「マルス」1960年に国鉄で誕生した画期的システム

 現在窓口に駅員が案内するJRの「みどりの窓口」は、無人駅はもちろん有人駅でも廃止統合されて、トラブル時にインターフォンで集中センターへ連絡する程度です。
 e予約などですでに、ネットで確定したものを発券するとか、そもそもチケットレスの購入もあります。
 戦後、高度成長期に入り長距離移動が鉄道主流の頃は、切符で指定席などを買うのは結構な行列があり、待たされるのが当たり前でした。国鉄職員も「売ってやっている」という横柄な態度で今では考えられない役人のようないばりようだったとも聞きます。
 そんな悪評プンプンの国鉄ですが、新幹線や在来線でも技術的には世界に先進したシステムを構築していました。今回は車両や路線ではなく、切符の発券のシステムについてです。
 列車の座席を予約するとき、A駅の窓口とB駅の窓口、C旅行会社でそれぞれお客さんが予約に来ると、あずさ1号のどの席が埋まっているか瞬時にわからないといけません。今なら個人でもパソコンやスマホでできますが、昔はそれを中央指令の回転式のテーブルに載った台帳を電話で確かめながら予約して発券していたのです。
 列車の数はそこそこ増えだしていましたし、今よりも多い路線もあり、帰省時などに飛行機や高速道路の選択もない時代、気の遠くなるような手作業です。
 時間もかかり、待たされた上に、ダブルブッキングはよくあり、現場でのトラブル対応も頻発しました。

 その問題を1950年代後半から検討に入り、世界に先駆けて「コンピュータ」による予約システムを構築したのが、国鉄なのです。経営陣の英断、技術陣の苦労も並み大抵ではありません。なにせ、「コンピュータって何?」の時代です。65歳で定年を迎えるような人が生まれた年、1960年に国鉄の指定席予約システム「マルス(MARS)1」がこだま(在来線特急)4列車2300席からスタートしました。
 東京オリンピック、新幹線開業の1964年には本格的に自動発券できるプログラムを内蔵した「マルス101」が実用化しました。
 それ以降もまだまだ世の中にコンピュータが普及する前に、マルスは進化して「マルス105」となり全国の駅、旅行会社に普及、予約期間延長、乗車券同時発売、団体、企画商品などへ対応して現代への流れをつなぎます。
 そこには、試行錯誤、顧客や駅員の要望に応えた苦労があり、サービス部門と技術開発を連係して日本らしいシステムで世界をリードし進化しました。このシステムがあってこそ、日本の高速鉄道のスピードと定時、頻発が実現できたのです。ただ早い列車を走らせても切符が指定して売れなければ沢山走らせるのは無理です。

 それでも国鉄は、構造的な赤字が累積して、多くのサービスシステムで大手私鉄に先駆されるようになります。JR化後再び巻き返し、自動改札で私鉄に追いつき交通系ICカードを総合的なビジネスワールドにまで高めました。
 その基本となったのが65年前に開発された「マルス」で現在はMARS301という世代に入っています。さらなる進化が期待されます。


 ここまで読んだ昭和の別のマニアにはマルスと聞くと、ウルトラマンの隊員が使う武器を思い浮かべた人もおられますが、マルスには133という世代はないです。特撮の方は「火星」由来とされていますが133には特に背景はなく、当時画期的なコンピュータシステムとして話題になったマルス103が特撮関係者の念頭にあったのではと思われます。
 

追悼 70年代皇帝と演歌の時代

 オジサンの昭和回顧マガジンみたいで嫌だが、先日は1970年代のサッカー少年の憧れの一人だったドイツの「皇帝」フランツベッケンバウアーが亡くなった。ペレやゲルト・ミューラーも鬼籍、少しあとのクライフ、マラドーナもいない。その後のベッカム、メッシ、クリロナらスターも多いが、サッカーがポジションが躍動する近代化の魁だった選手であり、優雅な姿は懐かしい。
 そして、また八代亜紀さんの訃報。
 フォークや、ロックだと若者きどりでも、大人びてジャズだクラシックだと言っても1970年代の子供は否応なく演歌は耳に入る。それが昭和ならではでした。
 五木ひろしと八代亜紀、森進一、沢田研二あたりがレコード大賞を競い、北島三郎もバリバリで、美川憲一、森昌子、小林幸子が出だして、演歌やムード歌謡の耳に入る割合は今とは比べられません。
 日本の各地を、自然や風土、人情と恋愛を絡めて力強く歌い上げていた時代でした。

