かつて相撲界には〇〇時代があった 入院後も休まず27歳で急死した最強の横綱がいた

 1月と2月の大相撲カレンダーに載っている横綱が2月を待たず引退してしまいました。洒落にもならないような話です。

 横綱の貫禄とか出場を決める興行の在り方も、昭和の時代とはエライ違いで、そもそも国技と言いながらも日本人のトップは久しくいません。横綱が在位していても全休の場所が半分近くあり、出場してもすぐ休むという詐欺まがいの興行と言えなくもありません。
 私が小学校時代に、家に初めて届いたカラーテレビで夕方に映ったのは相撲のお相撲さんの姿でした。当時は少し円熟期を迎えた、国民的英雄の大鵬という大横綱がいて、ライバルの闘志あふれる柏戸という横綱もいて、しのぎを削る柏鵬時代の末期でした。
 その大鵬が、若手の先代貴乃花(若貴の父)に敗れ引退したのが1971年、大阪万博の翌年半世紀以上前、まだ私が小学校の6年になった時のようです。貴乃花は小兵で、人気はありましたが大関止まりで横綱には遠かったです。息子二人がその座に就くとは当時思いもしませんでした。柏鵬の後を継いだ時代は、昨年11月82歳で亡くなった北の富士のっ北玉時代です。解説者としての期間の方がずっと長く有名になりましたが、男前で人気もある横綱でした。その名前の玉の方はライバルは玉乃島改め玉の海で小柄ながらも力強く、玄人受けする上手い相撲を取った横綱で人気を二分して、北玉時代が到来したといわれました。
 今よりも厳しい横綱昇進で二人は二度ほどチャンスを見送られます。一人横綱の大鵬の後を継ぐのが明確になる活躍してきた二人です。この時代の名称はその後横綱に同時昇進した不世出の二人のライバルにふさわしかったのですが、長く続きませんでした。
 横綱昇進後は14勝1敗を4場所続け、その後13勝2敗でその次に全勝優勝、それでもこの間に大鵬や北の富士も優勝していて、今では考えられないハイレベルな3人の横綱による優勝争いでした。
 その全勝優勝玉の海が本人の6度めにして最後の優勝になっていまいます。子供心に強い横綱がと信じられない突然の訃報が入ります。なんと技量では北の富士を上回ると言われた横綱玉の海が27歳で急逝してしまうのです。
 以下はWIKから引用です。(太字は私が)
 
 全勝優勝を飾った1971年7月場所前後に急性虫垂炎を発症、夏巡業の最中にその痛みに耐えきれずに途中休場するなど容態が芳しくなく、早急な手術が必要だった。しかし横綱としての責任感と、同年9月場所後に大鵬の引退相撲が控えており、手術して本場所を休場すれば大鵬の引退相撲にも出場できなくなるため、痛み止めの薬を刺し続けながら9月場所に強行出場した。この場所は肋骨を折ったにもかかわらず12勝を挙げたが、これが結果として玉の海の生命を縮めることとなってしまった。

 10月2日の大鵬引退相撲では、大鵬最後の横綱土俵入りで太刀持ちを務め、翌日に行われた淺瀬川健次の引退相撲にも出場した。玉の海は出場後直ちに虎の門病院へ入院して虫垂炎の緊急手術を受けたが、腹膜炎寸前の危険な状態だったという。その時点での手術後の経過は順調で、10月12日に退院する予定だった。なお、この時点で11月場所の出場に関しては未定だったこともあり、本人も「退院後すぐに相撲は取れないが、(巡業先では)土俵下から挨拶でもしよう」と親しい人たちには伝えていたという。

 ところが、退院前日の10月11日午前7時30分起床して洗顔を終えて戻ったところ、突然右胸部の激痛を訴えてその場に倒れた。その時、既にチアノーゼ反応が起きており、顔は真っ青だったという。意識不明の状態で医師団の懸命な治療が行われ、一時は快方しかけたものの、その甲斐もなく午前11時30分に死亡が確認された。27歳だった。
(引用おわり)

 今の横綱では考えられないほど無理をしていたのでしょう。医学、救命措置や生活習慣予防も今のようには進んでおらず、軍隊式の無理が通った時代で、それがいいとか悪いではないですが、命を削ったのは間違いないです。北の富士関や玉ノ海、この時期以降昭和の横綱になった力士もスパルタで鍛えられて、その後もパワハラ的シゴキをやって問題になったりしています。

 この悲劇以降、それでも相撲の世界にも力士の健康診断や、公傷制度も出来ました。

 その後は北の湖と輪島の輪湖時代と言われる時期がありました。無敵の強さでふてぶてしい北の湖に学生横綱から渋い相撲で上り詰めた人気のあった輪島が食い下がる時代でした。
 その後はライバル二人と言われるほどの時代ではなく、一強という感じで、千代の富士時代、貴ノ花が絡むものの曙時代、朝青龍、白鳳と外国人横綱の時代という感じでしょうか。日本人は本当にトップからは遠ざかりました。

 新時代は来るのでしょうか、相撲界に大谷翔平のような逸材が生まれる日はくるのかと思います。
 それにしても振り返ると悲しいような玉ノ海関、ギターを弾きフォークを歌う一面もあったナイスガイだったそうです。27歳で、ライバルの北の富士さんの3分の1にも満たない年数の生涯だったのです。平成から令和まで生き通せた人もいるのにと思うと切ないです。

 

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください