飽食の時代

ちょっと外食で贅沢ができない時期ではありますが、食べ放題とかバイキングとかが比較的リーズナブルになった時代です。
先日も廃線散歩で、戦中の軍事輸送に使われた跡の道を行くと、つい飢餓の時代はどうだったのかと思います。
「永遠のゼロ」という百田尚樹原作のセロ戦の映画に「大福が食べたい」とか無理を言う隊員がいて、砂糖等が貴重な時期に何を言うかといわれてるシーンがありました。調理師も何とか無理をして特攻の日までに用意しようとするのですが、結局間に合わないタイミングに空しく大福が出てきます。
また映画で有名になった野坂昭如の「火垂るの墓」での、末期の少女がドロップが食べたくておはじきしかない描写もすごく悲しく心に残っている方も多いでしょう。
今は大福をはじめあらゆるスイーツを作る職人も材料も潤沢にあります。贅沢もできますし、手ごろな値段で少し歩けばコンビニで、何でも揃います。
飲食店やコンビニでは余った食材や賞味期限の切れた弁当等がどんどん捨てられています。
戦後間もない頃は、ホテルの残飯が浮浪者たちに闇でふるまわれていましたが、衛生上今はそんなこともありません。
ただ、美味しいはずのスイーツですが、当たり前にあり過ぎてありがたいともあまり感じることもありません。
味が肥えだすときりもないのでしょうか。
何だか、恵まれているはずが、どこか喪っているものも多い時代なのでしょうか。

登米の思い出

今年の朝ドラで宮城県登米市が舞台になっています。
私も転勤で仙台在住のおり、(2002年から2006年ぐらい)仕事や家族とのレジャーで何度も当時の登米郡、本吉郡を訪れています、
平成の大合併の前で、当時の町名全てを覚え理解はしていません。子供向けのテーマパークのあった石越町、その他取引先のあった南方町、迫町、地名として佐沼、長沼、新田駅を覚えてるくらいです。
交通も鉄道では東西に路線があるだけでやや不便な内陸の田園や山村です。緑豊かなまあ何もないような田舎といえば田舎です。今は廃線となった「くり電」くりはら田園鉄道というのに乗って細倉鉱山跡のマインパークにも行きました。もう子供たちも完全に忘れます。
長沼には、毎年冬に白鳥や渡り鳥を見に行きました。
フードピア公園の風車のある建物はドラマにも登場しています。
日本の原風景的なところではあります。個人的には宮城県は一番バランスのとれた住みよい県だと思います。仙台は新幹線で東京とも直結した東北唯一の大都会ですし、そこに1時間前後で行けます。かつ自然も豊かで、産業もそれなりにあり、歴史的な史跡もあります。
東京や首都圏その他メガ都市圏に疲れたら、ぜひ訪れたらとおすすめします。

朝ドラ「おちょやん」生瀬勝久     #おちょやん#生瀬勝久#NHK朝ドラ

NHK朝ドラ「おちょやん」生瀬勝久演ずる脚本家長澤のセリフ『ラジオドラマを通じて、戦争で親を亡くし、傷ついた子供たちに生きてさえいれば、人生面白いことが起きると伝えたい』なんだか万感の思いがします。
終盤短い登場ですが、私と同世代の生瀬の演技にもぐっとくるものが。京大の劇団そとばこまち出身ですが、京大卒ではなく、彼は私と同志社大学の一年後輩。
キャンパスにはたぶんほとんどいなかったでしょうが、同志社の第三劇場という劇団から辰巳琢郎(当時つみつくろう)の誘いで移籍しました。
槍魔栗三助というとんでもない芸名の熱いし、インテリでもあるのですが何をしでかすかわからないエキセントリックなヤツでした。
NHK等に主演するおり本名としました。もう芸能界で40年、仲間由紀恵と、「ごくせん」「TRICK」の脇で共演、朝ドラや大河にも数多く出演し、もはや円熟のバイプレーヤーになったなあと改めて感じます。
かつて探偵ナイトスクープ、初代探偵やった時、中国出征のおじいさんを称え「戦争称賛」かと上岡龍太郎を激怒させて、干されかけた時期がありました。
それがターニングポイントとなりバラエティとは基本縁を切り、ピュアな役者人生にシフトしていったように見えます。先輩の辰巳は、プロデューサー力はあってが、演技と胡散臭さには問題あった女たらしやったから、料理やクイズ番組でのテレビ出演に変わり薄い存在で見かけない今の立ち位置には学生時代から見ていてなんとなく納得します。
それにしても、NHK朝ドラ一代記で土曜もなくなっての半年はやはり短いなぁ。いい内容で作りこみが深いとこもあるけど、テンポが早くはしょり過ぎる。ヒロインも、このところ演技派かつ有名な俳優だけど、やはりおしん方式の子役と壮年役は別の役者のがスッキリする。

