手料理がうまい家庭とは

私は商店街の商売屋で育ったので親を見て早食いですし、付き合いでの総菜等のもらったり店で店屋物もそれなりあったので、じっくる手間暇かけた食事を子供の頃から知りませんでした。
京都市内の下町でしたから、寿司や鰻をとっても、家族そろって外食ということも無く、マナーdとかそういう雰囲気さえ知りませんでした。
独身時代は賄い付きの寮大阪と名古屋でそれぞれ1年ずつ、あとは先輩後輩とのルームシェア型のマンション時代も少しありましたが自炊はちょこちょこ、その後は時代がワンルーム主流となりました。残業の多い時代なので毎日の自炊は難しかったです。
結婚して、しっかりと修行したパートナーの作る食事には今となっては本当に感謝してますし、栄養バランスも配慮され一人では絶対食べない野菜やらもいただいています。
旬の食材、夏や冬の野菜、根菜や菜っ葉類も充実しています。本人も一度がんを患い、長男も持病を抱えているせいもありますが、本当にいろいろ考えた食事が美味しく出てきます。
長男が入院している頃も同部屋の他の子らが、働いている母親だと、なかなか普段手をかけた美味しい食事を摂っていないことが良くわかりました。
今の時代、インスタ、ブログ等のSNSやら通じて、映えも重視されますし、またレシピや調味料の情報もどんどん広がり、昭和の我が家の母親の料理とはすべてに雲泥の差なのでしょう。
営業で外にも出ますし、付き合いの夜の会食も仕事の内です。そんな中で家庭の料理はやはり重要です。メタボにならないバランス等もですが、何と言っても野菜等は、料亭やレストランに比べコスパが違いすぎます。
私等以上のお金持ちやグルメの方は外食でのSNSを見かけることも多いですが、私はSNSは本当は手料理を上げた方がいいのではと思います。店の紹介だと、所詮宣伝のようなもので、先駆がいてもっときれいに写真撮ってたりします。まあ手前味噌を照れて自慢しないのが日本人の美学なので少ないのかなとも思います。
やはり外食を高頻度でアップできる方は豊かな層だ思います。憧れ、羨ましいと思うときもありますが、もし奥様も外食好きで、普段から栄養バランス考えるお手伝いさんや執事がいない家庭ではと思うと、まあ私は恵まれていると思います。

大阪阿倍野

大阪市の南部、天王寺区や阿倍野区あたりは、京都からはめったに行かないエリアでした。いわゆるキタ、梅田周辺が主に遊ぶ地域で、せいぜいミナミ心斎橋や難波あたりまで最も遠い印象でした。
最初に赴任した大阪は8つに分割された大阪府の第一南ということで天王寺から一つ南の昭和町という駅でした。最初は堺市上野芝の寮から通い、その後阿倍野区のマンションに移りました。
会社と住まいの往復が主で、休日は京都に戻ることも多かったのであまり周辺部を散策していませんでした。
先日、初めて堺と天王寺を結ぶ阪堺電車を完乗しました。近くにいたのは1年くらいですが乗車はおろか見てもいなったです。
恵美須町駅や恵美須町駅や新今宮駅前は、大阪で最もデンジャラスな駅。ホームは夜は、「家なき人」の塒となり、少し酸っぱい汗と、独特の匂いがします。
朝になると、いつの間にか夜を過ごした人はいなくなります。
路面区間の多い1両編成のチンチン電車ですが、下町情緒たっぷりでなかなか面白いところです。

災害があっても住み続ける人はいる

お盆前後に気象が大荒れ、台風も来た上に、大雨で全国的に被害も出ました。
コロナばかり警戒して結局まだコロナで死者を出していない地方の小さな市や町が台風や大雨では死者を出してしまっています。
皮肉な運命というか、あらためて日本を見渡すと土砂災害や洪水、津波、地震まで含めると災害に遭わない地域を見つけるのが難しいぐらいだと感じました。

