祭りやイベントの復活

 コロナ禍でここ2年休止や、無観客、規模縮小になっていたお祭り、伝統行事などが今年はだいぶ従来通りに戻って行われるようです。

 あまりにも人が集中するもの、花火大会や屋台などは従来のような人手集中は避けないといけないでしょう。

 私の住む京都も特に祇園祭、五山送り火はじめ継承されてきている行事は多く、関係者のご苦労を労います。支えるため待っていた町衆の気持ちも最高に高揚するでしょう。そのワクワクした喜びの顔は、想像するだけでコロナの苦難が吹き飛びそうです。

 いろんな町で、今年は祭り、イベントが再開されたりして盛り上がっていくのでしょうか。

 ただ、この2.3年の間にも高齢化、過疎化人口減が進み、前の賑わいか戻らないところもあるかもしれません。京都など知名度があり大規模なところはそれなりの大変さはあるもののファンドなどもいざとなれば集まりやすいでしょう。限界集落とはいかなくとも、宮司や住職、祭りの担い手がどんどんいなくなり、資金もないところも増えていると思われます。夜店の屋台で、怪しげなゲームや買い食いした思い出を作れない地域があるなら寂しいことです。

 それぞれの町の行事が減り、イベントも派手な大都市に集まる傾向が強まるのかと思うと、それも何だか切ないようにも思われます。

 

祭りやイベントの復活

 コロナ禍でここ2年休止や、無観客、規模縮小になっていたお祭り、伝統行事などが今年はだいぶ従来通りに戻って行われるようです。

 あまりにも人が集中するもの、花火大会や屋台などは従来のような人手集中は避けないといけないでしょう。

 私の住む京都も特に祇園祭、五山送り火はじめ継承されてきている行事は多く、関係者のご苦労を労います。支えるため待っていた町衆の気持ちも最高に高揚するでしょう。そのワクワクした喜びの顔は、想像するだけでコロナの苦難が吹き飛びそうです。

 いろんな町で、今年は祭り、イベントが再開されたりして盛り上がっていくのでしょうか。

 ただ、この2.3年の間にも高齢化、過疎化人口減が進み、前の賑わいか戻らないところもあるかもしれません。京都など知名度があり大規模なところはそれなりの大変さはあるもののファンドなどもいざとなれば集まりやすいでしょう。限界集落とはいかなくとも、宮司や住職、祭りの担い手がどんどんいなくなり、資金もないところも増えていると思われます。夜店の屋台で、怪しげなゲームや買い食いした思い出を作れない地域があるなら寂しいことです。

 それぞれの町の行事が減り、イベントも派手な大都市に集まる傾向が強まるのかと思うと、それも何だか切ないようにも思われます。

 

昭和の日

 昭和の時代は1926年から1989年まで63年あまり続きました。今の日本の人口構成でこの間に生まれた人はまだ7割以上を占めています。戦前となると77歳以上の後期高齢者となり、戦後すぐの第一次ベビーブームの人でさえもう高齢者となっています。一番若い昭和生まれが33歳なのですから、時の移ろいとともに日本の人口を占める高齢の割合に改めて愕然とします。
 第一次ベビーブームから最大の第二次ブーム、団塊の世代を経て、出生はその後激減します。昭和の終わりの手前までは正三角形に近かった人口ピラミッドは、縦長で上の方に太いいびつなバランスの悪い形になります。

 日本では戦争は遠いもの、語り継がれる昔になってしまいました。戦後生まれの私でさえ、直接の体験はなく60歳を過ぎているのですから、その下さらにその下の世代にとっては伝言の伝言です。もはや正確というよりは画一的なもの、恣意的だったり情緒的なものに左右されやすい話になっています。

 間違いなく戦中、戦後すぐの日本は最も不衛生で貧しく食べ物にも困っていた時代でした。そのなかで何とか高度経済成長を成し遂げて平成、令和へ今の飽食とまで言われる豊かな時代がきました。
 戦争の時代に生まれ兵隊として戦地で帰らぬ人となった人や空襲で亡くなった人たちがたくさんいて、身体にも心にも傷を負いながら残された人たちはその分を生き抜きました。
昭和のくすんだ服の子供たちがやがて日本を伸ばし、支え、今の日本の課題も生んだ。昭和とはそんな時代です。今日はそんな日本の今に至る大事な歴史のページを想起する一日です。

