書評:「塞王の楯」今村翔吾

 直木賞、昨年上期かな、図書館本なかなか回ってこないでそろそろ文庫が出そうな頃にやっと読みました。
 面白いですね、やはりこういう歴史から、うまく話を広げ、登場人物のキャラを育て話を膨らませていくところは上手いです。
 ちょうど、大津や坂本にもいく機会があり、長浜には以前良く行きました。滋賀県在住の作家が戦国のキーパーソンとして、二組の職人集団を選び対決をエンターテインメント
 近江の国・大津城を舞台に、「絶対に破られない」石垣職人“穴太(あのう)衆”と「どんな城も崩す」鉄砲職人“国友衆”の宿命の対決を描く究極のエンターテインメント戦国小説とされます。。究極の守り「盾」の石垣と、至高の攻撃「矛」の鉄砲の、武士を通り越した職人同志のライバル対決を描いていきます。関ケ原の戦い直前の大津城の攻防に重要な意味を与えます。
 そこには職人の気概とともに、最近の大河とかでもよく描かれる、戦争を止めるための戦さ、平和のための葛藤がテーマにもなります。
ネタバレは避けますので内容はこれくらいにしておきま。時代ものはよく歴史考証やリアリティで「実際には、、」と学者やマニアに突っ込まれます。しかし、これは約束事みたいなものがあるのでしょう。古文書で確認されたとか最近の歴史学説などをチエックしつつ、言葉にしろ昔の言葉や方言をそのままでは、誰も読めませんので翻訳もののようで、かつ昔のその地方風で読み進むのに支障なく、歴史を感じるティストであれば良いのでしょう。微妙なラインがあって、映像化でもそうでしょう。オール字幕でないと当時の薩摩弁や宮中言葉は分からないとか、衣装や容姿もあまりにも役者のイメージまでないがしろにはできないと、どこかで妥協するのでしょう。
 少し前の本屋大賞の和田竜さんの『村上海賊の娘』もなかなか映像化されないようです。娯楽性に重きをおき、史実面に問題があると大河ドラマにはならないそうですが、こういった少ない主要登場人物の生きざま、葛藤を描くドラマは映像化は意外と制約が多いのでしょうか。大河にしろ、あまりにもキャスティングが多く、無駄な視点に飛び過ぎてスピンオフ的になり過ぎてあれは、リアル以前だと辟易してしまいます。
 この作品でいうと、映画化か大河に今風のキャスティングなら匡介が吉沢亮?、玲次に山田裕貴、彦九郎に小栗旬? 京極高次は大泉洋、お初に北川景子、源斎に三浦友和、立花宗茂に佐藤浩一、夏帆に杉咲花、などと想定します。
 

賛否?ウルトラ兄弟に依存という設定

 ウルトラマンが要れば人間の防衛戦力は要らないというには、初代ウルトラマンの隊員も悩んだ課題です。主人公がウルトラマンの物語ですから、人間の防衛チームが開発する武器は、前座でかませ犬の役割です。

 先日、広島の件でウルトラマンエースの設定の時に、ウルトラ兄弟ができた事情を書きました。↓

1972年ヒロシマ 原爆同等の被害という封印設定 #ウルトラマン#特撮 – 天使の星座 (seizafpkotodama.com)