 まだ子供でおいそれと旅行にも盛り場にもそう簡単には行けない頃、襟裳岬や知床半島、津軽海峡、能登半島、熊本、鹿児島、長崎、道頓堀や新宿、みんな地理のお勉強よりも、高校野球と歌謡曲から先にイメージを抱きました。
 それにしても、シングルレコードが600円、これA面、B面で2曲だけです。今より高い、LPが10曲以上入って1800円とか2000円でした。レコード買えるのは贅沢な時代でした。当時の歌が版権切れてるのもありますが、ほぼ無料でダウンロードできるとは、他の値段が上がっても便利な時代です。

 新年早々、大変な災害、頑張って能登半島も応援していきましょう。
 
 

4年で変わった大阪、日本

 2019年6月、令和の元年に私は退職して1カ月目で職探しの面接のため大阪を訪れました。
5年間いた大阪の本町、立売堀界隈でしたがこの時は2年ぶりぐらいの訪問でした。午前中に受けた京都での面接の結果も気になり、トンボ帰りに近い形でしたが、心斎橋から本町までは歩き、懐かしい船場センタービルなどを訪れました。
 この時、G20の大阪サミットで御堂筋に全くクルマが走っていない異様な光景を味わいました。
 営業車を停めていたビル駐車場の受付のキレイなお姉さんが、覚えていてくれていて嬉しかった思い出があります。ひな祭りやハロウイン、クリスマスなどにコスプレをして顧客を楽しませてくれました。当時すでに、100円パークキングなどのセルフ発券が当たり前の時代にいつまでも、人の発券しかもキレイなお姉さんなのがとても不思議なぐらいでした。
 先日、元職場の近くのオリックス劇場での観劇の帰りに4年ぶりに同じビルを訪ねると食堂街はほとんどが閉店、カフェと寿司屋だけが残っていて、中華や、カレー、蕎麦屋など行きつけは無くなっていました。コロナ禍の猛威なのか、活気のありそうなウメキタなどに比べ、下町は厳しかったのでしょうか。
 そして、一番楽しみにしていたお姉さんのいた駐車場は、残念なことに味気ないセルフ発券となっていました。営業車を都市部の拠点で駐車場契約することも止め、テレワークも進めていたので、おそらくこのビルとの契約もとうに終わっていたでしょうが、残念dす。
 10年前も4年前も変わらないものもあれば、大きく変わっているものもあります。
 4年前のG20が行われた時は、まだコロナ前であり、もちろんウクライナ前であって、米大統領はトランプ、日本は故安倍晋三さんで、ロシアのプーチンも中国の習近平も一同にインテックス大阪に集まっていたのです。
 今では亡くなった安倍さんは別にして彼らが揃うことは難しい国際情勢にたった3年ほどの間で変わっています。世界の多くの国で、政権が変わったり、大きなインフレがあったり、革命や体制、政策が変わっている国や地域が、この5~10年にありました。それに比べれば日本は変わらない、伝統なのかジリ貧なのかでしょうか。
 大阪の街は、新入社員でも勤め、港や川があり都市高速と地下鉄が縦横に走り、活気があって好きな場所も多いですし、懐かしさと親しみがあります。
 万博をめぐる情勢も複雑ですが、今年は理屈ぬきのアレが起こった関西です。関西が起爆になって、日本が元気になり、世界の平和と安定につながるイベントに変わることを期待します。

