思い出の街の変貌と静寂

 

先日、大阪に暑い日に、水に映える建物の図書館があると聞き、大阪府松原市を訪ねました。
この町は、43年前、化粧品メーカーに入った社会人一年目で初めて営業を任されたエリアです。北は大阪市南部、西南部は堺市、東部は羽曳野市、藤井寺市、八尾市に囲まれた、人口12万人あまりで南北の政令指定都市に比べると小さめの市です。
2年ほど右往左往した思い出深い、新人向けのエリアでしたが、中心部にダイエー、イズミヤがあり、そこを除くいわゆる路面にある一般のお店を担当していました。ドラッグストアはまだなく、コンビニもやっと出来はじめたばかりで、当時は個人商店の薬店、化粧品専門店が主力で、この小さな町に20~30店前後あったのではと記憶します。
京都市で15万~20万ぐらいの行政区に50とか100の専門店があった個人店の時代です。
当時でも、時代がかわりつつある兆候はありました。昔と変わらず、この市にはJRはなく、私鉄の近鉄南大阪線の、4つの駅があるだけです。当時から車での移動も便利で、阪神道や近畿道のインターがありました。
この写真の水面に浮かぶような図書館は、5年ほど前にできたモダンなデザインのものです。近鉄の駅の一つ高見の里駅の近くです。
その駅の周辺にも、何軒か担当した店がありましたが、今はすっかり変わりました。あちこちに大手ドラッグもできています。その当時も、公設市場が亡くなったり、高齢で後継ぎなく、廃業に追い込まれた店がありました。小さなエリアで2店も閉まると、営業成績は苦しく堪えました。
天美の駅から、少し東に歩いたところにあったタバコを扱う古いお店に、若いお嫁さんが来て、改装もされてイッキに売上が上がった時期もありましたが、もうその店もありませんでした。あの時若かったお嫁さんももう間違いなく60代後半ですから、40年の間にさまざまなドラマがあったのかは分かりませんが、残念です。
その駅の反対側には、Bというお店がこれも古くからあり、もうひとつ資生堂を良く売っていた老舗でOという店もありましたが、Bだけが残っているようでした。本来、Oの店がやっていそうな資生堂の専門店ブランドを、当時は垢抜けなかったBがサロン風になって引き継いで続けられているようです。
近鉄線とは離れた東北部に、三宅、阿保地区にもお店は点在し、阿保にあったNという薬店も立地は悪いところでしたが、半年に一度の催事は多くの美容部員を手配し、よく集客して良く売りました。店主もアイデアマンで当時若輩の私には随分年上の夫婦に見えましたが、子供も小さかったので30代前半ぐらいだったのでしょう。やはりもう廃業されているようです。薬の小売は一般の店では、全く大手に太刀打ちできない時代が来ていましたからでしょう。
河内松原、布忍にはそれぞれ小さなスーパーがあって、そのビルにテナントで入っている店がありました。Sという薬店も小うるさい親父で、相手するのがイヤでした。布忍の駅前のスーパーも見当たりませんでした。当時のナンバー1の店だったTという店もあったはずです。表彰店にもなったのですが、したたかな女経営者でした。近くの路面店のZはTよりも古くからある店でしたが、Tの勢いに押されて、いじけるように、自然派メーカーに傾いていかれたようです。当時、白髪の混じる奥さんがやっていましたから、代替わりしたのでしょうか、自然派の店で、ネットでもみつかり、古い店舗のまま健在でした。
駅の人の流れ、商業施設の人の流れは、塞翁が馬のように、経済、社会とともに時間がうねり、人々の運命も流れたのだと感じます。
近くに古墳があり、このようなため池もあり、マンションや住宅も増えたとは言え、ピークはとっくに過ぎ、人口は減ってきています。
昔は、最新式のポケットベルを持たされ、鳴動すれば、公衆電話か店先で電話を借り、得意先に電話して商用を聞くような対応もしていました。今はそんな公衆電話も消え、古い看板色を背負った商用車はおろか、それを迎えるメーカーの看板のある店すらありません。
それでも、近鉄以外の新しい鉄道ができたわけでもなく、街全体の大きな枠組みが変わっていません。線路も高架されることもなく、ICカード対応になったぐらいで駅の構造そのものも変わっていないでしょう。電車から見える街、駅から少し歩く市内の様子としては、40年、そうは変っていないものです。モダンな図書館、ドラッグストアやコンビニは時代の変化を、ため池や鉄路は不変の静寂を象徴しているようです。
おそらく、戦後80年の間、前半の40年の方が劇的な外見変化があったのでしょう。後半の40年は内面的な変化と言えるのでしょう。
どうでもいいような思い出からの雑感です。

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