「虎に翼」 寅子にも負けず 社会の変化

 このトシで家で六法を置いて勉強するとは、夢にも思わなかった私の机に今の現実です。朝ドラヒロインに負けずに勉強です。
 先週からの朝ドラ「虎に翼」ではヒロインの母親役石田ゆり子が娘の決意と「時期尚早」との言葉に逆切れし、振袖の替わりに六法を書店で購入する場面があり、今週から伊藤 沙莉演じる寅子が法曹界に進むのでしょうか。
 私自身は、今の時代なので職場でカンタンに六法はじめいろんな書籍を貰ったり、ネットで手に入れられる恵まれた時代です。そして、働く周りの半数は女性であり、昨年卒業した同じ大学の法学部出身という女性もすぐ横にいますし、今年裁判官になったピカピカの判事補、司法試験に受かった司法修習生もやはり半分女性の時代です。
 産休明けの若い女性の裁判官も限られた時間ですが、働いておられます。そういう面では戦前、昭和のはじめ、戦後直ぐぐらいとは時代が変わったとはつくづく思います。
 

 そして、女性の生き方、価値観、ドラマのネタバレになりますが、当初ヒロインの母親は娘が学問に秀で、成績も良く勉強熱心なのはわかっていながら、女性は馬鹿の振りをしてでも、お見合いをして結婚して家に入り子供を作っていかないと幸せになれないと譲らない。失敗すると、とてもみじめになる危険があるからと古い価値観、戒めを押し付けていました。
 

 ただ、一見古い考えにも思えますが、この考えがほぼ絶滅危惧種になった現代、子供を自由にさせ過ぎて育てて、結局は若い世代で仕事も家庭も子育ても十分にできないままの人間が増えているような気がします。人口が右肩上がりの時代では中途半端な人間が多くても良かったのですが、今はそれが少子化、人口減少に直結します。
 女性差別して、優秀な方だけをというと、今の時代はすぐ文句を言われ炎上しますが、女性の中にも、昔のように結婚して子供を産んで家庭を守っていくだけの生き方でいいと思っている人もいるはずです。いろんな職業の女性進出を描く朝ドラ的な考えが、逆に伝統的な考えを差別し追いやり結局は結婚し無い人が増え、少子化にもつながっていくのではとさえ思います。
 女性が能力もあり、ともすれば男性よりも優れている人は多くいます。それでも子供を産んで母親として育てることは女性にしかできないし、それがなくなると人類は減り続けることになります。この大前提を学んで、仕組みとして、産休、育休、保育園や手当があるということを男も女も肝に銘じないといけないのです。
 
 女性が働くこと、自立すること全てが少子化ということではありませんが、何かこのあたりに少子化対策のキーがあるのではとは考えます。

 他に勉強することも多すぎるので、これ以上は他の人、AIにでも考えてもらいましょう。
 
 

4月を迎え

 4月やはり、オフィス街や官公庁に向かう真新しいスーツの人、手土産を持った人などが電車にも目立ちました。
 気合を入れて、職場に行きましたが、想像通りかそれ以上に人や机周り、パソコンも変わると混乱も多く、自分の理解力不足なのですがイライラも募る1日でした。
 それでも、1年1年毎にこういう桜をみながら、緊張と不安と期待の中で初々しく迎えることができるのはある意味幸せかと噛みしめていました。
 なかなか世間には残念なニュース、怒りたくなるような話もありますが、毎年それでも黙々と花を咲かせるごとく、泰然とありたいものです。

新年度も人生応援!

 春分の日ということで、占星術天空の動きとしては1年の始まりが2024年でいうと今日です。
 実際には1月から始まった年が2か月半ちょっと経過、もしくは学校や役所の会計年度では年度末であと10日ほどで新年度を迎える中途半端な時期です。
 日々の日常に追われ、仕事や生活などで1年を振りかえったり、新たな年に決意することは難しいことです。それでも目に映る自然が春を迎えるこの時、自分の1年の時その進捗を反省し、変えようとか続けようとか、新たに何かしようとかいうことを思うことは大切です。
 花粉の季節で、三寒四温の安定しない気候の下、ソメイヨシノの蕾も少しずつ綻び、春を告げる鳥も訪れてきています。子供や学生が卒業、進学、就職、進級を迎えワクワクドキドキの空気が流れます。
 大人にとっては、卒業、入学、進級の正式な節目はそうないですが、それは自分が大人として新たな自分に進級する節目、それを春分に感じてもらえばと思います。

兄を泣きながら追う弟 五才の頃?

