【生存確認】から希望、再生へ

【生存確認】という言葉が、そこそこの年齢、まあ還暦過ぎのOB会や同窓の集まり、そのSNSの常套句みたいになって、個人的には少し違和感というか嫌悪感も覚えていました。
 いざとなると、家族がいて親しい親戚や近所くらいには連絡があっても、友人全部に訃報が流れないことの方が多いので、意味合いはわかるのですが。

 実際に連絡を取り合って音信不通の人が鬼籍に入っていることが分かる、連絡が取れれば生きててヨカッタということは確かにあります。

 昔の職場の集まりでも次回の約束時によく耳にし、加齢に対する自虐的なところがあってこの【生存確認】という言葉が好きではないのかもしれません。

 私は今幸い勤めていますが、カツカツの年金暮らしで身体が不自由だとかで、出不精になっている立場になったとしてどうなのでしょう。
「【生存確認】できた」と人から言われると嬉しいと感じるか、どちらかというと、私なら受動の立場としてはどうもいい気はしないと思います。


 それでも、やはりリプライがあり、メッセージなどが返ってくると、元気でいてくれた嬉しくなるものです。実質的には【生存確認】は必要で、そこからお互いに刺激となり、どういう工夫をし、希望を持って生きていくか、ヒントがあったりすればさらにいいということです。
 人間は刺激を失い、使わない機能が増えると、一気に老化し、寿命も縮まると言われます。逆に自分の居場所と役割があり、日々努力するものがあれば100歳でも生きる身体と脳を持っているそうです。

 【生存確認】から、【希望】とリスタート、リボーンへつなげるのです。

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