1945年太平洋戦争が終わっても80年経とうとしている今でも、兵庫県の中部に戦闘機が飛び立った滑走路が当時をしのばせる形状のまま残っています。
兵庫県は瀬戸内海寄りに都市が集中し、北部と中部は小さな市や町がほとんどで、それほど開発されなかったのも要因でしょう。1,2キロメートルの平坦な直線がたまにクルマが行き交え地方道に平行して、ところどころ草生したバッタや蝶が飛ぶ、知らない人が見れば異様な光景です。
そこに、特攻に向かった白鷺城から俗称白鷺隊いわれた姫路海軍航空隊の神風特別攻撃隊、戦争末期もはや熟練のパイロットは激減し、年齢も10代も含む若い招集軍人の割合が増えていました。
父母や妻子に宛てた手紙の、切なさには重くジンとくるものがあります。
日本人は真面目に上からの指示に従い、国の命令を半ば盲信し、社会全体で戦争を進め、引き返す勇気もなく、理不尽な泥沼に多くの若者が引きずりずりこまれました。
この平和な時代に残された、80年前の遺構に飛び交う虫たちは時の移ろいを見てきたのでしょうか。あるいは誰かの魂を受け継いで、無念の思いを後世に語っているのでしょうか。
大きな防空壕が残っています。そこで、ミニシアターのようなプロジェクションで特攻前夜のパイロットたちの思いが語られます。創作もあるでしょうが、場所が場所だけに何か霊的なものを感じます。
戦後生まれ、戦争を知らずに育った私たちですが、子供の頃、戦争はすぐ前の時代だったので、親や社会にはその爪痕がしっかり見られました。いつの間にか軍歌とか引き上げの歌を口ずさみ、戦争のマンガやドラマもよく見ました。語る人、作り手は戦時中の厳しさ難しさも良く知っていました。
コンクリートでできた大小の防空壕が点在しています。軍事施設なので、街中のものより立派なのでしょうが、暗く狭いものや逃げて来た人であふれてトラウマになりそうなイメージもあります。閉所恐怖症や暗闇が怖い方、妙齢の女性や子供なども本当に大変だったでしょう。
戦争が良いも悪いも本当な分からないのです。それでも80年前戦争があったことは、間違えずに伝えていかないよいけないことです。