宮城県北部大崎市のお酒を呑む #宮寒梅

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 京都も底冷えで本当に寒い日々でお酒が恋しい時期です。
 宮城県北部米どころ大崎平野、古川の寒梅酒造という蔵元の「宮寒梅」を取り寄せて飲み切りました。
 平成23年(2011)に東日本大震災で仕込み蔵が全壊したものの、小さな蔵元ですが同年12月に蔵を再建され、新しいイメージのお酒にトライされたそうです。
 大吟醸ですが重みはなく、フルーティでかつ甘ったるさのないキリっとした味です。
 この1杯だけで嬉しくなるような、ほのかな香りと見事な味わいでした。
 日本酒はそんなに呑んでいるわけではないのですが、こんなに美味しいドラマが味わえるようなお酒があるのに驚きました。東北の人の長い厳しい冬から春を待つ気持ちが伝わります。
 ワインよりも飲みやすく、720mlしばらくの日々で2本空けてしまいました。
 

買い物先は税金をどこで払っているか

 私は商店街の店舗兼住居の家に生まれた商売屋の子供です。父親も商店街の理事や業界の役をしていたので地元商店街の付き合いもあって近所で買うのが当たり前でした。
 幸い京都の中でも大きな商店街で市内北部や亀岡あたりまで商圏を誇ってそれなり何でも揃うので日常生活には困りませんでした。
 しかし百貨店、繁華街の高級ブランド店などでないと一部揃わないものもあり、そっちへ行き買って持ち帰るときは少し包装やバックを隠してこっそり持ち帰ったものです。
 一時後継や業種による淘汰で、閉店も増えシャッターのままもありますが、今は大手ドラッグストアやコンビニ、個性的な店も増えています。それでも買い物の形態も変わり、昔ほどの活気はないでしょう。
 本当の地元にお金が落ちて、自治体の税収につながる個人店がどれだけあるかと思うと寂しいものです。
 そして、今はもう近所はばからず、マンションや店にさえamazonなどの宅配便も来ます。郵便が来ない休日も夜も来るのは軽トラックに積まれた夥しい数の段ボールです。ネット通販大手、これらの収益による税金は、地元どころか日本にさえ落ちてないのではないかとされています。
 買うほうにすると、確かに早いし品揃えも違いすぎます。ドラッグや激安スーパーには価格で勝てず、ネットには速さや品揃えで勝負にはなりません。それでも地元に貢献するつもりで、多少高くもいい店にはお金を落としてあげるのは日本人の持つべき人情です。

父の12月 #商店街クリスマス#昭和歳末

 私の家は化粧品店だったので、12月はかきいれどきで月に2回程度の日曜の定休日もなしで、クリスマスや歳末のセールをやっていました。
 ツリーを出して備え付け、キラキラしたモールや、さまざまな装飾を父が飾り付けていました。
 12月は両親が忙しいので小さい頃は遊んでもらえなかったのが物足りなかったことも何となく覚えています。その分少し暇な1月には家族一緒でした。子供にとってはクリスマス、冬休み、お正月とイベントを待ちわびる月でした。
 今も12月は繁忙期という商売、職業は多いでしょう。高度成長期だけを美化してはいけないのでしょうし、システム化されてもハードな仕事、休みの少ない仕事は多々あります。
 ただ全国的に見て特に地方の商店街や、街の個人商店が激変したのは確かです。電気屋さん、本屋さん、お米屋さん、お薬屋さん、化粧品屋さん、豆腐屋さん、時計屋さん、眼鏡屋さん、大手チェーンができコンビニやスーパー、ネットですべて便利に手に入る時代。12月に入って活気のある商売のできる個人商店は昭和の時代ほどはないでしょう。
 朴訥な父が、脚立を使い天井にモールを張っている姿が私には12月の光景として懐かしく思い出されます。

銭湯 ユニットバス 内風呂の時代           #ほくさんバスオール

 昭和の時代、家にラジオやテレビ、エアコン等の家電、クルマが入ってきたのは時期もありますし、まあ貧富の差もあって家庭により違います。
 それでも昭和40年代は多くの都市部の家庭には内風呂がなく、銭湯に行ってフルーツ牛乳を飲んだ話題などは比較的共感します。
 昭和48年ぐらいの同棲を描いたヒット曲「神田川」も銭湯に通う男女が描かれています。
 家の広さにもよりますが、私の住んでいた京都の町屋等は風呂の余地はなかったですね。
 銭湯で近所中の人に出会う時代がありました。その後我が家ではユニットバス、商品名としてはほくさんバスオールというものを買い内風呂の仲間入りを「しました。これは昭和45年前後からニュータウンの団地等でも急速に普及したそうです。大規模は工事要らずで、内風呂感覚が楽しめる。最初は洗い場のない湯舟の蓋の上でシャワーを浴び身体を洗いました。のちに洗い場の独立したやや大型のものが出回りました。
 昭和57年に社会人になった頃はまだ、ワンルームマンションもなくユニットバスタイプの共同住宅も少なかったようです。私も同棲まがいの彼女の文化住宅のような住まいに泊まり、銭湯に行った記憶があります。
 実家はいつの間にか、内風呂を工事して作りました。世の中に内風呂が当たり前になりだすとさすがに町内の銭湯、お風呂屋さんはどんどん廃業していきました。大型のスーパー銭湯みたいなところだけが残っています。
 今はパーソナルな空間が当たり前になり、贅沢として温泉や銭湯で共同の風呂を味わう感じですね。
 昔が良かったわけではないですが、もう製造中止になったユニットバスの時代も何となく懐かしいです。