 昨日出かけようと、マンションの出入り口から進むとと、子供の声で「お兄ちゃん、お兄ちゃん待ってー」と大泣きの様子。
 見れば、3~4歳の子供が両側に補助輪のついた小さな自転車で泣き叫びながら、補助輪にない自転車に乗ってどんどん先を行く少し大きなお兄さんを追いかけています。
 ときおり、止まっては「お兄ちゃん」と泣きながら呼びますが、かえって差は広がり、しぶしぶまた漕ぎ出します。
 中島みゆきさんの昔の歌「五才の頃」を思い出しました
 補助輪の無い自転車は走り出すとたしかにそうゆっくりできないし、止まるのもメンドくさくお兄ちゃんはスイスイ行くのが楽しいのでしょう。
 それでも次男だった私はやっぱり、弟君を応援したくなります。頑張ってお兄ちゃんに追いつけ、いつかこの悔しさを晴らせと祈ってやりたくなります。もう少し弟の心情を考え、面倒を見てゆっくり止まりながらでもいいのにと思います。
 しかし、所詮子供にそこまで望むのは無理なんですね。長男、次男、末っ子、一人っ子と他のさまざまが環境とともに性格が形成されていくのだとは思います。
 弟クンも泣き虫からやがて成長するのですが、逆にいじめっ子にはなって欲しくないです。兄に必死に追いつこうとしているうちに、友達や下の子よりは強くなり、兄の真似をして優位を自慢したくなります。それでも兄に差をつけられ、泣き叫んだ時の自分の気持ちを忘れず、後ろの子に気をかけてやれるような人間になって欲しいですね、
 兄や姉にいじめられた下の子が、大きくなり他の弱い立場の人を虐め、親に暴力を受けた子が自分の子を虐待していては、社会はどんどん荒んでいきます。夫が妻に、妻が夫に暴力や嫌がらせを行うのも残念なことで、それがまた子供や老人への虐待につながるのも悲しいことです。
 どこかで、誰かが回り回って自分に悪いものが返ってくることを教え、諭さないといけないです。もっと踏ん張って、人を信じ他人を傷つけることの罪深さを、教育や報道、SNSなどあらゆる機会で広げないといけないと思います。
 大きくなっても5才ぐらいの自分の泣き顔を思い出さないと泣き顔の無い大人になってしまいます。

マスク美人、マスクオフ時代に戻れるか

 令和2年から5年の途中までのおよそ3年あまり、日本はコロナ禍、マスク時代でした。
 とはいえ、令和6年の今もマスクオフとは言い切れず、花粉症や風邪もあるかもですが電車に乗ってもおよそ半分を超える人がマスクをしています。多くの客商売もマスクをしている方が多いです。
 それでもあの時代は「通勤して働くな」とか、「飲食業は営業するな」「旅行や里帰りなどするな」と、今考えるととんでもない厳戒態勢でした。
 この3~4年の間に,知り合って別れた人の中には、名前は憶えていても、鼻から下の顔全体を見たことが無い人もいます。
 最近になって、素顔というか顔全体を見て、こんな顔の人だったと気付く人さえいます。男性は髭をそらなかったり、女性もメイクをしないような時期もありましたから、印象も違い変わってきます。
 男性目線で、異性の顔を評価してしまうと怒られそうですが、目鼻立ちのバランスというのが美男美女の条件だなあとは改めて思います。
 確かに目の要素は大きいのですが、目元だけでキレイに見える人もマスクをとってみると鼻と口に問題があったり、つり合いが悪いと絶世の美人には至らない場合があります。鼻というのもどうでもいいように見えて、しっかりした鼻筋が通った方で目と微妙に均衡がとれるとこれでかなりポイントが上がります。
 今はこの辺の比率をAIが計算して美男美女を作ったり、評価する時代だそうですが、そこのポイントだけ人工的に上がれば幸せとは限りません。それは何となく今まで見て来た人の行く末で分かります。
 清潔で、健康的で、努力する性格の方が幸せになれます。
 

健康な食事は無理?

