鉄道に全く興味のない方は、鉄道ファンがさらに細分化されることなど知らないし、「乗り鉄」「撮り鉄」ぐらいまでは分かっても「音鉄」「葬式鉄」となると難解で不気味ですらあるかもしれません。
「廃鉄」と言われる鉄道の廃線跡を回る趣味は、鉄道そのもののマニアというよりも、お城マニア、ダムマニアなどと同じく古い町や建物、文化財などの遺産をめぐるイメージに近いです。
私が日本の遺産とも言える、鉄道遺構をめぐり、その町に溶け込んだ様子を見るのも、歩いてその時代からのの変遷を見る楽しみです。変わったもの変わらないモノを見つめ、栄枯盛衰の哀れを知れます。
そういう意味では、舟運からの時代、町としては北前船が停泊したり、風待ちをした港町、かつてはターミナルだったり、乗り換えなどで栄えた時代のある廃駅のある町などは面白いです。
北陸本線の明治15年開通当時の旧線を、トンネル遺構を含めて何度かに分けて散策しました。滋賀県の一番北にあった余呉町という町は、今の北陸本線でも余呉駅という余呉湖という小さな湖近くに田んぼの中の小駅があります。湖の周りをサイクリングしたりする拠点には便利ですが、町からは離れています。今のルートは湖東を長浜から木之本まで北上した後、西寄りに曲がり、この余呉駅、湖西線と合流する近江塩津駅を経て、福井との県境をループ線で、新疋田駅に向かい敦賀駅へと至ります。
滋賀県最北の自治体だった余呉町の中心部は中之郷という、木之本からまっすぐ北上したルート上にあり、ここに中之郷駅がありました。今は国道になって、駅名標がモニュメントとして残っています。このさらに北側に柳ケ瀬という集落と急な勾配、柳ケ瀬トンネルという、当時日本最長のトンネルという難所があり、そこへ向かう転車もできる準備の拠点だったのです。
明治時代の技術や動力で、県境の山を越えるのは大変なことだったのです。結局、この難所もトンネルでの窒息事故などもあり、戦後すぐには現在のルートにつけ替わりました。中之郷駅も昭和39年には、支線として残った柳ケ瀬線とともに廃止となり、余呉町は町の中心の駅を失います。町としても長浜市に吸収されるように合併されてしまいます。
北陸本線は、新幹線の整備で、大部分が第三セクター化されて、関西からのメインルートはとうに、湖西線の特急に移り、さらに大阪への延伸でその湖西線すらどうなるかわかりません。
かつては、徒歩、舟運や牛や馬でようやくモノを運び、人が行き来したのに鉄道ができて大いに便利になり、支える人が集まり賑わった時代があったのです。昭和の40年代ぐらいまででしょう。
クルマのある家は増え、公共交通機関の採算が合わなくなり、駅はひっそりとその役目を終えていく、そんな郷愁と歴史を味わえるのが「廃鉄」の楽しみです。