 前作、「帰ってきたウルトラマン」にウルトラセブンが登場しただけで、ものすごく視聴率は跳ね上がり、さらなるピンチにはセブンと初代マンが人間体の役者も出演して再登場した時も当時の子供は歓喜の声を上げました。
 この夢の共演の好評を受け、兄弟の設定、新設定でのウルトラマンエースでの客演となりましたが、地味な長兄ゾフィーの登場に始まりました。しかし、ウルトラ兄弟とヤプールや最強の宇宙人ヒッポリト星人との決戦となると、エースの兄たちも防衛チーム同様、引き立て役、かませ役に回らされます。
 難しい方向性の決め方でしょうが、現在の主役エースを引きたたせるには、他の兄弟は脇役に回そうと取り決めたのでしょう。小学校から中学になろうかという時期、帰ってきたウルトラマンファンだった友人は、お兄さんのはずなのに弟のエースより弱い扱いが不満は印象でした。
 しかも、ウルトラマンの最終回などでは、幻想的で威厳のあった兄たちがゾロゾロと非効率に戦い、敵の罠に落ちるというのも前番組のヒーローを雑に扱っているように感じ不評でした。当時の子供でもウルトラ兄弟が勢ぞろいしたというのに、強敵とはいえ惨敗するというのは、トラウマになったこともあり、失敗といってもいい展開です。その後のタロウやレオでも人間体を演じた俳優団次郎とともに帰ってきたウルトラマンはゲスト出演しますが、主人公のピンチを救うというよりは強敵のかませ役となり、いいととろは主人公にもっていかれます。
 今のヒーローを持ち上げるため、強い敵にしないと、兄弟がいる以上必要な設定です。しかし地球を守るのは一人だけでなくいざとなったら、兄弟や父さえ助けにくるというのはピンチのインフレを呼んでしまいました。かつて、ウルトラマンやウルトラセブンが敵にハリツケにされた時の絶望感は、兄弟ができることによって、大ピンチではなくなります。地球に怪獣が一頭現れたぐらいでは、深刻に感じられなくなります。
 元々が科学的に考えれば、たった一人のヒーローでは、いくら巨大な宇宙人でも近代兵器の防衛チームが頼りきりというのはおかしい話です。まして、マッハ5や7程度で、3分間しか活動できないのでは、本当は局地的なピンチにしか有効的戦力ではないはずです。
 新旧ヒーローの共演と功罪、そのジレンマというのは、ライバルの仮面ライダーシリーズでもありました。こちらはライダーの共演は連係プレーやアクションとしては見ごたえがあり、東映の戦隊ヒーローの誕生につながります。それでも前ヒーローの細かい設定や、得意技はうまく脚本に描かれず(ほぼ新しい脚本家は知らないか忘れられ)、再生怪人はゾロゾロ出ても以前よりも弱くワクワク感はありませんでした。
 ウルトラシリーズの怪獣の場合も、兄弟とともに過去の怪獣が出てくる回も人気はありました。過去の怪獣や怪人がまた再生されても弱いのです。初回登場の特性も忘れられて、着ぐるみプロレスのかませ役となってました。

 最後は宇宙人の巨大ヒーロー主人公の登場で解決する。防衛チームや過去のヒーローは脇役というのは決め事なのでしょう。
 いずれにせよ、日本でこれだけ巨大特撮ヒーローが人気なのは、潜在的には在日米軍や核の傘に守られているような、どこかにウルトラマン依存と似た心理があるとも言われます。自分たちが戦わなくとも、誰かが助けてくれるという都合の良い解釈です。
 地球人が変身するわけでウルトラマンも人間と一体で戦ってはいますが、最終局面で戦力依存には違いありません。
 長年、ウルトラマンなどの正義のヒーローを見るに、最初は孤独な戦いだったのが、いつのもにか味方も戦力も仲間も強化され、組織対組織の代理戦争になってきていたように思えます。その感覚と依存心は日本の社会にも受け継がれてしまったのかもしれません。


 

「憲法」「金融」「防衛」「エネルギー」「少子高齢化」「LGBT」「コロナ」、、ETC。みんなチャットGPTが考えれば

 AIの汎用性が飛躍的にブレイクスルーし、チャットGPTの進化はスゴイと騒がれています。
 憲法記念日に相変わらず、改正だ護憲だと十年一日のような議論がなされていました。9条という日本独自の金看板があり、本来は護るべき保守が改正、概ね革新系が護憲という俯瞰すると良く分からない構造があったりします。憲法が国の最上級の権威である以上、改正は手段の一つであって、まず国家、国民のためどうあるべきかというところを明確に出さないといけないのです。

