運命の格差は最後は帳尻があう?

 私立も今はありますが公立の小学校の通学地域に住んでいた頃、この頃が一番学力や家の財力に格差があった子供たちでした。
 今思えば、先生は給食費を払えない子供を他の子には見えないように連絡していてくれました。
 いい服を着ている子供も、そうでない子供もそれほど差別の意識などないまま、今思えば狭小なグランドで遊んでいました。大手商社役員の瀟洒で大きなグランドピアノのあるような家の女の子もいましたし、どこに寝るのだろうという小汚いアパートに親子で散らかった一部屋しかない子や、狭い路地の奥の古い傷んだ家の子もいました。
 それでも、どこの家が羨ましいとかは当時あんまり思わなくて、しいて言えば自分の家が落ち着くという程度でした。
 小学校4月や5月の生まれで身体の発達が早く、少々勉強ができても、中学高校、大学と進むにつれ、自分がずば抜けた人間ではなく、個性はあってもしょせんはありきたりなものではと誰もが痛感するものです。

 中学は私学でしたので、小学校以上に格差はあり、今では家ガチャの当たりのような上流のような家の人もいました。
 大学にいくと、さらに千差万別、いろんなところから進学してくる学生と交わりました。そそして、社会人になりますと、またその大学からセグメントされますが、それでも100人近くの同期がいますと、それぞれの格差があり、また運命なのか早く昇進して経営幹部に近づくものや、早期にリタイアして別の人生を歩むものもいました。

 人生は、毎年、毎日、その瞬間、刹那に運命の選択に見舞われます。全てが、生まれによって決まるのではなく、土台としての有利不利は多少あっても、ずっと一つの道を努力してつかみ取る運命もあれば、どこかで切り替える選択が上手くいくとき、そうでないときもあります。
 なかなか、選ばなかった人生はどうなっているか分かりません。
 何億と稼ぐ経営者、アスリートや俳優や歌手、タレント、芸術家になっている選択もあったかもしれませんが、多くの人はそれを遠巻きに見る平凡な市井の人です。
 それでも、負け惜しみでも妬みでもなく、世の中はそういう役割で成り立っていると思います。
 組織的に生きるアリやハチなど昆虫の世界でも、女王バチがいて働きバチがいて、もし女王バチが不慮に死ぬと代替の女王が急遽選ばれる。組織の役割、運命とはそういうものです。
 俺は、あいつより社長としての才はある、あいつは親の跡継ぎで社長になっただけ、というのはよくありますが、そういうものです。すべての運命や順列が公平ではありませんが、合理的であり、理不尽とまではいえません。
 サラリーマンなどで、分不相応にあきらかに能力以上に出世すると、やはりうまく乗り切れないとか不幸が待っています。ヒヤヒヤで無事に乗り切れたとしても、どこかでその帳尻はあうようになっている気がします。

 自分の運命ですから、そんなに卑下することもなくそんなに驕ることもなく、目の前のことを能力をを発揮してこなすのです。大きな機械や自動車などと同じです。メインのエンジンや稼働を司る動力装置があり、実際に目に見えて働く部分、さまざまなサブ機能やめったに使われない非常用の機器や、装飾など全て含んでそれぞれが必要不可欠なものです。どこがエライ誰がエライもない、それが生物の社会でもいえるのです。

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