
「カナソ・ハイニノ国」旧国鉄が赤字ローカル線の廃止を進めていた1984 (昭和59)年、当時の中町商工会青年部有志が鍛冶屋線存続運動の象徴として建国しました。旧中町側から鍛冶屋-中村町-曽我井-羽安-市原-西脇-野村の全7駅の頭文字を取って難解な国名が誕生しました。
1980年代、井上ひさしさんの『吉里吉里人』に端を発した吉里吉里国をはじめ、ふるさと創生ブームに乗り、全国に誕生した多くのミニ独立国の一つで、今ならファンドやふるさと納税なのでしょうが、国債なども募っていたようです。
「カナソ・ハイニノ国」はローカル線維持という、極めて実利的な政治課題のために作られた国です。

今回、廃線跡をたどるツアーに参加し、当時の「カナソ・ハイニノ国」官房長官を務めたかが、語り部のように案内をしていただきました。
鍛冶屋線の廃止への経緯に関しては、不運な面もありましたが、35年を経て地方では鉄道が個人の移動手段としても物流の機能としても、役目を終えてしまった時代に入って、語り継ぐ歴史も風化してきています。
昨年、市原駅跡以北の全線歩いては行けなかった鍛冶屋線跡を今回、バスも借り切りのツアーで終点鍛冶屋駅跡まで訪ね、役場の関係者さんはじめ、地元の語り部や、ツアー関係者、多くのファンの方とお話できました。
当時の国と国鉄の融通の利かない特定地方交通線の方針、で、加古川線の支線3線はそれぞれ数奇な運命をたどります。ミニ独立国は、平成2(1990)年3月31日、関係者の涙ぐましい努力空しく、愛された鍛冶屋線は多くの人に惜しまれ、見守られながら廃線となり、ミニ独立国もその設立意義を失い解散となります。
改めて、画像や映像、資料を見て、今の赤字ローカル線よりはるかに存続してもよさそうな活気があたようです。今、廃止といってもマニア的な葬式鉄は集まるものの、実質は普段ほとんど利用されない路線がほとんどです。
前にも書きましたが、国鉄は線名毎の輸送人員で特定地方交通を決めたことが鍛冶屋線の悲劇でした。鍛冶屋線は本来、加古川線の西脇市(当時野村駅)西脇市街の西脇駅までが大正2年に播州鉄道として最初に開通しました。その後、大正12年までに市原、中村町、鍛冶屋まで延伸しますが、大正13年に西脇市側が野村から福知山線の谷川まで延伸して加古川線となり、鍛冶屋側が鍛冶屋線という分岐する支線扱いになったのが悲劇だったのです。
1995年の大震災が促進したもの 兵庫県のローカル線 | 天使の星座
加古川線野村(現西脇市)~谷川間は集落の少ない閑散区間でした。今も2~3時間に1本しか電車の通らないJRのお荷物区間で優等列車はもちろん加古川への直通列車は昔も今もありません。これに対し、鍛冶屋線は鍛冶屋から加古川線に乗り入れ神戸方面への通勤通学や用務客も多かったのです。線名ではなく、区間ごとの乗降客数、きめ細かい車両の運用まで判断して、地方特定交通を決めれば、廃止するのは西脇市~谷川間で、鍛冶屋駅もしくは、西脇市の中心部の西脇や市原あたりを加古川線の終点としていた方が、実情にあっていたのです。
ところが、例外を認めだすと、支線名を変えたり、地元からの要望を聞き、ぐちゃぐちゃになるのを恐れ、国は線名基準を頑として変えませんでした。そして、運悪く兵庫県も第一次のの特定地方交通方針で三木線、北条線の三セクを三木鉄道(廃止)、北条鉄道として受け継いで大赤字となり、もうこれ以上赤字路線を抱え込みたくないので三セクとして受け入れられずに、鍛冶屋線の命運は尽きました。
現在、かろうじてただ一つ生き残った北条鉄道は、厳しい環境ながら牧歌的でノスタルジックな旅情あふれるローカル線として頑張っています。
ツアー参加者に、北条鉄道沿線のファンの母娘が来ておられて、エールを送りました。
クルマの保有台数が3桁ほど違う時代で、荷物もトラックが運び、全国に高速道路が整備された時代に入り、ローカル線は牧歌的に残るか、廃止されて産業遺産となるかです。
それでも地方と都会の格差は少なかったのか、間違いなく日本に活気があふれていた時代です。