 金利など、金融緩和、経済政策にしても、その他の防衛や、エネルギー、少子高齢化など、どれをとっても、是か非かだけではなく、期間であったり、程度であったり、周辺の関連した問題で刻々と情勢が変わる複合した状況の中でどう判断を下すかです。奇をてらったアイデアが生まれることは稀です。
 首相や大臣、日銀総裁などは、アイデアマンではないでしょうし、実務や実態はもちろん分析家としても絶対ではありません。
 良くも悪くの決断をするのに、どの程度のポジショニングかを決めているだけです。当然、ブレインや諮問機関、有識者などの相談を受け、世論を気にはしながらですが、絶対的に適性な解が常に導かれているのかは、どうなのか判断はつきません。
 ある程度正しい時もあるけれども、どこか一度決まるとそのままとか、やはり一部の意見に流されやすいような融通の難しさは少なくともあると思います。
 もちろん、トップにしかわからない情報も考察もあるでしょう。しかし、優秀とはいえそこそこ老いた人間が一人で確実に判断しきれるのかというと、どうもそこに求められるのは結果としては泥臭いものではと想像されます。派閥とか長老とか、序列、支持者や部下などの調整、人事とかの政治力、調整するおとなの力ではないでしょうか。いくら優れてピュアな主張があっても、この泥臭い調整力がないと潰れます。政治とは右から左までのポジションで決まるわけではなく、その位置での最善策、最適の解、最大公約数をいかに早く見つけて、実行できるです。
 ある意味すでにAIは使われ、支配されているのかもしれません。それが知らされると「政治家が機械に頼りAIの言いなりならいらない、支配されたくない」と暴動がおこりかねないから、不満のはけ口役が今の政治家なのかもしれません。

AIが支配するのは悪か善か

球春 やはり野球の国?日本

 センバツ高校野球がコロナ対策の制限なしで3年ぶりに通常に開催されます。
 WBCも日本が大谷、ダルビッシュ、佐々木、村上らドリームチームとも呼べる最強布陣で快進撃で、東京ドームも満員、視聴率も40%以上を稼ぐ、まさに球春でコロナも消し飛ばされる躍動です。

 WBC日本代表はメジャーリーグのスターや日本の各球団の主力が集められ、4番やエースでも控えに回るぐらい贅沢な選手層ですから、おそらく優勝に近づくでしょう。世界的にもトップレベルのプロリーグが少ない野球ですから、WBCにお金をつぎ込んでいるのは日本とアメリカぐらいで、大会形式も日本が決勝に行けるように組んであります。
 世界的な野球人気普及の命題もあり、サッカーのW杯のような国籍要件はなく、ルーツがある国から出場でき、ヨーロッパ等からアメリカに入った人がイギリスやイタリアの代表となり多くの国と地域が参加した世界大会の雰囲気は出ています。それでもシーズン前のオールスター戦という意味合いは強く、投手の球数制限なども、米メジャーの投手のオープン戦での調整過程に合わせています。
 先日は日本の源田遊撃手が負傷して、復帰はできそうですが、プエルトリコの抑え投手ディアス選手はメジャー大型契約をしているのに重症のようです。シーズン前の大会で負傷をしてしまうと元も子もない感じです。

 大谷選手は切り取られないインタビューでは「楽しむ」という言葉は必ず使い多用しています。「大事な試合」ではあり、ベストを尽くすのは当たり前でも国の名誉のために何が何でも危険を冒し、選手生命を縮めてまで身体を酷使するものではありません。ベースボールはプレイボールで始まる楽しむものですし、戦さではないのです。
 WBCが始まった初期や、当時のオリンピックの野球でも、当時のファンやプロの監督でさえこの球数制限の感覚が分かりませんでした。エースの連投や、犠牲精神、そこからの命懸けのプレイが日本の野球美学だったのがつい最近です。

 それにしても大谷の体幹にせよ、他の選手の投打のパワーやスピードにしろ、もうすっかりアメリカなどの外国人に勝るとも劣らないようになったのはスゴイ時代に来たと思います。

 あとはこの人気で底辺、裾野が広がることと、人気のある試合とは言え3時間超えはやはり長すぎです。ピッチクロック(投球時間間隔の制限)、ワンポイントリリーフが禁止になったのなどは良いことですが、イニングの間が長すぎです。投手交代の人数も負傷以外は制限でもいい気がします。
 放送権料がからむのでしょうが、地上波テレビのCMタイムを長々とるのは止め、試合中のバナー広告などにして、5回、7回ぐらいに少し間をおく程度で、サッカーのように集中すれば2時間半には収まります。WBCがいくら盛り上がっても、スターが全て日本のプロ野球に揃うのではないので、地上波のプロ野球中継はそうはないはずです。完全中継はBSやネットだけで、そもそも3時間もテレビの前で釘付けは無理です。
 故野村克也あたりでも、ワンポイントリリーフは好きな戦術でした。弱者の戦略が好きで予告先発にも反対でした。そういう長く時間かけた戦術の野球の好きな人もいるでしょうが、時代は変わっています。野村理論の配球などで通用する戦術も面白さも残ってはいますが、今は鍛え上げた人気選手の正々堂々のパワーと技量のぶつけ合いがメインになっています。
 WBC後のNPBの盛り上げというのは、一つの野球人気の正念場でもあると思います。