書評:「京都を歩けば仁丹看板にあたる」

 うーんついに本まで出た!ど真ん中の趣味過ぎて、書評がしにくいです。
タイトルになるほど、すぐには見つからない看板です。歴史も含めて、内容にはいろいろ知らない情報もありました。
 盗難防止のためか、2階の壁に設置されていたりするので、結構通りが交わる角などでは見上げると見つかる場合もあります。
 コロナ禍の制限が緩和され、インバウンド旅行客が戻り出して有名な寺社などの観光地は本当に外国人はじめ、人が多すぎます。
 私は紅葉の時でなくとも、金閣寺や清水寺には何年も行ってない上、まして混雑時に東福寺とか永観堂とか嵐山に行くのは憚ります。どんなに素晴らしい絵画が来ても2時間も並んで雑踏を見に美術館へ行かないのと同じです。
 街は広く、京都人が京都を歩くのは、こういう地味な古い街並みを味わい、オリエンテーリングのように看板を探すのが健脚にも良いのになあと思います。

紙のポスターを貼りまくった思い出

 ただの昭和とか昔の回顧みたいになりそうですが、最近はターミナルやショッピングセンター、バス停なども紙のポスターがなくなりデジタルサイネージと言われるものになっています。

 私が化粧品メーカーに入社して、営業に回された頃は、もちろん紙のポスターばかりで、あとは横長の店頭幕と言われる布を入り口や化粧品コーナーの上に吊るす販促物を、キャンペーンに合わせて設置をチエックするというのが仕事の一つでした。年配の方の店や。営業を丁稚のように使役する店は、自分でやらないとなかなか替えてくれません。コマーシャルが始まっているのに、主力店を幹部が来訪して、販促物が前のままだと、カミナリを落とされ叱咤されました。
 ドラッグストアやバラエティストアなどの企業が主流になると、大型のものや踊り場を占拠する枚数、パウチ加工したものをリクエストされ、逆提案で店の高所や壁周り全体をジャックするような貼りまくりをしたこともあります。ライバルメーカーの営業が来れば地団駄を踏んで口惜しがるような自社モデルの顔で埋め尽くすのは、高所恐怖はあっても快感でした。
 ポスターと合わせ店頭設置のビデオモニターのため、VHSテープやDVDをダビングした時代がしばらく続きました。やがて本部企業から【デジタルサイネージ】にするから、データをこのサイズで送ってくれと言われる、最初はなんのこっちゃでした。
 ポスターをピンやら、ホチキス、テグス糸で止め、屋根近くを忍者のように登っていたのが懐かしい。
 ああやはり、ただの回顧になってしまいました。
 古い街並みを散策して、ホーロー看板の広告などを探すのひそかな趣味になっています。しかしホーロー看板は多少劣化しても丈夫なのですが、紙のポスターは傷み、日焼けして残らないのです。

学歴、職歴、思わぬ自分史を作る機会を得て

 まったく数奇な運命で64歳にして、公的機関で再び採用試験に合格しました。しかし何と高校以降の学歴証明、職歴証明を提出せよと言われました。
 30代ぐらいまでの第二新卒、過年度採用のための書式ではないかと思いました。40年も前のことであり、入社した鐘紡(カネボウ、昭和57年当時は漢字)株式会社という会社は事実上倒産しています。学校も卒業証書や卒業証明ではなく、休学なども含む在籍期間の証明、職歴も仕事撫内容までも含めていったい、そんなの本当に必要で、そもそもはたして手に入るのかと思いました。
 学校関係は成績証明は無理でも、在籍証明は出せるそうです。年金事務の時に逆の立場で学生特例猶予の時にさんざん他人にはリクエストしましたが、卒業ではなく期間在籍の証明で、ネットや郵送で申請して、速達やレターパックで返送してくれました。高校は申請書に3年のクラス、出席番号、担任が分かれば書く欄があり、そこは記憶はすぐには蘇らず、友人の助けを借りました。
 最大の懸念は統合、組織変更した会社の方です。幸い、退社時にも世話になった後輩が花王グループの総務にいていろいろ差配してくれて、入社以来の経歴をうまく組織変更とまとめて記入、代表取締役社長印を捺して返送してくれました。
 高校からの50年におよぶ人生のエビデンス、自分史が完成したのは壮観でした。走馬灯のように見て、これが最後になるのではなく、さらに輝かしいページを加えていけるようにしたいとは思います。
 最後にオチではないのですが、これを提出した後、人事グループは証明を出したところに電話で確認をしてウラを取っていました。その上で、内線で「昭和57年3月21日卒業から、4月1日の入社までは空白期間になりますがアルバイトなどせず無職でしたか?」との確認「はい」と応えましたが、そんな40年前の春休み何してたか、覚えてないなあ(笑)。
 年金事務所では受給資格の足りない人に厚生年金にあたるバイトをしていたら年金が増える可能性はあって確認することはありました。しかしたかが経歴書そこで一週間強バイトしてたと言って何が変わるのかとおもいつつ、何してたのかなと回想しました。社会人になる前でドキドキだったのでしょう。

