国民年金の父と厚生年金の義父、それぞれの生きざま

 私は商店街の店舗兼住宅の「商売屋」に生まれ育ったので、父は少し勤めにでていた期間を除き当然ほぼ「国民年金」です。還暦を過ぎて、母とともに年金を貰いだしたはずですが、商売で稼いでいたので、年金など雀の涙でとても暮らせるものではないと言っていました。商売の時の在庫を処分して、父は80過ぎまで結局店を続け、貯えを母に残して、死ぬ直前まで店を開け締めし、商店街に貢献していました。
 定年ということを知らず、老後に悠々と旅行に行くとか、趣味に興ずることも少なかったです。植木や園芸は好きで、店先や屋根裏に花を育てていましたが、商店街や業界の会合にこそ行くものの、他に遠くまで遊びに行くことはなかったはずです。昭和一桁生まれの、兄たちは戦争に行った世代です。ギャンブルもしませんし、お酒も付き合い程度で、京都ですが祇園などの花街に出かけることもない下町の自宅での飲食がほとんどだったと思います。商売を大きくしたわけではないですし、堅実に働き、二人の息子の大学も行かせてくれて、それなりに不自由はさせないで育ててくれました。

 義父、妻の父は少し年は下になります。こちらは典型的なサラリーマン、銀行というか信用金庫で、支店長まで勤められたので、定年退職後は厚生年金で、企業年金や個人での年金もあり、60歳以後は少し嘱託をやって後は働かず悠々自適です。健康のため、山歩きをされ、退職後の方が随分スリムにはなられました。お酒はよく飲まれる方で、胃がんの手術はされました。
 さすがに、80を過ぎ足腰も弱り、軽い認知も入ってきているようですが、完全な健康体とは言えませんが、まだまだ健在でおられます。山歩きと、お酒は飲みながらも節制が良かったのでしょうか。何より、商売がらしっかり財テクの知識があったので、

 私の父らの世代は、年金とくに国民年金の周知はそれほどではなく、3号制度も昭和61年からなので、満額の国民年金の人も少ないようです。農家など自営業の方は、高齢でも働くのが当たり前、子供らも家庭で老後の親を支えるのも当たり前の社会だと思われていました。老後への漠然とした不安はあっても、高齢者施設や介護保険制度などは、親の世代は若い頃自分たちが世話になるとは思わないばかりか、存在も無かったのです。

 しかし、長寿化、高齢化の社会、平均寿命の伸びはこれからではなく、今の高齢者、戦前生まれの方も含んでのことです。定年が55歳の時代からの人も、80歳まで25年以上生きている場合が多いのです。
 高度経済成長を支えた、父や母の世代、生きざまを参考にしながら、今の60代以下の人間はこれからさらに長寿になるかもしれない社会を想像し、長い人生を考えないといけないのです。人生100年時代と、言葉だけでは聴いていても、実際に60歳で燃え尽きるように生きたとしたら、残り40年に対して準備するところが無ければとんでもなく寂しい人生になります。もの心ついてから半分くらいの時間が、昔の概念では老後として過ごす算段がいるのです。

 お金のこと、健康のこと、仕事や趣味など生き甲斐のこと、それぞれリンクもしますが十分に考えないといけないことです。
 そういう面では、自営業とか、手に仕事を持って生き甲斐にしているとか、老後も半隠居でも居場所があるような家業のある人はいいかもしれませんが、なかなかそれだけうまくある人ばかりではないでしょう。

 まだまだ働き手は必要です。社会参加や地域の秩序を維持をするため、無償で町の見回りをするとか、統計や要望の吸い上げ、提案や意見、アンケートなどをするカンタンなジョブをこなすのが仕事として成り立てばとも思います。ベーシックインカム的な収入が得られる仕組み作りができるか、これからの国の喫緊の重要な課題です。

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