運命を背負い、非日常を想像して日常を生きれるか。

 戦後の日本の、政治や、経済、文化などを復興し驚異的に発展させたのはいくつかの要素もありますが、戦争で家族や仲間を失い生き残った人が悲しみを乗り越え、死んでいった人の分まで頑張ったところも多いと思います。
 思想や信条はそれぞれでも、たまたま除隊されたり、命からがら帰国できたり、召集や出陣が延びて生きることができた人が、家族や友人のためにも戦後の発展に尽力されました。そういう実業家、政治家、著名人の話は多いです。

 戦争から時間が経ち、多くの命を奪う最近の事象ではやはり大震災でしょう。そのこと自体があったから全てのきっかけや運命が変わったのではないかもしれません。それまでに日常の中での家族や指導した人々、仲間と培ったものが、非日常の荒波の中で洗い流されて浮き上がったのでしょう。さらに明確に自分の運命、天命を知ったのかもしれません。
 令和の怪物と言われる佐々木朗希投手も、東北岩手の大船渡出身でお父さんを震災で亡くされました。
 その後、プロ野球に進み160キロの剛球を投げ、完全試合を達成したのが、この運命によるものなのかというと、全てそうとは言えないでしょう。それ以前から、そしてそれからの非日常以前以後の、日常における絶え間ない努力の積み重ねがあっての飛躍なのだと思います。
 ひとつの思いとしては、誰もが自分だけ生き残って幸運だと感じつつ、生き残った宿命を考えます。しかし多くの人はなかなか日常の中で強い変革をして、亡くなった人の分まで、人一倍努力するなんてできない人も多いのです。ただ単に俺は才能はないけどラッキーだったとのうのうと生きる人になりがちです。
 生きるとは何か、生かされたとは何か。そう思うとやはり日々ボーッと生きることは振り返ると残念な日々になります。8.15も1.17も3.11もそういう非日常を思い、日常の中でいかに生きるかを考える機会を与えてくれる戒めの日と考えます。

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