ルール、法律の解釈 国会除名→逮捕

 法律というのは莫大な量の条文があり、かつ全ての社会生活、人間の行動、そしてその変化を網羅しているわけでは当然ありません。
 法律のウラを知って、巧妙な犯罪すれすれの行動をし、逃げているものが捕まらないこともあります。頭のいい方が何とか罰する法律を見つけて逮捕、起訴に結びつけている場合もあります。

 悪質なホームレスへの虐待などを、やや強引に法律を適用して罰している例も最近ありました。

 ガーシーの国会議員の資格はく奪、逮捕への流れは確かに強引ではあります。違和感を覚える人もいるかもしれません。国会議員を簡単に辞めさせることを与野党一致で決議してしまうのは、場合が場合なら今後恐ろしいケースもあります。いつも何でも反対の共産党やれいわ新選組さえ賛成に回るということは、あらかじめ我々の知らないガーシーの行状が伝わっていると思えます。何とか逮捕しないと、国の根幹を揺るがす犯罪者だとして、与野党全会一致で除名を決議して、逮捕状請求に結びつけたと思われます。
 申し開きも裁判もないわけなので、推定無罪の原則からはおかしいのですが、これもまた機会を逃さないため強引に進められました。
 ガーシー元議員が本当に悪なら仕方ないのですが、今後もこの強引な手法が適用されるケースが増えると怖いです。ネット系政党により政治、選挙の在り方が変わっていく時代の変化が前回選挙から見られました。その一翼を担った党の問題だけに、改革がとん挫して時間が止まるかもしれないのも難しい面です。

音楽や映像の癒し効果 春へ

 JR西日本の人的ミスともいえる雪害による電車閉じ込めに関して、JRにもいろいろ意見を言い返事も貰いました。その後も会見を開き調査や対策を述べられていますが、まだまだ不十分なところもあります。
 素人考えでは、私鉄が走行できているのにと感じ、特に京都~滋賀の路面電車のような京阪京津線に比べ、高規格のJRがなぜという要因に関しては確かにいくつか知り得たJRならではの事情は分かりました。

 それでも、あれだけの長時間、車内の放置したことに対しての説明、大いに不満で対応のまずさ、対策の不足を感じます。

 技術的なことよりも、私が書いたのは待たせている間のアナウンス不足が、不安を増大することです。今度の場合は、人災の部分もあり判断のミスがあるかもしれません。しかし実はこういうことは今後もあり得ますし、地震や台風でもいろんなことが突然来ます。そんな中で、乗務員が多くの乗客をどういう風に安心させるアナウンスをするか。あるいは遠隔でどう対応するか。あらかじめ準備できるものは何か。音楽や映像でも流してヒーリングをすることや、トイレの順番決めを提案したり、ストレッチやツボ押しでも案内することもできる時代です。そういう面では、対応も全くダメでしたし、その後もアイデアも全然ダメ前時代の国鉄レベルです。