それでも人は生まれ育ち慣れ親しんだ土地を離れたがらないものです。
都会がなんで揃って、仕事もあり人にもいっぱい会えるはずでも、お年寄りをはじめ地元に執着される方はいます。
転勤でいろんな県の地元採用の営業や美容部員さんと仕事をしました。島嶼が地元という人もいました。宮城県の地元の人、石巻のそれこそ震災でどうなったかわからない街の人が、離島にいる母が本土に戻ってきてくれないと嘆いていた。

石巻でさえ、仙台からみても東京や京都から見ても相当に田舎なのにである。
近い将来、少子高齢化、インフラの老朽化、温暖化での気象や地質の変化で、限界集落のライフラインを自治体はいつまでも維持できない可能性があります。
でもその人が語っていた母の話を思い出すと、こじゃれた高齢者向き住宅やアパートを用意しても無理なのは判ります。
空気だったり、自然だったり、言葉だったり、そこにいる自分も含めた人間がそこにいないとダメという感覚なのでしょうか。
住み辛いエリアが増える日本で一つの課題です。

原爆を落とす日 「いつか、、、」#つかこうへい

光文社

今年もクソ暑い8月の上旬、太平洋戦争の末期、米軍が日本に原爆を落としたことを振り返る日々が来ました。
私ももはや若い人から見れば戦中はにも見えるような年寄りですが、1959年の高度成長期生まれで、戦争は語り継がれたものです。
大学時代に演劇を志したこともあり、1980年代同世代の演劇人にとっては「つかこうへい」は時代を代表する大きなインパクトある演出家、脚本家でした。1948年生まれで戦後派です。
当時小劇場、アングラ演劇は唐十郎や寺山修司等に代表され「胎内回帰」とかシュールで暗く難解なイメージでしたが、アングラ第二世代と言われた「つか」の舞台は、明るくおふざけの多いアクションあり、マシンガントークで畳みかけるコミカルでハイテンポで、派手なアクションやダンスも取り入れた時もあり、その中に深いテーマを盛り込んだ舞台でした。
「蒲田行進曲」の映画化ヒット等で一時期つかは時代の寵児ともいえるくらいの人気を博します。今でいう三谷幸喜ぐらいの売れっ子でした。この影響で野田秀樹、鴻上尚史等も続々と現れ、若い世代に演劇が根ずくことになります。今は硬派の作品や、人気のあった舞台の本しか残ってない感じですが、当時角川書店やらいろいろエッセイ本等玉石混淆で沢山出てました。
「広島に原爆を落とす日」は「戦争で死ねなかったお父さんのために」に続く戦争をテーマにした作品で、戦中の設定は初めてのものです。正式な戯曲、脚本がなく毎回、口立てで変化するのが特徴のつかの演劇です。逆に初期と後期では全く変異しています。
得意のギャグの多いハイテンポなトークの中に、カミングアウトしたつか自身を投影した朝鮮人の主人公が代表的な後期の作品です。いろいろな政治的要素、差別等の社会問題が入りながらも日本人女性との悲しい愛を描くところに力点が置かれているのは一貫したこの演出家の姿です。
原爆の日の追悼にはやや斜めからの視点かと思いましたが、どうも今は当時のイメージ以上につかこうへいの硬派な部分が残り伝わっているのかなと思います。
それでも切ない愛があり、笑いがあり、争いや大きな悲劇を起こしてしまうのが人間の性なのだと描いていると思います。
原爆を非難する人、核兵器を容認する人、無視する人「8月6日にはそんなことちゃんと考えておけよ、日本人なら」とつかこうへいは言い放ったそうです。
戦後間もない九州に在日として育ったつかの少年時代の苦しみは想像しきれません。それをユーモアとエネルギー溢れる舞台にして一時代を駆け抜けた姿はかっこいいに尽きます
今、世界のさまざまな人種のアスリートが東京に集っていますが、差別や格差、内戦、飢餓はまだまだ世界中にあるようです。
金 峰雄(キム・ボンウン、 朝鮮語: 김봉웅 )が、ペンネーム「いつか公平に」に託した