昭和48年の緊急事態宣言

 昭和48年、総理大臣は前年から今太閤と言われた田中角栄。ロッキード事件で逮捕されるのは翌年ですが外交と経済施策でのリーダーシップは難局を迎えて、人気に翳りが出はじめたようです。
 金大中事件もあったこの年、第四次中東戦争を契機にオイルショックでガソリンをはじめあらゆるものが値上がりする狂乱物価となりました。買占めが横行して、トイレットペーパーに行列ができました。
 政府は石油緊急事態宣言を出しました。
 私は当時中学2年生だったかな。ガソリン価格の高騰は率から言うと今より激しい。大手チェーンも少なく、メーカーや政府の価格のコントロールは今より難しかったでしょう。素人の転売は少ない時代だったので、逆にない時は本当に手に入らない時代でした。
 その後何度かの災害、政権交代、事故、薬害、暴落、いろいろ昭和、平成と駆け抜けた日本です。
 この年、かぐや姫「神田川」、チューリップ「心の旅」、堺正章「街の灯」五木ひろし「夜空」前年発売でこの年ブレイクした、ちあきなおみ「喝采」と騒然とした世相を背景にしながら、しっとりと今も歌い継がれる名曲が年末の街に流れていました。

忘れかけていた彼女の思い出

 自分も忘れかけていた20代で友達以上恋人未満であり続けた女性の夢をみました。彼女のことを久しぶりに思い出しました。
 今年は何となく青春群像劇みたいなドラマとか、もどかしいラブコメが印象に残ったからかもしれません。チャラい恋愛ではなく、仕事とか生き方みたいなテーマで学生時代の仲間の男女が描かれていたりしたせいでしょうか。
 実際に恋愛感情を表に出さないシャイな男女のつきあいって今時そう多くはないのでリアリティないと思ったりもしました。
 しかしよく思い出してみると、若い頃本当にシャイでなかなか結婚を前提にお付き合いしましょうとは進まなかった自分がいました。
 その夢、仲間と同窓会のように集まった席で、当たり前のように寄り添い彼女から背中に手を回してきた。
 未だになぜあの時結婚すると言ってくれなったかを責められているような、もどかしさとやはりあれは恋愛だったのかというある種の安ど感がありいました
 あの時勇気をもって告白し、それを受け容れてくれるか確信も持てなかった。仕事でも一人前でない上、結婚までの恋愛の道筋や相手の深い心理の分からない若輩でした。
 もう30年以上前になるので、思い出すのも断片的で、社会人になって大阪に3年、その後広島に赴任した頃まで帰省する度に二人で会って他愛のない近況報告的話をしていました。
 それもデートスポットに行くでもなく、繁華街を歩くか公園散歩、彼女の家でゴロゴロしてたとかでした。
 化粧品会社にいたので多くの女性との関係に悩み、仕事にも悩んで相談をしていたような気もします。そして彼女の気持ちや悩みはあまり勘ぐっていなかったのでしょう。
 化粧品会社には美魔女のような妖艶な女性が多いということに彼女は「妖艶はパスですね」と自分はそういう女性とは勝負にならないという意味の宣言をしていました。元々地味な顔立ちで隣の友人がひまわりならば可憐な野菊のようなタイプの方でした。
 力づくのような恋愛が嫌いだということをサークルの中の本人のメモで見かけて私はそれはそれでちょっと慎重になっていました。
 いろんな要素が公園の迷路のような遊具で追いかけっこをした時、真正面でぶつかりかけた時抱きしめるような間合いがあったようですが、結局手を握ったぐらいまででした。
 今から思えば20代の後半なんて結婚には早いのですが、当時は女性は25過ぎたらクリスマスケーキとも言われ、何だか気持ちのはっきりしない先輩にいつまでも未練は持たずか、彼女が結婚するという話を聞きました。
 直接聞いたのか、彼女の友人からかもう忘れましたが、異性なので当時は当然式や披露宴には呼ばれずお祝いを家に直接家に持っていくことになりました。
 少し洒落たお祝いだったとは思います。
 その前から交際は聞いていまして、彼女の家で時間差ですれ違ったこともあるようです。まあ彼女が二股というわけではないでしょう。たぶんその時、私も別に交際している人や好きな人はいた時もありました。
 でもお祝いの大きなパネルに入った写真だか絵だかを渡し、彼女に部屋で話し込んだ日は特別でした。もう結婚は1週間後ぐらいの最後の休日の夜です。
 彼女は私との思い出を細かくつぶさに一つ一つ饒舌に話し出しました。私が合いの手を挟み返事をするやいなや途切れなく、私が忘れかけていたような場所や言動まで漏らさずに話しだしました。
 思えばその時彼女はマリッジブルーで何かにとりつかれていたのかもしれません。あえて彼女は私から絶対に話を切らせない。この時間が永遠に続くのを望んでいるようなトークが続きました。それでも常識的な時間ではない深夜になりつつありました。
 自分からは止められない空気だったものの、こんなに微細に語っていてはとうてい今夜中に終わらないと思い始めた頃、彼女の母親が入ってきて彼女を呼び出し諭したようです。
 何を母親に諭されたのかは分かりませんが「もう遅いので、」ということで話としては半ばのまま、日付が変わる前には彼女の家を出ました。
 あの夜も、大逆転で結婚を止めてプロポーズをするという選択肢はあったのでしょうか。
 そこまでの強い気持ちは無かったからこその今とは思います。人生にタラレバは無いのです。
 このエピソードはまあ良識ある人に言わせるとあり得ない鈍感と非常識といわれています。
 あの時結婚していれば、数年後今の妻に出会うことも、今の愛息たちが産まれることはなかったという運命なのは間違いないでしょう。
 