 シリアルは健康にいいと長年朝の習慣づいていたが、糖質は多いから特に血糖値の高い人は良くないという情報もでていました。
 漫才のネタではないですから、やはりコーンフレークは朝の物で、ランチやましてディナーにはあり得ないでしょう。
 添加物の少ない食品、国産に拘ると、とても高くつきます。
 ビール、発泡酒をはじめ、ダイエット対策で、カロリーや糖質や脂質カットしているとうたわれる商品も多いですが、同じような味を出すためには、やはり不自然なものを使っています。長い目で見て、食べて、飲んでが続くとやがて心配な事態がくるかもしれません。
日本人は、インスタント食品、レトルトやカップ麺、レンジで温めるご飯、日持ちのする防腐剤の入ったおおにぎりなど、開発して美味しく味つけするのは天才的に上手です。しかしまがい物文化は上手いのですが本物にこだわるグループはやや割合が少ないのです。
 震災の被災地など非常食はこういった食糧でやむなしです。しかし、それでも長期にわたると、普段の衣食住と違う点で体調は悪化し「災害関連死」の要因になっています。
 ましてや日常で、毎日コンビニ弁当やレトルトではやはり身体に悪いものが蓄積しそうです。
 外食も含め、多少さまざまなお金と手間はかかってもいろいろな食材からバランスのとれた食事をするのが理想です。なかなかこれが難しい世の中なのもわかります。無理せず楽しく食事することでしょうか。

東日本大震災 13年で変わったこと

 今年もこの時期が来ました。私が仙台にいたのはもう15年前になります。
 2011年転勤した2年後に、大きな地震が起き良く知る会社の同僚や取引先の被害に気を揉んだものです。
 当時、小学生だった私の二人の子供も今はすっかり大きくなり成人し勤めています。娘は仙台で同じマンションに住み同じ小学校に通った年齢が友達に昨年15年ぶりに東北に旅行して再会しました。電話やチャットではやりとりしても、リアルに会うのは久しぶり過ぎて、何から話せばいいのか戸惑ったようです。あのまま、東北にいたら私たちが経験した災害をその友達から少し詳しく聞いたようです。
 日本は地震国でその後も熊本、大阪北部、先日の能登半島など数多くの地震が発生して、防災の在り方、避難の体制も変わりつつはあります。
 当時は無かった、チャットのコミニケーションも進化し、多少なりとも情報の早期の共有はできるようになりました。
 それでも、まだまだいざとなると被災者には足りないものが多いようです。いわゆる「災害関連死」という言葉ができたのも最近です。それを防ぐ体制ができていない自治体も多く、まして個人の家では水や食料の備蓄一つとっても、不十分でしょう。災害のニュースを見聴きすると、一時的に防災意識は高まりますが、のど元過ぎれば人間は忘れてしまうものです。
 語り継ぎ、日常で活かすことも必要なのです。

【東日本大震災10年】生と死 運命を分けた野蒜駅発205系電車。仙石線の思い出 – 天使の星座 (seizafpkotodama.com)

東日本大震災10年、海岸線ほとんどに防潮堤の是非 – 天使の星座 (seizafpkotodama.com)

思い出される東北 – 天使の星座 (seizafpkotodama.com)

東北の海、山、川、湖すべて美しかった – 天使の星座 (seizafpkotodama.com)

運命を背負い、非日常を想像して日常を生きれるか。 – 天使の星座 (seizafpkotodama.com)

「Fukushima50」名も無き人たちが日本を救った – 天使の星座 (seizafpkotodama.com)

津波が10年で流したもの 書評:津波を乗り越えた町々 – 天使の星座 (seizafpkotodama.com)

津波が10年で流したもの 書評:津波を乗り越えた町々

 2021年の上梓なので被災直後から10年、津波の被災地を追った写真集です。復興は徐々に進んでいるとも見えるし、まだまだ全然とも言う人もいるでしょう。
 ある図書館の内容紹介では『一人の写真家がファインダー越しに見つめ続けた、東日本大震災の被災地の十年-。撮影総枚数15万4937枚の写真の中から、津波被害が甚大だった岩手、宮城、福島の写真を選び抜き、紡ぎ上げたルポルタージュ』とされています。カメラマンとして技術も含め、使命と情熱を持った良い仕事をされた本だと思います。