青春の旅2021

コロナ禍で猛暑も続き何かと気持ちも落ち着きません。昨年は昨年は自粛した青春18きっぷでのローカル線散歩、今年はプチ旅に行きます。
すでに2回使用して元はとっていますので、あと3回は気ままにローカル私鉄、3セクへのアクセスにも使います。
感染対策をとって閑散のローカル、廃線を中心とする予定です。
それなり青春18や撮り鉄等の密も避けたいと思います。
私は眺望もですが。前面展望でいうとやはり架線のない非電化単線、少し草の生えたローカル線が好きです。
不要不急の外出の典型のような青春の旅で、状況により中止はします。しかしいくつになっても旅はあきらめないというスタンスは貫きます。
コロナの感染者数は増えていますが、悪いことばかりではない確実に抗体を持っている人は増えていると思います。
まあ還暦すぎた年齢だと、お金のある方はリゾート地にゆったりと、移動も高級車やエグゼクティブクラスでという人もいるでしょう。私もリゾートホテルやグリーン車が嫌いなわけではないです。しかし青春18のルールの制約を守る知的ゲームの面と、普通座席で出会える光景がまた良さがあり、捨てがたい魅力に取りつかれる訳です。
実はすでに九頭竜湖線(越美北線)と紀勢本線行きました。

世代交代

1年遅れでやっと開催されたオリンピック。すでにいくつかのドラマが生まれる一方。
この五輪を最後に現役第一線を退くことを発表したり、まあ事実上3年後のパリは無理そうなレジェンドも多いです。東京が地元開催ということで現役にしがみついた方も多かったでしょう。
プロ野球も松坂大輔が今季限りで引退発表。メジャー帰国後は影が薄かったですが、平成の怪物と言われた日本のエースでした。その後を継いだ田中将大もベテランの域で、メジャーの人気は大谷翔平です。
こんな話で世代交代を書いてると若い人から見れば年配、年寄り、高齢者なんでしょう。
俳優さんでももう若い頃から見てると、ああ老けたなあと思う以上に書いてる本人は老けてるのでしょうが。
1年のずれで今年はサイクルが違いなすが4年に一度の五輪はいろいろ振り返るのにいい年だと思います。
生徒や学生の時期は学年に左右されますが、若い時期は4年ごとのマイルストーンをひとつ目標を定めて進めることもいいと思います。
制度や法律、社会の変化が少しあり、自分の立場も変わるのが4年のサイクルです。
もちろん、年齢を重ねると出世や増収だけでなく、マイナスの時期も来ます。引き際、フェイドアウトも考える時期も誰にも来ます。
勇退する時の言葉等は参考になります。

祇園祭発祥の地

祇園祭のハイライト還幸祭の夜のはずでしたが、今年も中止でした。私の実家、本籍地は京都市中京区御供町(おんともちょう)祇園祭の街としては西で、三つの神輿の中継所祇園御供社の斜め向かいでした。最近は少し後祭も注目されましたが、本来の祇園祭の由来から言うと鉾(矛)は神輿の露払いに過ぎないのです。場所も八坂神社ではなく、神泉苑のこちらが発祥といわれています。山や鉾の保存の街とはまた違ったお迎えとおかえりのお世話がありました。

オリンピックがらみのお休みも終わりました。個人的には梅雨明けの一番暑いこの時期に大人にも連休が毎年あってもいいように思います。私はいい年こいて青春の鉄道三昧の二日間でした。幸い疫病にはかからずにリフレッシュしました。皆様も暑い夏、ご自愛ください。

熱く感動した仙台での「復興」オールスター

東日本大震災からあ10年の今年も夏になりました。野球の話になりますが7月17日仙台でNPBオールスターの第2戦が行われ、試合前に震災の時1歳だった小学生が「東北は強くなりました」「10年後は選手になって、感動させる立場になりたい」旨の挨拶をしました。東北ゆかりの選手の目頭を熱くさせました。
本番の試合も東北楽天ゴールデンイーグルスの選手が投打に活躍し勝利、セーブ、決勝に得点打点も総なめしました。
派手な演出ではないですが、10球粘って四球で出塁し、同僚島内選手の長打で一塁から懸命にホームに駆け抜けた小深田選手の姿と、それに声援するベンチの全選手の姿に感動しました。
まだまだ東北が完全に復興して全ての人々が強くなった訳ではありません。
東北人のひた向きな粘り、真摯な努力にはいつも感心します。
次は東京を中心にオリンピックが開催されます。コロナ禍で当初目論んだ経済的成功には程遠いようですが、世界に今の東北の復興ぶりをアナウンスする機会として、大いなる成功を期待しています。