元気の源 子供と老人の朝の挨拶

 今年は暖かい秋でしたが、冬至をすぎ、そろそろ寒くなると、朝の息が冷たくなります。
 私の職場は北側が京都御苑で、南側は小学校です。南北の廊下の突き当りには緑が見え季節の移ろいに癒されます。それ以上に朝は、通学の子供たちと、その子らを交通誘導するボランティア?の地元のおじさんの元気な声で爽やかになります。
 大きな声で時間を確認したり、クルマに注意を促し、冗談をかましたりして、子供たちも笑顔で返します。玄関ドアを開け、そんな光景を眺めるお年寄りもおられます。
 大人が仕事に行くのは毎日毎日楽しい訳ではありませんが、地元の街の未来を支える子供たちと、それをサポートする大人に元気づけられます。

40年ぶりのマックシェイク●●●●●● #コイバナ

昭和51年刊 毎日新聞社1億人の昭和史8

 高校が同じでも、マンモス大学だとほとんどすれ違い。
 幼馴染で大学まで行った恋愛ドラマのような話はそうそうないものです。内部進学で大学に行ける私学校でしたから、実はそのまま大学でも交際してゴールインというケースが友人には多いのですが、私の場合はそんなことはなく就職して、大学時代までにつながりのあった女性は年齢とともに疎遠となりました。
 高校生ぐらいの交際って、今とは時代が違うでしょうか。メールやLINEが無い分ハードルは高い部分もあったでしょう。
 マセた中学生から高校生の頃、関西でもマクドナルドが進出しだしたばかりで、今のようにあちこちにモールやドライブスルーの郊外店があるわけではなく、京都では繁華街の1店舗が関西1号店でした。
 日本で最初のハンバーガーエイジともいえる世代の我々は、親の世代も含めて、繁華街まで買い出しに行くとともに、若者は店先で、待ち合わせして、ストローを挿しシェイクを吸い、ポテトを頬張るのが流行り、今云うトレンドでした。当時の京都の若者には思い出深いマクドナルドですが、今は逆にその地所にはなくて、あちこちにあります。
 四条通を通っていると、ふとその頃の待ち合わせを思い出します。
 もっとずっと古い建物、老舗旅館や料亭、御茶屋もですし、神社やお寺、学校や西洋建築などが残る中で、昭和50年代のこれという価値のない建物やテナントは入れ替わりが激しいものです。
 