 東北という人口減少、少子高齢化の日本の中でも過疎の地域が多い中で、一部は復興を終えたところと、これから先が見えない厳しい状況の地区は多いのではと言われています。
 担い手やら子供が居なくて、産業や文化、インフラ、住宅地が放棄されていくところも当然あり、そこに全国からの復興税はじめ国費をこれ以上投入しても仕方ない判断が下されるのでしょう。
 仕方がないこととはいえ、津波がその時に流したものと、10年以上かかって人のあきらめで流していくものがるのです。

「あげまん さげまん」という言葉

こういう言葉も今は不適切といわれるかもしれません。男性視点的なところもありますが、「あげまん さげまん」という言葉があります。最近の言葉だと「勝ち組、負け組」というのがあってそれを導く運のような人間の出会いを表していたかもしれません。
 ある人といっしょにいると、運が上がり出世するなど「勝ち組」に入れる。その人は勝者にとって「あげまん」と言われます。逆にその人と付き合うと運が下がり、悪い目に合うのが「さげまん」と言われています。
 語源には諸説あるそうです。
「まん」とは「間」が転化したもので、運気・潮目・出会い・巡り合わせの意味(関西方言では「まん(間)が良い/悪い」のように使う)という説があり、これなら基本女性蔑視にはあたりません。
 もう一つはいわゆる女性器の俗称を略したものではないかというのがあり、男女関係を持った相手の運気を上げ、より良い巡り合わせにする女性を「あげまん」、不運な巡り合わせにする女性を「さげまん」と称するようになったというもので、ここから男性の「さげちん」、「あげちん」という言葉も俗には使われるようです。
 「運」の潮目となる出会いととると、相手の人物というよりも本人にとってのタイミング、元々の性質や相性などによるとことが大きくなります。
「性器俗称説」をとると、他責的な考えになるとともに、では相手の人物自身にとってはどうなるのかと考えると矛盾もあります。
 その人とその相手が、幸せな関係を築けて、能力を引き出せて出世したり、お金持ちになれたのは、それぞれの素質や相性、努力なのであって、一方的にどちらかに起因するものではないと思います。
 再婚して幸せになり、前のパートナーとの時代は不幸ばかりだったとしても、その相手が「あげまん」なのか、その時と経済や景気の違いとか、失敗から本人も経験して改善しているなどの努力、背景などの条件を全て見ないと検証はできません。むしろ、再婚がきっかけで「運」の潮目が変わったと見る説の通りなのかもしれません。
 それにしても、相性なのか運命なのか、学生時代からの友達で卒業後すぐ連れ添い、長く幸せな家庭でそこそこ出世した人などを見ると、お互いが「あげまん」なのかとも思いますがこれも検証はできません。
「割れ鍋に綴じ蓋」というポンコツ同志みたいな絶対すぐわかれると揶揄された夫婦で結構長続きして、成功している人もいます。
「相性」というのはやはりあるのではないかとも思います。「あげまん」と言われるような人は才能も努力もしているような気がします。
 

一汁一菜

味噌汁が一品と、干物などのおかずが一品,シンプルな一汁一菜。
高度経済成長期ぐらいまで、日本ではこんな食事がどこの家庭でも当たり前で、むしろ恵まれていいたのです。
 刺身も今ほど鮮度流通が難しく、レアステーキなど肉食もそれほど一般的ではない時代、寿司やてんぷら、とんかつ、すき焼きなどは晴れの日に食せるかどうかです。
 栄養バランス面などで何種類も食材を食べたほうがいいとも言われます。それも間違いではないですが、フルコースや松花堂弁当のようにだんだんと各家庭でも外食や給食でも何皿もオカズが当たり前になりました。そして、毎日その種類は変わり、人により値段もピンキリです。いつの頃か賞味期限が設けられ、日が過ぎた食材はカビや湿りを確かめるとかせず火を通すとかの工夫もなくポイ捨ての時代です。

 東日本大震災を想起する3.11が近づき、能登半島で炊事も食事も満足いまない状況に避難されている方、断水のままの人も多い中、「飽食」とも言われる今の日本人は一汁一菜を見直すときかもしれません。