会津っぽ、中華そばの思い出

東北には「会津っぽ」という名前でごくメジャーな外食チェーンでした。どちらかと落ち着いた「中華そば」加水製麺とか創業年を謳い、壁にも縁日でのたまの御馳走が中華そばだった時代からのこだわりの物語が描かれていました。
幸楽苑の屋号で全国進出を果たすのですが、290円の激安を売りにして利益が上がらなくなり、追加メニューを工夫するなどしていました。
今のつけ麺やらいろんな創作風のラーメンに比べると、地味な中華そばです。
ラーメン、中華そばがご馳走だった時代からすると、百花繚乱の1000円以上もする高級ラーメン時代等信じられない話ですが、まあ無骨で平凡ですがここのラーメンも餃子も嫌いではありませんでした。
仙台にいた頃5年間、家族で行った近所に店もあったのと、ある流通企業の本部で各メーカー集合させられての棚割り会議の夜食に良く行きました。
関西に戻って酒の量販「やまや」とともに。「幸楽苑」が出店してきたのにも驚きましたが。中華そば290円の安い戦略にもびっくりしました。しかし、その後この企業があの激安ステーキ店で一斉を風靡するとは思いませんでした。
逆に私が東北にいた頃は餃子の王将がまだ出店していませんでした。京都発祥の『天下一品』はフランチャイズで1店あり、懐かしくて行きました。少し個性のあるこってりラーメン、このチェーンも、他の個性あるラーメンに押され下火の時代です。
私も年齢を重ねて、胃も弱くなりましたので、もうそんなに個性的なラーメンを食べ歩きたいとは思いません。素朴な中華そば系ラーメンをたまに具沢山で家で作って食べる程度です。

戦後高度経済成長期はもっと格差があった

子供は純粋であったり、鈍感だったり残酷だったりします。昭和40年代に小学生だった私たちの学校、生徒たちの格差はある意味今より今より大きかったです。
給食や肝油で栄養を補い、その給食費の支払いもぎりぎりの家庭もありました。
高度成長期で、働けば働くだけ儲かりだした時代ですが、まだまだ戦後の厳しい中で苦しい生活の家庭もあったのです。
私は鈍感な方なので、他人がお金持ちか貧乏かというはあまりわからなくて、誰とでも遊びました。
少し大きくなるにつれ、あそこの家は✕✕だなどという情報が入ってきます。公立の小学校ですから、町内によってはいろいろな難しい地域や家もありました。今考えると昭和は個人情報保護も人権擁護もユルユルでした。
空地もなく、公園も狭いので駐車場などで遊んで怒られました。
洒落たお金持ちの家でもそんなにうらやましいとは思いませんでした。大手商社にお勤めの親の家でしたが、まあ狭いながら自分の部屋のある自分の家が誇りでした。
世の中にはお金持ちと庶民がいると本当の意味で実感するのは、大人になりずっと後でした。昭和40年というともう半世紀前、その20年前が終戦、焼け野原の時代からすると大きな格差があって当たり前。しかしやっかみ、妬みというマイナスの感情は格差が大きいから生まれるのではないのかもしれません。庶民から見れば一流の企業に勤めても、官僚になってもさらに上に高等な市民がいることに気付けば、嫉妬は生まれます。
気の持ちよう、心の在り方かもしれません。格差に妬み、自分の境遇を悩む時は誰でもあります。私もいくつかの場面で、居場所を失い悩んだ時があります。そんな時、子供の頃の無邪気さを思い出しましょう。
何かを得たら、次の何かを欲しがり、今の立場を守ることにも汲々とする。そんな時、何もなかった知らなった頃を思い出しましょう。