 そう、そんな中で何度か待ち合わせのため、その繁華街のマクドナルドに行きました。
 就職の内定が一つ決まった頃だったと思います。
 今はキャリアセンターとかフューチャーセンターとか言われている、大学の就職課の前で何年かぶりかであった高校の同級生T子さん。当時、私は国立大の歯学部に通う年上の彼女と同棲まがいでしたが、気持ちは離れていた頃でした。
「ひさしぶり、就職決まりそう」と声をかけると
「まだ、大阪でも京都でも真ん中へんだから通えるんやけど、なかなか、内定ゼロ、どんくさくて大事な時に、顔怪我しちゃったし」剣道少女は照れ臭そうに鼻の絆創膏を見せてくれて、笑いました。就職前の大学4年生を少女と呼ぶのも変なのですが、ノーメイクのあどけない彼女の笑顔は少女そのものでした。
「大丈夫や、みんな本命はこれから!」
 私に彼女がいることは、どこかで見知っていた節があり、部活で演劇をやっていることもなぜか知っていたことには驚きました。
 高校時代は一方的に私が片思いしていたようでした。その時期も告白以前にそれぞれ相手がいたりタイミングが合わないままで、マンモス大学で学部もサークルも違えばどんな足跡かも分からない4年間でした。
 何かを押しのけての熱烈な恋愛でもない感情だったのだろうとその時は思っていました。何気にお互いの世間話、就職の苦労話をしていました。でもやはり、心の中ではドキドキしていました。
 本来なら、T子さんとは市バスの後は、別の電車でしたが、寄り道してマクドナルドに行こうということになりました。
 二股とかそういう罪悪以前に、憧れていた人と話すことに心臓のドキドキが止まらなかったのです。
 それでも、少し彼女は内定が出ないことの焦り、悩んでいたようでした。
 当時の女子大生の就職事情は今とは雲泥のものです。自宅から通うというとそれもハンデで、大企業の総合職の割合はまだ少なく、女性に求められる価値観がまだ「結婚までの腰掛け」と思われていた時代です。偏差値も全ての能力で優れた女性が同じ職場で、コピーや書類のファイリングやお茶出し程度というのもあった時代です。そして、コネ入社でねじ込むのが当たり前でした。
 彼女の悩みを聞きつつ、自分自身もまた、情けないことに家業や結婚という逃げ場のない次男という立場を嘆いていました。
 気楽に何でもチャレンジできるとは思えず、不安と億劫な思いに満ちたモラトリアムな若者でした。
 今、目の前にいる彼女こそ大好きで抱きしめることができず、就職で忙しいから、まだ別れていない恋人がいるからと言い訳を考え、胸の鼓動を抑えました。
「私、マクドのシェイクすきなんやけど。あんまり家から行かへんし、これオイシイわあ。サイズ大きいのにしようかな。やけ食い!」
 彼女はポテトのLとマックシェイクのストロベリーを頼んでいました。サイズは女の子が頼むSではなく、MだかLだかまあまあ大きい方でした。バーガーとともにポテトは私も頼みかけていたので、分けようとやめました。
「男の人はいいよ、大きな会社で全国どこでも飛び回れるやん」
 内定が出ない彼女の嘆きがむしろ、社会に出ることにおびえている自分を励ましてくれました。
 シェアしたポテトを譲り合い、指が振れけけるのを微妙に意識し合うのがわかりました。
「〇〇さんやったら、きっといい仕事につける」
 私はありきたりな語彙で平凡な言葉で励ますしかその場を凌げなかったのですが、T子さんは同級生の言葉に元気づけられていたようでした。
 私が当時付き合っていたのは、歯医者さんになるために文化住宅を借り猛勉強していたハングリーな女性でした。その人に比べれば、T子さんは、お嬢様でもあり、また自分の未来へ悩みがあるのだなとも思いましたが、共感する部分は多かったと思います。
 内定を一つ貰って少しだけ優越と不安が混じった甘い考えしかもたず何もできない私は、遠慮する彼女を家まで送っていくと言いました。
「すごく、市内?の井上君の家に比べたら、遠い田舎やで」
 断られかけても、久しぶりに遭えた縁なので話の続きがしたいと私は少し強い意志で彼女を見つめ食い下がり、何とかついていきました。話題が尽きたらどうしようかと思いましたが、同級の昔話や、面接した会社ややりたい仕事など、幸い話題は尽きません。私鉄の駅から、バス停で3つ4つの道をてくてくと歩きました。
 彼女は話を聞いてくれたことにとても感謝し、いい時間だったと言ってくれました。
 次に会うような約束はしませんでした。
「これ、さすがに大きかった、余っちゃった、口つけっちゃったけど、もったいないかあ良かったら井上君持って帰って飲んで、ストローは洗ってからね」
 そんな衝撃的なプレゼントが貰えるとは、今までの話題が飛んでしますほど嬉しかったです。
「頑張りや、もう少し、僕も頑張る」
 内定決まったら会いたいとか、気の利いた次の展開を考えることもできずに、彼女の家の前で別れました。
 いくつもの大きなお屋敷に囲まれた、古い格式のありそうな大きな家でした。高校生ぐらいの弟さんが出迎えて、好奇心いっぱいの目で私を見て会釈しました。
 帰り道をまたてくてくと、甘いマックシェイクを飲みながら、何となく嬉しさに浸りました。

