
いわゆる「トロッコ問題」のように、古代ギリシャの時代から哲学者たちは「思考実験」を “考えるためのシミュレーション・ツール” として用いてきました。身体と脳・自意識・生命倫理・言語・宗教・芸術・環境・格差など、多岐にわたるテーマから選りすぐった簡単に“答え”の出ない、正解のない難問ばかりです。
人生というのはこの難問への解答を選択する連続なのでしょう。国家の選択もそうです。
少し前の本ですが、すでにAI時代を予測したように、コンピューターに政治や生死を任せていいのかという問題なども出てきます。
浮気とか、不倫というのも犯罪ではないですし、長い時代や広い地球規模で見ると、行為そのものより、このような裏切りやウソのような心の流れは何のなのかと思います。
「テセウスの船」みたいな難問も世の中には溢れています。
【テセウスの船】ある物において、それを構成するパーツが全て置き換えられたとき、過去のそれと現在のそれは「同じそれ」だと言えるのか否か、という問題(同一性の問題)
応用として、半分ずつ元のパーツを分けて二つ同じものを作った場合はどうするとか。人体もクローンの問題などいろいろ考えられます。見かけは大きく変わった本人と、昔通りのニセモノと言う場合もあります。
式年遷宮で新しくなった神社の建物は国宝にならず、古いままで実用にならず、耐震上も危険は古い建物を文化財として税金で遺すのに意味はあるのでしょうか。
サッカーのワールドカップでは、もはやその国に生まれた選手の割合はどんどん少なくなてちます。身体能力が高いアフリカ系の移民やルーツがそちらの人が、子供の頃から組織だった練習をする環境を与えらて強豪国となっています。
フランスやベルギーのようなヨーロッパの代表イレブンのほとんどが黒人となる時期も来るかもしれませんが、それをその国の代表といえるのでしょうか。
今予選まっさかりの高校野球も、昔から越境入学で、他県の中学生ばかりの学校もあり、やはり身体能力の高い国のハーフも増えています。
国名や地名を冠したチームでも、もはやホームのスタジアムがあって、スポンサーになっているのが地元だというだけになるかもしれません。
政治的な問題に脱線しそうですが、今国会でやってるのにはさすがにつなげるとややこしいのでこの辺にしときます。
しかし、要はその情緒的な思いは日本人にあると思うのです。スポーツにしろ、公共工事であれ、企業活動や公務でも、政治でもそうですが。どこまで移民や、人種としての外国人に頼るのかは難問です。スポーツなら大会に勝てば良いのか、仕事ができて職場が回るなら良いのか。
最近のコンビニや飲食店で、ほとんど外国人の従業員の場面にもでくわします。
日本がいつのまにか、テセウスでもない、別の船になってしまうのかとも思います。