子供の頃の外食 お子様ランチとクリームソーダが至福の定番だった

昭和34年生まれ、商店街の商売家で育ちました。子供の頃の商店街は、全国でもかなり早いアーケードを作り、近隣からの集客も多いそれは賑わった店ばかりで、今のようにマンションやシャッターの閉まった店、活気のない高齢者経営の店はなく、高度成長期で日曜日も休みでは無く、みんなが遅くまで遮二無二元気に働いていました。
うちの様に店舗と住居が一緒のケースが多く、内風呂がまだ少なく、店が閉まる8時以降に銭湯に行ってくつろぐ家人が多かったのを思い出します。
今も週休二日制のサラリーマンより商売家は休みは少ないでしょうが、当時は月に一度25日が定休日でした。日曜日に店を閉めて折れば、今のターミナルテナントなみに損で、他にも迷惑をかけ暗黙の顰蹙を買う雰囲気だったのかもしれません。
今は大手や通販にお客を奪われた多くの業種のお店が閉まるか細々と開け、まあ洒落た飲食やファッション、雑貨店、ドラッグストアは入り商店街は維持されていますが、日曜日は個人の店はほぼお休みのようです。
それを想うと昭和40年代みんなよく働いたのです。そして子供の私にとって定休日は親と遊べる月に一度のワクワクするような楽しみな一日でした。
日曜日と重なると遠出ができ、平日でも小学生の帰宅時間はそれほど遅くはありませんので、ちょっとお出かけぐらいはできました。
母がメインで店頭に出る商売なので、普段の労いもあり、何か月に一度かは外食に行きました。当時ファミレス等はなく、デパートの屋上か、近所に1軒あった洋食屋、おでかけと聞くと本当に嬉しかった。
母には悪いけれど、今ほど手軽なレシピも。加工食品も素材も調味料もない時代で、商売やってるので店屋物とお手軽な料理主体でした。
今思うと家でも手のこんだ料理は美味しいし、ファミレス程度の洋食などより美味しいものはいっぱい食べらる時代でになりました。
この頃、ハンバーグとエビフライのお子様ランチ、食後にクリームソーダが定番でした。それが子供には至福であり至高だったのです。
確かに小学生の友達の中にほんの一部、他のビフテキ、焼肉とか鍋とかもっといい店にいっている子もいました。しかし、多くはあの洋食店が最大至高だったか、それすらも行ったことのない庶民の子ばかりでした。
そして、小学校のこの頃、商売も鰻登りに栄えたのでしょうか。ようやく日曜日が月2回ほど定休日になり、私立の中学にまで行けるほどに恵まれました。
老舗の料亭、割烹、レストラン等は存在し成長していたわけで、世の中にはそこを利用していたリッチな人はいたわけです。世間には本当にお金持ちがたくさんいて、美味しいものが沢山があることを知ったのはもう少し大きくなってからです。
あの洋食店も、撤退はしましたが、京都のあちこちにその後継店はあり、もっと進化をしていました。