 ずっと後に仕事で、その近くを通った時は、もうその地所のお屋敷は整理されて、こじゃれた駐車場のある建物になっていました。
 今はマックのハンバーガーも高熱調理器で、オーダー後に手早く焼く調理をしていますが、昔は作り置いたバーガーを順番に渡していて、パンが蒸れていた感じなのが今昔の味の違いでしょうか。サムライマックとか月見とか様々新商品もある中、ウーバーで宅配されたり、決済もオーダーも変わりましたが定番の商品も健在です。
 あのマックシェイクのストロベリー味を40年ぶりに頼んでみました。ストローは環境保全のために、素材が変わっています。あの時の彼女のストローの味も、さすがにもう忘れています。

学生時代 通り過ぎた人、初体験話 #コイバナ#ヰタセクスアリス  – 天使の星座 (seizafpkotodama.com)

剣道少女は負けない #コイバナ#ラノベ – 天使の星座 (seizafpkotodama.com)

久しぶりに福知山観光

 4年前に、過去に住んだ場所をレビューする思い出シリーズを書いていました。↓
 京都府福知山市は当時23年前と書いていましたのでさらに4年プラスで27年前。新婚で妻がみごもって、その後、授かった娘ももうその年齢で嫁ぎました。その京都府の北部に位置する福知山市、先日新しい鉄道博物館「フクレル」という施設は福知山城公園にできたということで訪れました。
 当時は鉄道にも、まして廃線跡までには深い趣味でもなく、歴史もそうは興味はなかったので、明智光秀の築いたという福知山城さえ訪ねていませんでした。
 北丹鉄道の廃線跡や、残された車両など、今なら垂涎のものも、散策コースもスルーでした。
 それ以上に20年以上時を経て、その時に合った建物が旧くなり、消えた建物、改築され、新築され、また老朽化したものなど、栄枯盛衰さまざまです。当時大手コンビニは一切なかったものが、今やセブンだけでも駅周辺にかなりの数があります。ドラッグストアチェーンもいくつかできており、地場の化粧品店、薬店の苦戦、撤退も顕著でした。
 人の営みも、鉄道の廃線、新線のごとくです。京都と府北部の中核、綾部市、福知山市を結ぶ山陰本線の普通電車で訪れました。赴任当時はディーゼル大国で、キハ181系特急、キハ85系急行、キハ40系普通など、当時でさえ国鉄型動態保存と揶揄されていました。当時も全国で珍しいぐらい、哀愁のあるディーゼル音を響かせて汽笛もわびしさをかもしていて、絶滅した急行ディーゼル、寝台列車も走り、駅弁の立ち売りまであったのです。
 そんな福知山も、私が去る頃には、電化され遅ればせながら電車特急が走り出し、随分経ってようやくJR化後の電車特急や新快速型の223系が回ってきて、一昨年やっとICOCAなので頭交通系ICカードが使えるようになりました。
 しかし、京都から園部までが快速も含めて4両や8両の編成が行きかうものの、園部~綾部間特に、胡麻から綾部は本数も少ない青春18切符の愛好者でのダイヤ上のネックになるほどです。よくここを電化したなあという、小さなトンネルや鉄橋を繰り返す曲がりくねった路線です。
 昭和のはじめにできた鉄道ですから、特急通過用に電化したのですが、地元の方はやはりクルマを利用するのでしょう。これは、高速道路ができると、いつもいわれることですが、正直ドアツードアのクルマが最新設備で幅も広い高速道路を走るのと、大昔の路盤を使う電車では勝負にならない典型です。丹後の、舞鶴、宮津や福知山も京都縦貫道の完成で圧倒的に早く便利になりました。
 かつては、途中の南丹市までしか、高速道路がなく、そこからのカーブの多い国道の山道を身重の妻が気分悪そうに助手席に乗っていたのを思い出します。今は橋立あたりも飛ばせば2時間以内、平成の終わり頃に一気に便利になりました。
 私の転勤した後、水害や花火事故など不幸な出来事も起こっています。治水においては地下排水のある京都などの大都市とは格差があります。
 鉄道、交通の要衝とされた栄えたJRの鉄道部、支社も今は管理部という格下の組織になっています。
 今も大阪方面と京都方面からの特急が接続し、城崎や舞鶴、橋立へのん乗り換えジャンクションの役割を果たす駅ではありますが、同一ホームで乗り換え出来て、逆に日本海方面の乗客は下車する時間もなく、街をスルーします。高速道路に至っては、サービスエリア以外では止めることもなく、京都から一気に日本海方面へ行きます。
「明智光秀」で観光で注目されたのもつかの間、大手が進出し、デリバリで近代化は進んでも、過疎化に悩む地方都市の縮図が見られます。

