って生まれたものか、幼稚園の砂場か小中学校の校庭で育まれたのか、人間の性格はそうそう変わるものでもないかもしれません。還暦を過ぎて、体力も物覚えを悪くなったのに少し落ち着けばと思う頃、それでも限られた時間だからこそ、いろんなチャレンジをしてみたくなります。

 こんな気持ちを持つ私は変っているのでしょうか。若い頃にもっともっと、チャレンジしたり頑張った友人知人は沢山います。

 また私自身が、学歴も安定したもの、社会人になっても大企業に長年勤め、定年後も公務員みたいな堅い仕事について平凡でチャレンジングとは言えないと見られる人もいます。若い頃、もっとがむしゃらに頑張って、勉強もして遊びもして、冒険もして、告白もして良かったのではと思う時もあります。若い人に勧め、昔の自分に語れるとしたなら、もっとチャレンジしても損なはいと言うかもしれません。でも人生それぞれです、どんな時期にどう悟り、何をするかは自分が決めることです。

 どんなに平凡でも、そのなかに非凡はあります。自分のやってきたことを卑下したり否定的にならずとも、その場面場面で、一生懸命まさに頑張ること、命を懸ける自分の人生なのではないかと思います。

 お金持ちに生まれ、順風満帆に過ごした人、波乱万丈となった人、平凡に、むしろ貧乏に生まれ頑張ってお金持ちになった人、貧乏のままだった人、それぞれの人生に優劣も貴賤もないし、後悔も嘆きも要らないと思うのです。人生の本当の答え、結果なんて、誰にも分からないです。小さくても満足できる時はあれば、それが幸せかもしれません。少々お金持ちでも、上には上がいます。世界には贅沢してもしきれないほど、年に1000億ドルとか稼ぐ人が何人もいるのです。そしてその人が本当に幸せだとは限らないのです。
 ただし、お金を稼ぎ少し贅沢をするために頑張った人は否定されるものではなく、やはり偉いです。社会はそういう頑張りで成り立っています。

 ご褒美なのか、苦行が続くのか、人生は寿命が延びて長くなる傾向にあります。人生を40年、50年、60年と生きたら、次はまた違うチャレンジができる。別の人生を頑張れるかもしれません。やりたいこと、やれなかったことに気が付けば残る時間が面白くなります。お金もいるかもしれませんが、お金は沢山あると人は怠けますから、そこそこで十分です。何かに向かって命懸けで頑張れば、自分の人生の意味、生きて来た目標がわかるかもしれません。

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