疎水、南禅寺、哲学の道の思い出

 九州南部は早くも梅雨入りしたようです。本来は旧暦の5月(今の6月)の梅雨の晴れ間のことを言いますが、現在は5月の晴れ日にも用いられています。
 少し動くとむし暑く、いわゆる薄暑とでも言うのでしょうか、初夏の頃に感じる、うっすら汗ばむ程度の暑さを感じました。

琵琶湖疎水、国宝が増えるのはいいけれど | 天使の星座

昨日、国宝指定になったからではなく、偶然同窓生と、南禅寺、哲学の道、銀閣寺と琵琶湖疎水あたりを散策することになっており、雨の中、件の水楼閣なども訪れました。

 映画やドラマのロケにも使われる、見事なレンガ造りのアーチ橋で、この上に京都市北部へと灌漑用水を運ぶ疎水があります。
 まだ独身だった頃、上司に紹介されたセッティングで東京の本社勤務の女性の方を京都案内するという、準お見合いデートで行きました。一般的な金閣や清水寺でなく、たまたまテレビか雑誌でここキレイなだあと思った南禅寺と、その中のこの偉容の水楼閣に行き、2ショット写真も撮りました。
 もう30年以上なので、その後の交際の行く末の記憶というのが、あいまいですが、いい雰囲気では別れて、お互いの印象は悪くなかったです。
 元本社にいた上司の推しでしたが、本人にはお礼の電話をしましたが、当時はLINEなどでのアドレス交換もないですから、それはそれでいきなり遠距離恋愛にもなり、次はこちらが東京に行って案内をしてもらうのが流れなのでしょうが、そこまでの積極性がなく、もちろんもう一度彼女からの連絡もないままで、(大幅な省略、その後結婚)現在にいたります。
 そこで上手く立ち回っていたら、本社のエライ人の姪っ子さんなので、いろいろ運命も変わっていたでしょうが、今の妻との子供は存在しなくなる世界線になってしまいます。

 その水楼閣の先には、疎水分水の豊かな水を明治40年代に利用して作られた、京都で最大規模の工場がありました。私が入った会社、鐘紡(カネボウ)の本体、繊維部門の大きな工場が高野橋近く、今の高野団地、阪急洛北スクエアなどの一帯にありました。私たちの中学の頃に、すでに市営団地と、高野アリーナ、ホリデイイン京都に建て替えられていますので、化粧品主体の鐘紡工場と言ってピンと来る人はもう70代以降の方のようです。
 高野団地の一角には、レンガ造りの建物が団地集会室やモニュメントとして残っています。

 昭和57年に入社した時には、歴史のある戦前から日本を代表する企業で、待っていたのは大層な入社式と、厳しい教育と小うるさい先輩たちでした。
 関西の教育施設での長い研修期間でして、たまの休みに、80人くらいの同期の中でウマのあった、東京の方の大学のNとKという3人で出かけ、私が梅田の地下など関西を案内しました。京都に哲学の道というのがあり、いつか一緒に行こうということを話していました。
 入社早々、伝統とは言え過去の慣習、栄光にしがみつく姿勢や、販売部門の体育会系ノリに、肌が合わない3人で、浮いた存在でもありました。
 研修期間が終わり、各配属が全国に散り、見習い期間を終え、営業部門に本配属になっる前に、NとKは辞表を出したと噂を聞きました。
 その翌年だったかに、Nから国家公務員1種(現国家公務員総合、キャリアの入り口)の試験に合格し、外務省に入省が決まったというハガキが来て、その連絡文には「いつか、井上と哲学の道を歩きたい」と書いてありました。

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 Nは、その後外務省で眩いような活躍をし、広報責任者から、中東の国の領事を経て、今はアフリカの某国大使になっています。
 雲の上の人みたいに、昇進していて、さすがに連絡はないですが、いつかどこかで出会える気はします。
 私は36年鐘紡という会社の盛衰を見極めて、定年後公務員のお手伝いのようなことをしていますが、若い頃から公務というのは、やはり性に合わなかったのかそういう運命なのかと思います。
 同窓生、同期生見ていても、本当に人生のその先は分からない、人はそれぞれの道であり、哲学の道に碑のある西田幾太郎の言葉通りです。

「人は人、吾は吾なり、とにかくに、吾行く道を、吾は行くなり」


 カネボウ入社当時、見習い日誌というのを毎日書かされていたのですが、こういうブログ調に書いてて、Nくんは井上のそれは普通のヤツと違うと絶賛して友達になりました。

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