 私が結婚して新居を構えた当時新築だったころです。外壁をリニュアルしたりしてキレイになっていました。
 周りは、畑だったのがが外食店になっていますし、買い物事情も随分変わっているようですが、20年以上経て残っているのが嬉しく何か懐かしいです。

思い出から6:京都府福知山市 – 天使の星座 (seizafpkotodama.com)

32年前の橋桁落下事故

Wikipediaより

 私が広島に勤めていたのはまだ昭和62年とかでした。若手バリバリ、イケイケで仕事も遊びもしたもので、当時の若手グループが3人ほどと集まり広島会というのもやったぐらいで、ベテラン社員になっても、当時の広島での3年足らずはいろいろ思い出になっています。
 
 そんな広島から転勤して4年ほど過ぎた時、広島で痛ましい事故があって、新聞で見た死亡者の名前に見覚えがありました。
【広島新交通システム橋桁落下事故は、1991年3月14日に当時建設中であった広島高速交通広島新交通1号線(愛称アストラムライン)の工事現場で、橋桁が落下し、一般人と作業員の14人が死亡、9人が重軽傷を負った事故】Wikipediaより

 会社の幹部に問いあわせると、亡くなった女性はすでに退職しているが、やはり良く知った事務員の子でした。同僚によるといわゆる寿退社前の20代でした。
 軽自動車で買い物途中か何かではないかと言われています。
 それにしても、悲惨の極みの、上からいきなり構造物が落下しての圧死です。
 しかも原因を聞けば、請負業者の信じられない現場でのミス、怒りをおびえる内容でした。
 
 重量物のジャッキ降下というたいへん危険な作業でありながら素人同然の作業員に任せている状態であった。または素人の寄せ集め故にH形鋼の積み間違い(橋桁を受けるためには、完全に強度不足)という、致命的な作業ミスをしていることに気付く者が誰一人いなかったのです。この背景にはアジア大会準備のために広島市内各所で建設工事が行われており、深刻な人手不足のため熟練した作業員が不足していたこともある。そのため工程に間に合わせるために頭数だけそろえた素人作業員が危険な作業をしていたとされています。Wikipediaより

 同事故を教訓として、全国的に危険が予想される現場では交通を遮断する措置が行われることになったといわれています。国の対応も危険な交差点で死人が出てから横断歩道や歩道橋を作るようなものですが、尊い犠牲者のおかげではあります。
 最近でも数年前2016年工事中だった新名神の兵庫県有馬川橋で死傷者10名の橋桁落下事故があり、クルマは何とか奇跡的なタイミングで難を逃れました。乗用車に乗っていて、上から構造物で圧死する確率は、天文学的に低いはずですが、何の因果か当たってしまう人もいたのです。
 

 それにしても、突然の圧死とはなんという悲劇でしょうか。そんなものに巡り合う確率が低いだけに、ご両親や、関係者そしてご本人の無念はいくばくか。 それは運命というには、あまりにも過酷で衝撃的なものでしょう。
1994年、広島アジア大会観戦にこの新交通システムに乗車して、通過地点で黙とうしました。

 広島というと、どうしてもかつて原爆投下ということも思い出します。しかし、全て周りが平和になり、豊かに発展していこうとする中で、その発展への突貫工事の犠牲に、何の責もない人間が召される理不尽さには、嘆くしかありませんでした。
 多くの理不尽な事件もそうですが、亡くなられた方に輪廻があり、今よくドラマであるタイムリープなどで、もう一度生まれ変われる人生があることを、切に願いたくなる。そんな切ない事件が30年以上前にありました。きっと、どこかで生まれ変わて良い人生を過ごしていることと信じます、