書評:関幸彦「刀伊の入寇」王朝からの防衛問題

 今日、この書評を上げるのも、分かる人には分かるタイミングではありますが、源氏物語の描かれた貴族の摂関政治平安時代にも対外防衛、戦争、軍事、外交という話があったのです。

 対外戦争というと、専門の軍隊があり、軍人や兵士がいて、政府が相手国に宣戦布告して国際法にのっとって、戦争が始まるというやり方は、ごく近代の話です。

 今も局地戦は、民族間の略奪のような小さな争いごとから始まっている場合もあります。
平安時代は、大和朝廷もまだ蝦夷を完全に駆逐したわけでもなく、沖縄は別の独立国、北海道も未開地でした。朝鮮半島は新羅と戦闘状態になったこともありました。
 優雅そうに見える平安貴族ですが、近代的な軍隊は有していなくても、国内をまとめるのにも弓や剣の武力は持ち、兵(つわもの)、武者を要し鍛えてはいました。

 私も含め、初見の人もいるかと思います。学校で出る歴史教科書にはあまりでていません。学校で習う日本史ですら記憶が曖昧な者には背景さえおぼろです。
 その国家を蹂躙する略奪者が来たのが道長の時代、寛仁3年(1019年)3月末から4月にかけて、女真の一派とみられる集団を主体とした海賊が壱岐・対馬を襲い、さらに九州に侵攻した事件です。刀伊(とい)とは、高麗語で高麗以東の夷狄(いてき)である東夷(とうい)を指すtoiに、日本の文字を当てたとされています。(wiki参照)
 国家間の戦争というよりも、朝鮮のさらに北方のいわば蛮族が集団で舟で略奪に来たわけですが、そのスケールと残忍さには驚きます。
 元寇は有名ですが、それ以前の日本では最大級の対外危機でした。
 食糧や衣類を強奪、牛馬を食べ、働ける男子は拉致して奴隷にして、女子供、老人は惨殺したようです。死者364人、被虜者1289人、牛馬被害380頭と書にはあります。
 情報伝達の遅い時代で記録にももちろん詳細は遺りずらいものですが、朝廷がその情報を聞き、大宰府が対処して行ったのが、迅速だったのか後手だったのかも想像しかできません。

 某国の拉致被害がそれだけでも、大きな問題になりますが、国家安寧という面では、この規模の危機は絶対に手をこまねいていてはいけない事態です。

 戦後教育の中で、平和憲法遵守、非武装、戦争放棄、武力の不保持ということを金科玉条のように信じ込まされている人がいます。
 戦後の一時期、非武装を唱えるトレンドが学者や文化人、作家などでもよくいました。
しかし、国家の存亡、尊厳の喪失、国民の被害に対して備えは無ければ、国体を維持できないのは、この歴史的事件でもよくわかります。
 結果、この時代も日本が良く戦い、気象の運、高麗の協力もありましたが、刀伊を駆逐しています。
 武力をもって、ならず者を倒すのが正しいのか、武器を持たないでやられるままかは議論の余地のないところです。

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