憧れるのはやめましょう 差別と格差の助長

 以前にも、高額報酬の方がエライのではないということを書きました。↓
 同期や同窓というのは、基本的に気さくなもので、公の場を除けばざっくばらんに役職や出世に関係なくフランクに話せるはずです。
 それでも「勝ち組、負け組」「出世頭」など格差を気にして、強調するイヤな言葉も耳に入ります。
 反面、今日もドラマなんか見てまして、きれいごとかもしれませんが、「平安貴族で身分が高ければ幸せではない」なんてのが耳に入りました。
 もちろん、自然に地位やお金が手に入ればそれに越したことはないかもしれませんが、他人から見て羨むものでもないのです。努力して手に入れば、当たり前でもありますし、背伸びして家族や健康やら犠牲にしていても幸せではないでしょう。
 マクドナルドのCEOのお話では、人生のジャグリングボールの中で、仕事は落しても戻ってくるゴムボールだが、家族、健康、友情のボールはガラスでできており、一度落せば壊れてしまうとされています。


 エライという定義もなのですが、社長や大臣、医者、教授、弁護士、一流アスリートやアーティストといった肩書を称え、敬い、憧れることは間違いではないです。無名人よりも、一目見たり、握手したり写真を撮ったりもしたくなる心理は私にもあります。ここを議論していると勘違いして来る人がいました。
 かと言って、本当に社会に貢献しているのは、高額報酬の人だけではありません。
 日々、農業や漁業、畜産で日本の食糧を支えている人、土木や電気、水道、ガスなどのインフラ、ライフライン、自衛隊や消防、警察などの現場にいる人がいなかったら、社会生活はなりたちません。
 この人たちが、高年俸で稼いで、すぐ辞めたら社会は困ります。

 世襲の、同族企業の何代目かの社長さんだって、もちろん苦労もあり、責任も負い、経営は楽ではなく、ボランティア活動で無償でゴミ拾いしているより、エラくないわけがないという議論もあります。
 収入や肩書は、それでも私のここでの論説中の基準ではエライのバロメーターではないのです。
 社長さんが平社員よりエラく、世襲よりも創業者、一代を築いた松下幸之助、稲盛和夫とかの創業社長はもっとエライという議論もありますが、エライの意味合いもいろいろ違います。伝説であり、時代も違い、美化もあり、もはや比較もできません。織田信長とか聖徳太子と比べるのと同じ、今そこにいないので自分と比べてエライも何もないのです 
 一代で巨万の富を築いたとはいえ、GAFAやIT長者、ベンチャー社長が必ずしも尊敬されているわけでもありません。
 だいたい、社長よりも現場のエンジニアや営業、事務がエライものなのか。
 大学で教鞭をとる人は、高校や中学の先生よりもエライのか。
 病院の院長は、当直医師や、看護師よりもエライのか。
 大臣や官僚、国会議員は、自治体のインフラ支える職員よりも、給料に見合って大変な仕事をしているのか。
 電力会社の社長だって、原発作業員よりハードな仕事をしているのか。

 お金をたくさんもらっているとか、役職や肩書が大したものじゃないのは、十分証明されています。
 森博嗣さんの著書も紹介しましたが、成田悠輔さんもSNSで言ってました。
 社長なんて一人の力で成れたわけではない。
 社内営業、コネ的努力。幸運や人の引きや、時代背景など、さまざまな偶然が重なって、稀有な運命でその立場になるのですが、その過程は決して尊敬できるものではなく、「ラッキー、ついてた」「したたか」という妬みの言葉しかないものです。
 その程度のものです。偉人もいますが、努力もあれば、幸運も大きいものです。憧れるようなものではないのです。
 〇〇士とか、〇〇ナーとか〇〇タントなど、資格だと言って、ピンキリですが、お金も時間もかけその仕事に就く努力をしたのだから、当たり前。その分、高額な仕事に就きやすい。それだけです。それ以上でもそれ以下でもないことです。幸運な人を尊敬し、不運な人を蔑視するのは、逆です。
 「憧れるのはやめましょう」
 

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学歴、職歴、収入、資格がエライわけではない – 天使の星座 (seizafpkotodama.com)

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