「逃亡」「争議」から「バレーボール」近代日本を担った産業とは

 年末年始、少し休みも長いので、多読乱読しようと、いくつか目を引いて手に取った本を買ったり、借りたりしました。

 なぜ、東京なのかというとあまり意味はないのですが、あえて薄い線でいうとべらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜つながりの江戸でしょうか。
 実は、この本の第Ⅱ部第6章において40ページ弱も割いて「女工たちは語ることができるか」と題して、紡績工場とそこで働く女性労働者のことが書いてありました。

 退職直後なので5年ほど前に、カネボウの昔を調べ、創作をしようとして紡績工場の労働実態を調べようとしたことがあったのですが、現代文で書かれた物が少なく難解でお手上げでした。
 その時、あたった文献も含め、平たく、鐘紡も含めた紡績工場の女工とその労務管理について書いてあります。

 日本の近代化への道を支えた紡績、繊維産業がその成り立ちからより理解しやすくなっていますし、東京綿商社という鐘紡の前身が他の工場とともに墨田川べりに当時としては大規模な工業地帯を形成していた時代があったのです。

 当初、士族の娘が、女工についたのですが、工業化と社会の変化で女中奉公も減り、女性の働き口として人数も求められて、大規模化し組織化して、過酷な労務管理下におかれます。

 逃亡や脱走もあった中、「虐待」など過酷なものもあったようです。やがて労働争議という問題も出だします。鐘淵紡績は武藤山治社長の時代に、労使協調路線を先駆けて打ちだし、労働者の待遇改善、福利厚生に取り組み、民間企業では日本初の年金制度も取り入れました。
 大正中期には、各地の工場が、女学校の寄宿舎ぐらいの団欒とした集団生活で規範もでき、教育や娯楽も備えて、何年かすると嫁入り支度が整うか、監督や主任職に回るキャリアができていました。
 その娯楽のひとつに「バレーボール」もありました。当初は設備もコーチも整った裕福な子女の通う高等女学校の強かった競技が、やがて紡績工場の強豪チームが主役となります。戦後の高度経済成長期までをリードした繊維産業、紡績工場のチームが東京オリンピックも主力だったのはうなづけます。
 男性の過酷労働は、鉄鋼や化学工場や炭鉱労働などこれまたさらに体力を要し、危険なものが沢山あり、それらももちろん日本の近代化を支えました。鉱山労働の方の年金制度も早い段階で危険なものと認定され、手厚く進められました。

 戦後と簡単に括りがちですが、東京や大阪のビル群や洒落た街並みも50年ほどさかのぼると泥臭い工場だったのです。日本は、そういう汗と泥の中から、発展したのです。

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