 音楽やお笑いぐらい、スマホでパーソナルに見聞きできる時代かもしれませんが、逆に言うと不安や焦燥を和らげるその効果は十分あるのです。 

 緊急事態的な時だからこそ、与えられる音楽などの癒し、不安や不満のガス抜きは効果的です。

 昨日、2月の新年度への複雑な心理を書きましたが、私自身公私忙しく、複雑な思いで落ち込む時、ややベタな音楽やドラマで元気をもらっています。
 今クールのドラマだと、『リバーサルオーケストラ』『女神の教室』といった、青春ものに励まされています。特に『リバーサルオーケストラ』はスカッとします。クラシック音楽そのものにも癒されます。
 ウチの連れあいも音楽畑ですが、私がすごく落ち込んだ時、何気に聞こえてくるピアノに元気づけられます。
 もう二十年以上前に、春の異動で、遠くにあまりいい転勤ではない、要するに泣きたくなるような左遷人事で飛行機に乗りました。まさに飛ばされたと嘆く気持ちで搭乗した座席で、機内で聞く放送から流れていたクラシック『威風堂々』と、最後に切り替えたJPOPのチャンネルで松たか子さんの『明日春が来たら』という曲は今でも覚えています。本当に窓の外の景色とともに感動的にその澄んだ声が響き、よし悩まずに頑張ろうと思いました。
 ついこの間みたいな気もしますが、当時乳飲み子だった長男がもう25歳。松たか子さんもおキレイなままですが、当時20歳そこそこお嬢様的な感じが、今はしっかりした奥様役が似合う45歳くらいというのですから時は流れます。

 気持ちが上がったり下がったりするのは、誰でもいくつになってもあると思うのです。そんな時、気持ちを切り替えられるようなのが音楽かもしれませんし、言葉の力かもしれません。
 JRさんにも自戒を込めて、また多くの人がそうだと思うのです。

 

「色白は七難を隠す」? 美熟女のせつなさ     #ルッキズム2

 人間は花でも、絵画でも、動物でも美しく、可愛いものが好きなはずです。ですのでルッキズムはごく自然な本能的なところからきているといえるでしょう。
 美の価値観を押し付けたり、美しい人を優遇し、そうでない人を差別し、外見を揶揄したり罵ることが問題なのでしょうか。しかし美が評価されるることが、完全否定できない以上はどうしても起こりうる問題です。

 ミスコンを廃止しようという大学が出てきて。未だに続けている大学を時代遅れとい風潮もありますが、自由な大学にあって楽しいイベントではないかという考えもあながち否定はできません。そんなものを廃止したからと言って大学の価値が上がるなどとは私は全く思いません。むしろ自由さのない、つまらない大学になって人気がなくなり衰退するのではと思います。

 芸能人、モデル。タレントあるいはキャパクラやホストクラブのような水商売などは美形であることが一つの条件の場合もあり、それは仕方ないと思います。

またミスコンのような一過性のイベントに目くじらを立てる以上に、社会にはびこるルッキズムは沢山あります。
 もっと噛みつくべきところは、普通に学校を卒業して職業に就く場合などで美、外見が優先されるということでしょう。資格を持ち、学生時代に取り組んだことがあり、仕事ができそうとか、どういう考えとか意欲をもっているそういうものに関わらず外見が重視されるということです。
 芸能人やモデル、水商売以外でも、テレビ局のアナウンサーも昭和では考えられないほど、美男美女、とくに女子アナが無駄とも思えるほど、ニュース番組にぞろぞろいます。しかも網の凄い高収入です。ニュースや気象情報を読むだけなら外見は関係ないはずなのに、どうもそうではないようです。
 女子アナが視聴率を稼ぎ、あるいは大きな会社の受付嬢、百貨店や化粧品などの販売員も外見優先というのは、採用の段階でそこがポイントなのは何となく分かります。

 前回述べたように、もっと今騒ぐべき問題は、全く一般の営業など総合職に就くためにもルッキズムが蔓延し、化粧どころか整形までする風潮です。どこの会社も就職の選考にルッキズムが入っているということです。

 これはとくに韓国が先行し、日本も欧米以上にこの傾向が強いようです。取り合えず入ってしまえば、秘書や受付嬢などは十分だという男尊女卑的な考えも根強いという面もあるとは思えます。また外国人に受け入れ、移民などが少なく、「色白は七難を隠す」などの言葉があるくらいで、価値観の同じ同一民族の占める割合が多いことも要因でしょう。

 片方で、ミスコン批判やルッキズムを問題視しながら、他の局面では「美しすぎる市議」「無駄に美人(イケメン)」だとかの表現が罷り通る報道もご都合主義です。

 美少女やイケメンばかりのコミックは昔からあります。最近はエンタティメントはもちろん純文学的作品でも映像化を元々狙ってビジュアル化を明らかに意識して、美男美女を書いているようなものも当たり前になっています。

