
ある意味、移動の費用などを考えると贅沢な趣味とも言え、企画されたツアーなどもかなり高額でも満員です。とはいえ、メディアや本、ブログなどで紹介されているので言ってもみると、人っ子一人いない場合もよくあります。
それなりの地位はある鉄道趣味の、廃鉄部門ですが、まあ空いていることは待ち時間や喧騒が嫌いな人には静かで、郷愁をそそりまったりした時間を過ごせます。ゲームやオリエンテーリングのようい、身体を動かしながら、知的な探求心を少し満足させられる時もあります。

かつてはそこに、鉱山や工場があったり、林業や農業、漁業の産物を運ぶ拠点駅があり、車両や機関車の付け替えも行われた賑やかな駅が、今は無人になり、廃駅となって遺構だけが残る。そんな哀愁を誘っている情景に出くわします。
駅員や鉄道関係者だけでも多くいて、駅前には商店が並び、銀行も郵便局もあれば、旅館や映画館、遊戯場、病院や学校もあった大きな町構えが、今は古い看板だけを残してさびれています。

齢66にもなると、人生の峠はさすがに超えて、この鉄道たちの残滓に、思わず自分を重ねてしまいます。
昔は良かったと振り返り自慢するのは嫌がられそうですが、街や鉄路の盛衰、興亡というのも、こんなものかと、興味深く見られます。
同時期にできたもの、栄えた街でも、今も元気な街もありますし、どこかで分かれ道があり、廃れた街や施設があるわけです。

電車や施設を利用するには新しいほうがキレイで機能も優れ、便利でいいに決まっています。しかし、遺構を見る時は、また感覚が違うのです。
そして地図を見て、探し歩き、実際にたどり着いた時の愛おしさは格別なものがります。
やはり、映像とかだけでは分からない、感じ取れない何かがあるのです。

幸い、股関節の傷みが、完全とは言えないまでもだいぶマシになりました。また、随所に歩きに行きたいと思います。
朽ち果てて森の中に残る線路も、少しの跡かたを残し消えた線路、今爆走する車両を支える線路、それぞれの人生のようでどれが幸せかも正解もないのです。
