「法は最低限の道徳」

 「法は最低限の道徳」という言葉が忘れられたような時代です。

 1年半法曹に関わる仕事をさせてもらい、毎日のように裁判や訴訟、処罰の接する稀有な機会を得ました。
 そこで改めて今の世の中に感じられるのは、政治や企業活動、人間の行動が法律にさえ触れなければ良いという、誤解が広がっているようなことです。

「法は最低限の道徳」とは、法は社会の秩序と安泰を維持するために最低限のルールを定めたものであり、道徳はより広い意味での規範であることを意味します。
 法は社会の秩序と安泰を維持するために国家の強制力を伴うのに対し、道徳は人間の良心に対する内面的な平和を達成するものという風に、定義されるようです。人を殺したり、傷つけることは法律にも反しますし、道徳にも反します。
 困っている人を助けたり、高齢者や病人など弱者にやさしくすることは道徳的ですが、法律で強制することはできないのです。
 インターネットや医学や科学技術が急速に発展し、サイバー犯罪が進化してきたり、今までで定義できない習慣性の薬物が出回ってとか、法律でさえ世の中の動きに追い付かない場合もあります。
 ましてや法律を作るのはご存じのように、立法府、あの「国会」です。現代の日々変化する社会にフィットした法律がアップデートされていく仕組みなど、早々期待できるものではないのは理解できるはずです。最近の総理大臣や居眠りしている議員、あるいは裏金もらってる議員をイメージしなくても、なかなか一つのことを決めていくのに、そう簡単にいかないのは「年収の壁」問題でも分かると思います。

 だから法律に触れないから何でもオッケーという考えが、高等教育を受けて模範となるべき政治や行政、産業の上層部の人間にさえ蔓延しているのが、さまざまな発言などで残念なことに感じられます。

 何か、あくどい商売で儲けても法律さえギリギリでも守っていればそれでいいのかというとそうででないのです。「法にさえ触れないとオッケー、法律を作らない国が怠慢」「法律すら守れない犯罪者や政治家だっているじゃないか」と開き直る人もいます。
 だからこそ、荒んだ世の中にしないためには、法律よりも道徳が大事なのです。

 法律は人間がその時の情勢を見て作っていますから、バイアスもかかり完璧なものではありません。ただでさえ、常人が覚えきれない数の法令があり、それを解釈した判例があります。それでも、世の中の活動の全てに法律があるわけではないのです。抜け穴や間違いのようなものもあります。
 国の法律ではないけれど、条令、社内の定款、内規、業界や地域団体の取り決め、校則などさまざまにルールと言われるものは存在します。
 それでさえ、人間の全ての行動を束縛できるものでもありません。もっと大事なこと、人が守るべきは「道徳」です。「道徳」は最低限が法という以上に、人間生活で大切なものです。
 法律の中には、「悪法」とまでは行かなくとも意味が分かりにくく、それで罰せられるのは可哀そうな定めもあるとは思います。
 ところが道徳の規範を人がしっかり持って、守っていれば、社会は明るく、住みよい社会、活気のある活動の場が増えます。

 かつて、規則の「空白の一日」という業界の規定の盲点のようなところをついて、志望のプロ野球球団に強引に入団した投手がいました。球界を支配する球団も政治力を使い受け入れて、他球団やファンをしらけさせました。
 法律が施行される直前に火事場泥棒のように稼いで逃げるような業者もいます。
 かつて、市民や生産者、業界の秩序を守るためにできた組合や業界団体なども、いつしか利権にまみれ利権を独占する金儲けだけに走る組織になっているケースも多いです。自分たちに都合の悪いものは排除し、自由な成長を止める定款を決めていたりします。

 しかし、そんなことを許す業界というのは、やはり世間からも内部にいる者からもいいようには見られません 旧態依然とした業界はやはり改革を迫られる時代なのです。

 裁判所や、第三者委員会、審査委員会のようなものが決めてくれるからというのではなく、誰にも後ろ指さされないような道徳を身につける教育が必要なのです。
 教育の問題は「無償化」だけではなく、世の中の流れを読み、道徳を修める人を増やすことです。

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