家呑み    #東北復興

昨日は5月にしては寒い一日で日本酒が呑みたくなり伏見大手筋まで行きましたが、利き酒ができなくてどうもしっくりくるお酒が見当たらず。
御池まで戻って「やまや」東北の一押し「雪の松島」純米吟醸を購入しました。
東北有数の景勝地、松島がイメージできる。きりっとした中に甘くフルーティさもある微妙な辛口です。
伏見とはまた違った、また他の東北の酒や新潟の酒とも違う雰囲気があります。
宮城県もコロナもまん延したまま。あの震災から10年の今年も大きな地震がすでに2度ばかり起こっています。
10年前、3.11、日本はまさに非常事態で、テレビも娯楽番組もCMもなくなり被害状況を伝えていました。それに比べると。コロナ禍というのは感染症として警戒はしなくてはいけないのですが、オリンピックの是非や、コロナの自粛と経済との並列が議論されるだけまだ平時の中の危機なのでしょう。
オリンピックも招致には「復興五輪」「簡素な五輪」という言葉を使われましたがまた東北の人は裏切られ利用されただけと思ってしまわれているのか心配です。
オリンピックの誘致や開催に多額のお金が要り、儲ける業者などの輩がいるのは分かりますが、もはや開催すら微妙ですが、オリンピックの開催が、東北を目に見えるような形でできれば持続可能な形にして何か支援をする形にはできなかったものでしょうか。
あの震災から東北の人達、今も復興に尽力する人、避難生活に難渋する方。生き抜いた街を微力ながら思い、応援していきたいと思います。

大学時代

大学時代というと40年くらい前になります。今と変わらない様もあれば、もちろんいろんな面が変わっています。
食堂や下宿、施設等は軒並み垢抜けてますし、携帯やスマホはおろか検索エンジンをもったパソコンもワープロすらなかった時代です。一つ一つ、文化や政治世相らの違いを語れば尽きないでしょう。
同年代で遠くから京都に来た人とずっと同じ親元の地所から4年間通った、しかも中高大学と一貫の私学ですから、何と言ってもその後社会に出てから苦労しないために、もっといろいろ学び人と接し、切磋琢磨しなければ行けなかったとは思います。
しかし、当時の自分はそれはそれで目の前の講義を受け単位を取り、サークル活動を一生懸命やり、淡い恋に夢中になり何とも今振り替えればもどかしいだけの青春の日々だったのでしょう。
日本は世界有数の経済大国に成長し、バブルを迎える何年も前の時期でした。

仙台国分町の思い出

いわゆるまん延防止法報道ののおかげで、懐かしい仙台国分町の映像がテレビで流れました。管理職の定例会や、バイヤー接待でよく行きました。
祇園や新地の上品さはなく、歌舞伎町やすすきの、宗右衛門町ほど下品でもない盛り場です。
仙台に商品部のあった企業の化粧品バイヤーと、キャバクラかサロンの仕事終えた女の子が飲みに行くような店で朝方まで付き合わされたものです。
そういう女の子の中で、当時働いてたカネボウのケイトという化粧品ブランドのシェアが凄く高かったので、バイヤーさんがなるほどと良く新規取引扱ってもらいました。
しかし、付き合い終わると、空が白む、翌日眠かったという記憶のみです。今ではとても無理、若かったなあと思いだします。