 しかし、現実の世界ではそうそう美男美女が揃う集団はいないので、幸か不幸か適当なところでうまくいきます。ストックホルム症候群とも言われる現象もありますが、テレビやネットの中すれ違う街では美男美女を知っていても、職場などの自分の交友できる人がその人しかいなければそこでその人のいいところを見つけうまくいくのです。
 テレビのキー局と、町工場ではレベルは違っても、それはそれで憧れる人、愛する人ができるのです。そして、それはルッキズム関係なしに、良い仕事や交際に繋がります。誰もが老いを迎え、若い可愛らしさや、美しさは漸減します。元々、それだけでうまく寵愛されてきたのなら限界を迎えます。「ミス〇〇大学でした、15年前、、」では自虐ネタにしかつかえないでしょう。身勝手なもので、異性への外見的な興味は若い美しい方へ移ります。そこへ興味が移る方は、もっと醜く老いていても自分にはルッキズムは適用されない身勝手さです。

 結局は長い目で見れば、外見で人を選んでも大した違いはなく淘汰されるのでしょう。「整形して何が悪い」という人は、頑張り続けないといけません。その場しのぎの優位性ではなく、お金をたっぷりため、権力を握り絶大にするなどしないと、やがて容姿の衰えとともに、情けないことになります。

 人間って切ないし、ある意味可愛いなあと思うのは、若い頃とても美しくルッキズム恩恵を余すところなく受けていた人が凋落を恐れ、必死にもがくような姿です。開き直って、強欲とかお茶目で可愛いオバサンになり切れない人が、美に執着して、髪を染め、スキンケアをして、化粧を濃く変える、必死になっても其れでも若い人や昔を知らない人には色気のある滑稽な熟年にしか見えないのですが、その哀れさのようなものに、業を感じるとともに切なさを思います。

 流行語?なのか ルッキズム  #ルッキズム1 – 天使の星座 (seizafpkotodama.com)

流行語?なのか ルッキズム  #ルッキズム1

オリコンニュースより「ビフォーアフター」(画像提供:みきしぃさん)

 大学のミスコンなどの問題で、議論したこともあるのですが、ルッキズムという言葉、潜在的にはあると思っていましたが、まさに流行語大賞にノミネートされるほどとは、何だか妙な感じです。言葉そのものは1970年代からあるようで、ウィキなどでは以下の感じの説明です。

 ルッキズムとは外見に基づく差別または偏見。主に人間が視覚により、外見でその価値をつけることである「look(外見、容姿)+ism(主義)」であり外見至上主義、「外見を重視する価値観」との意味でも使われる。「容姿の良い人物を高く評価する」「容姿が魅力的でないと判断した人物を雑に扱う」など、外見に基づく蔑視を意味する場合もある。

 蔑視や差別の意味合いが強くなり、ヘイトや人権、多様化の価値観の昨今ならでは意味が変わりつつあるようです。

 日本では他人に対して ”髪型変や” ”太ったねー” ”老けたねー”等と他人の容姿に対するネガティブなコメントが容認されている傾向があるそうです。日本ではこれは家族、友人間だけでなく職場でも行われています。アメリカやイギリスでは家族間ではたまにありますが職場で他人の容姿を褒めることはあってもけなすことはあまりないそうです。

 不快なことを言う言わないだけでなく、ルックスが良い人が厚遇されるというのは日本に限らないかもしれません。

 2000年代初頭、韓国では就職活動を有利に進めるため、男性の9.3%、女性の22.3%が「リクルート整形」を行なっているという話がつとぁりました。

 女性にリクルート整形はその後日本では割合が上がり、男性も印象を変えるため始まりました。
 2003年には、就職活動を行う大学生だけでなく再就職を目指す中高年男性がプチ整形を行なっているという報道がなされたそうです。

 芸能界はもちろん、政治やスポーツ、報道、あらゆる分野で「イケメン」とか「美人過ぎる〇〇」などという存在がチヤホヤされ、広告塔として目玉にもなってきました。

 美人やイケメンの経済価値というのは、随分前から、陰では言われていました。そのために、私がいた化粧品業界のメイクなどのツールがあるのです。昔は女子高校生が、化粧品会社の就職し美容部員になると、どんどん年齢不詳にキレイになり垢抜けていき30代後半ぐらいまで年齢も若く旬の美しい時期が続きました。
 そして、化粧品からさらに進んで親からもらった身体にメスを入れる整形へと時代は移ります。

