年金問題は奥が深く煩雑です。今も年収の壁問題や、非課税世帯への給付などが連日話題に なり、少し物価が上がると年金生活の人は苦しいと騒がれます。
非課税の年金世代にも壁があり、給付をすれば壁は高くなります。また今、年金を既得としてもらっている世代の人は原則下がりませんから、団塊世代以前からのサラリーマンで定年まで勤めあげた人などは比較的悠々な年金生活を送った状態が続いています。高額の高齢者施設、介護やケアのサービスもビジネスとして成り立ち、シニアをターゲットんしたクルーズやグルメなども盛んです。是非は別にして、生産性の高い年代に比べて経済の流れというかが何か変な方向に向いていて、寿命や生命の尊厳もビジネスになり、ただ長生きしていればsこには国も医療機関もコストをかけることを誰も否定できません。
そんな時、ふと昔の価値観、生命観を思い出させ、考えさせられるものがあります。
「楢山節考」深沢七郎の小説。昭和33年木下啓介監督、田中絹代さん主演での映画化、そして二度目の映画化昭和58年の今村正平監督、緒形拳、坂本スミ子さんのもの、私は二度目の映画を劇場で見て、重いインパクトを受けました。しかし、当時はその重さの意味が本当には分かっていない20代でした。
【以下 ネタバレ、ストーリー】
信州の山々の間にある貧しい村に住むおりんは、「楢山まいり」の近づくのを知らせる歌に耳を傾ける。村の年寄りは70歳になると「楢山まいり」に行くのが習わしで、69歳のおりんはそれを待っていたのである。山へ行く時の支度はずっと前から整えてあり、息子の後妻も無事見つかる。安心したおりんは自分の丈夫な歯を石で砕く。食料の乏しいこの村では老いても揃っている歯は恥ずかしいことであった。
「自分が行く時もきっと雪が降る」と、おりんはその日を待ち望む。孝行息子の辰平は、母の「楢山まいり」に気が進まない。少しでもその日を引き延ばしたい気持ちだったが、長男のけさ吉の妻はすでに妊娠5ヶ月で食料不足が深刻化してきたため、家計を考え、急遽早めにおりんは山に行くことを望む。
そして、その最後の日、辰平は禁を犯して山頂まで駈け登り、念仏を称えているおりんに「雪が降って来て運がいいなあ」と呼びかけた。おりんはうなずいて帰れと手を振った。--村に帰りついた辰平は楢山をのぞみ見ながら、合掌していた。
ただ、その情景だけが登場人物とともに描かれる。
現代人が失った生命の尊厳を問い直す「棄老」の物語。
そこには、悲しみや怒りも、主張もなく、ただ自然とともに力強く、生きて死んでいく姿があり、おそらく、この人の生き方は現代人よりてらいなく濃密なのろうと想像させます。
現代の寿命、生き方、高齢者の福祉や介護、経済や食糧事情、環境も全て違います。60や70になっても、今の世代の高齢者は歯を折るどころか、行列のできるような名店や、ミシュランの三つ星グルメ店で、豪華な食事をして写真をアップしています。
あるいは、そこまで恵まれない裕福でない老人は、家族に養われることもなく、年金だけでは生きていけないとイラ立って国を責めているかもしれません。
「棄老」姥捨て的発言は暴論で、炎上してしまう何もかも違う時代、閉塞した高齢化社会だからこそ、何か次の考えを馳せるとき、「歯が揃っていることが恥ずかしい時代」を省みることも必要ではないかと思います。かつては「老人ホーム」に親を居れることは「棄老」「姥捨て」と罪悪感を持って言われまいしたが、そんなことも時代により変わっているのです。もうこの話に描かれた、高齢者を捨てる家族すらいない時代です。
高齢者は自立して福祉を勝ち取り自分勝手に長生きするだけの爛れた国家が残っているというのは暴論でしょうか。