京都地下鉄大赤字の対策  このままでが財政再建団体へ

京都市の財政赤字が大赤字。破産寸前というところです。財政再建団体となれば、税や保険料も上がり制限も増えます。
交通局、地下鉄事業はその中でもひどい内容です。
コロナを言い訳にしますが。元々東西線建設からの見通しの甘さ、体制の課題が大きいわけでインバウンドバブルが延命して、コロナが妙な言い逃れになっていますが根は深いものがあります。
地下鉄等交通事業は、減便や値上げはますます利用者離れを起こします。私鉄やJR、大阪の地下鉄窓と比べても高すぎる現状を考えると、まずサービスの原点として乗ってもらうにはどうするか考え知恵を絞るしかないでしょう。職員のモラル向上はもちろん当たり前ですが、残念ながらそこからスタートのようです。
市民の問題、厳しくかつ暖かく監視して、協力していかないといけないでしょう。

【東日本大震災デイケード】岩手県厳美渓、三陸海岸の桜。

写真は記事と関係ありません

震災前、仙台に仕事で赴任して子供が遊び盛りで、あちこち休みにはお出かけ行きました。岩手県は一ノ関に景勝厳美渓には子供とも行って、渓流を挟んだ対岸からロープをはったかごで届ける「カッコウ団子」という名物も食べました。東北の労組とのレクリエーションでも渓流下りをし、この時ご一緒した岩手支社の幹部の方が、3.11で亡くなられました。大した会話は無かったのですがブラックな強面の人が多い中、優しい印象の方でした。関西に戻っていた私はだいぶ後で訃報を聞き絶句しました。津波に慣れてない彼は営業中、海よりの取引先被害を確かめに行ったそうです。三陸海岸、今も桜の季節は、みどりと、青、そして名もない花も頑張って見事なピンクに咲くのでしょう。多くの生き残った方は、亡くなられ方からエールを送られているのかもしれません。

琵琶湖マラソン 有終の美

昨日で最後のびわ湖マラソン、午前開催でした。。有終の美、鈴木健吾選手が日本最高記録出しました。
ソウル五輪の選考で中山竹通と揉めた瀬古利彦が優勝はしたがタイムはひどく平凡で、記録のでにくいイメージがありました
朝スタートで、川内くんが2時間7分台のパーソナルベスト更新で10位、気温や風とかコンディションは最高だったのでしょう。
陸上部のあった会社で、私は京都滋賀勤務の頃は何回も駆り出されました。瀬田唐橋の中之島の施設で弁当食べて、橋の両側を往復するので合計4回のぼりを立て旗振りメガホンで声出してました。
当時でも伊藤国光監督下、高岡、早田のエースは福岡、東京に出て格下が出る印象で、これがまたほとんど上位入賞なしでした。瀬田川を渡る風はいい感じですが暖かいと花粉にも苦しみました。楽しい思い出もありました。

【東日本大震災デイケード3】             #東日本大震災10年 #東北の新聞

【東日本大震災デイケード3】宮城県の地方新聞『河北新報」の由来、東北の地方新聞、全国には多分無名でしょうが、青森県「東奥日報」、秋田県「秋田魁新報」岩手県「岩手日報」山形県「山形新聞」福島県「福島民報」「福島民友」とあります。で宮城県仙台のメイン新聞ワタシもとってたのが河北新報。東北にも全国紙はありますが、夕刊がなく地元の情報が遅いので不便で地方紙とります。仙台の「河北」だけ県名や旧国名と関係ありません。県を流れる北上川のことと勘違いされる方もおられますが、「河北」の由来は明治時代に政府や帝都側から「白河以北一山百文」と白河の関より北側の土地には価値がないと馬鹿にされた言葉からです。東北の人はそれでも農林水産や工場、原子力発電等で明治から戦後まで日本、首都圏の生活、高度経済成長までを支えました。
そんな東北を何の因果か、恐ろしい波が襲いました。
図書館で見る河北には10年前の様子が特集されたいました。頑張って欲しい東北。一山百文ではない日本の宝だ。