 お金をかけて美を追求し、利益を得た人にとっては「何が悪いのか」という意見も、議論の中にあります。

「脱ルッキズム」や「美の多様性」の観点から、いろいろ問題が出だし、その論争が流行語にもつながったのが今年でしょうか。

 議論の詳細は 明日以降に続きます。 (つづく)

天使が舞い降り25の法則  11  昔に戻りたい?何でもないことに傷つかない気にしない

 11 何でもないことに傷つかない

 私の中学高校の友人で、京都の何代目かの老舗を継いだヤツが、飲みにいって女性との話すきっかけ、話題作りに、『戻れるとしたらいつの時代にも戻りたい?』という質問から入るそうです。
 その相手がいつに戻りたい、いつが良かったと聞きながら自分が「高校時代」が一番良かったと、昔自慢をするのです。

 ただこの友人やはり、ちょっと今が不遇というほどでもないものの、少し不満な物足りない時期のようです。
 小学校時代から優秀で、運動神経も良く、高校あたりでは遊びを覚え、やりたい放題だったのでしょう。大人になって、ハメを外しきれない他人に気を使い、地味にコツコツもやらないといけない長い時間よりも、あの青春の日々が良いのでしょうか。

 この間、AMラジオのMCとゲストたちは、今の知識や経験を持って子供に戻れるならいいが、一から勉強をやり直し、受験勉強や。入社試験、社会人の基礎もやり直すなら今のままでいいと笑いながら言いました。それには「そうそう、めんどくさいもの」と共感もありました。
 それはまた設定に対して妙にリアルな大人的なリアクションです。
 それを言い出すと、我々の世代でいうと、子供時代に帰れば、ウォシュレットもコンビニもスマホもありません。やがてそれができると知っていてもその不便に耐えれるでしょうか。

 そんな細かいこと抜きに、人生どこかのポイントに戻ってやり直したいというのは夢のある事かとも思います。
 社会人で、そろそろ先輩からお局「だとか、長老的な年代になると、もう「守りに入ってる」と言われるような年代で、つまらない失敗もしたくないので勢い消極的で保守的な選択をしがちになります。

 逆になんでもないつまらないことに、失敗を恐れ、臆病になり、不安を増殖して憂鬱な気分に落ち込む時があります。
 「何でもないことに傷つかない」
 この法則を共感いただいた方も何人か、熱い「そうだった」というコメントを貰いました。失敗ができない世代などないのです。経験が多ければ多いほど、もう新たにチャレンジするのも、過去に何度もやったことをもう一度やるのがめんどくさくなりがちです。でも、失敗することは若さの証明でもあり,成功への検証、一歩前へ進んでいるのです。

拝啓NHK殿 朝ドラと紅白は卒業、もう見ません

 私はけっこうNHKのニュースと朝ドラ(連続テレビ小説)を朝の時計替わりに、見てきていました。朝ドラは当初始業がやや遅い会社に勤めていたのもありましたが、ここ数年は録画も交えてほぼ毎回を見ていました。

 すでに何年か前の広瀬すず「なつぞら」で100回目を迎え、そのサブの登場人物も朝ドラや大河の主演となったりで、時が過ぎるのも早いですが、今般本土復帰50年沖縄を舞台しした「ちむどんどん」が先月で終わりになり、もう朝ドラを見ることはやめます。
 紅白歌合戦の無駄遣いも以前に書きましたので、今年年末は紅白も観ず、初詣に行くか早く寝ます。

 朝ドラに関して言うと、NHKの前時代的な体質があまりに露骨に透けて見えるようになり、脚本もこのところひどいので止めます。別に次のヒロイン福原遥が好きとか嫌いではないのですが、今後よほどの出演者か興味ある人物の採り上げでもない限り、見ないことにします。
 大河ドラマは多少歴史を思い出す勉強になるので思案中ですが、現在の鎌倉殿の13人は同年代の舞台脚本家の三谷さんが書いていたので終わりまでは見ますが、次はわかりません。
 

 ニュース番組はネットで通常はすませますので、大きな災害や政治関連くらいです。あと、ドキュメンタリーやスポーツ中継、単発のドラマには民放でできない内容のものは見るでしょう。

 まあ、こんな宣言しなくともNHK見ない人は多いので、受信料って理不尽なものです。NHKをぶっ壊すという方にもろに賛同するほどではないですが、どちらかというとあの組織は解体した方がいいようです。