京都駅から東へ僅か5分ほど歩くと、一等地ともいえる交通至便の場所に京都芸術大学が移転してきました。ここは宗仁地区と言われた場所です。
大学からさらに東に入るこの建物は柳原という地域にあったことから柳原銀行と呼ばれたものです。現在記念館としてなってます。
かつて、このエリアは京都市内でもインフラも経済支援も遅れたいわゆる被差別地域でした。
今でこそ、鴨川は河原を恋人同士が均等感覚に寄りそう恋人たちのスポットで、木屋町や高瀬川は風情や活気のある歓楽街です。しかし、平安京の端の鴨川はかつて治水にも苦労をした土地で、定住するのは難しく、平将門、石田三成や石川五右衛門らの刑場の河原として知られていました。処刑に関わる仕事や、牛馬を殺し、革を細工する仕事は穢れた仕事として忌み嫌われて、不遇な土地を与えられて住まわされていました。その一つが平安京の京都市の南東部、宗仁地区です。
言葉を選ぶこと、どうもためらい勝ちになりますが、どう表現しても差別の時代であり不適切な言葉や表現も溢れていた時代からのことですし、あまり表現を抑えても内容が伝わらなくなります。ご容赦ください。
私の亡くなった母やら祖母などは戦前、戦後を通じて、この地区について他の噂されていたいくつかの地域同様「近づくな」と言い伝えられて来ました。京都の旧市内に住んでいた人にとって、他のさまざまな都の慣習と同様に、伝わっていったものなのでしょう。
そしてそう言った差別は、結婚や教育、ビジネスの場面にも暗然と存在していたのです。
インフラの贈れたこの地区には、昭和の高度成長期でもバラックのような建物がほとんどで、雨風をやっとしのぐものの、エアコンはおろか、上下水道、ガスや電気のライフラインまで遅れて、今の大災害にあった被災地の避難所以下のレベルのインフラが、高度経済成長も終わり、バブル景気頃まで整備されずに残っていたのです。
京都市が中心に、立ち退きを進めて多くは公営住宅に生まれ変わりました。外観の変化とともに随分と昔のような差別は減ったとは聞きます。
そこまで至るのに、多くの苦労があり、いろいろな政治のかけひき暗闘があったとも聞きます。
現在、写真の建物は、同地区の皮革業者などが融資をうけるために創業された日本で唯一の差別地区のための銀行でした。
都は美しい、政治や観光、宗教の中心でありながら、上品さゆえ一方で穢れを誰よりも忌み嫌うことで、根深い差別を産んだ都市でもあるのです。
今も不自然に残る空き地や、バラックの住宅はあります。京都の町は、美しいだけではなく、格差解消の厳しい葛藤の場でもあったのです。差別とかイジメのような行動は、無意識の中に誰もがしてしまいます。そこに悪気がないことそのものも問題なのです。幸い、令和の世の中は、さまざまな視点で物事を見て、考えられるような時代です。
情報は入手しやすくなりました。自分が楽しみ、稼ぎ、自分の立場を守ることが果たして、人を傷つけることがないか、さまざまな視点で考えることも大事でしょう。