アスリートの引退試合

 日本のスポーツの主流は秋口にシーズンオフを迎えるので、この時期に移籍や引退の話が出ます。
 NPBでは、すでに西武の内海哲也投手、阪神の糸井嘉男選手がシーズン中に引退試合を終え、中日福留選手、オリックス能美投手も引退を表明しています。引退を自ら宣言でき、引退試合までやってもらえるのはほんの一握りの名選手です。

 今クールで終了したドラマ「オールドルーキー」は、いきなりチームが消滅し現役引退を余儀なくされたサッカーの元日本代表選手が、スポーツマネジメントの会社に勤めます。アスリートのマネジメントを務める裏方に回るセカンドキャリアに悪戦苦闘する話でした。

 華やかなスポットライトを浴び、常に自分が主役であり、体調と体力維持で持ってきたアスリートの現役引退は、指導者や評論家などへの狭い道、別の世界に入る道、いずれにせよ現役のプライドと看板は下ろす、人生の転回点であり多くは厳しいものがあります。

 サラリーマンの定年は、同じような悲哀の部分もありますが、アスリートは概ね若いためこれからの生きる道を探らねばなりません。

 そんな中、稀有な例でしょうが、55歳で現役にこだわり続ける男がいます。サッカー界をかるつて牽引した「キングカズ」三浦知良はボロボロになり、海外、J2もわたり歩き、Jリーグの下部組織JFLで未だに現役でプレイしています。晩節を汚すとか、客寄せパンダとの非難も半ばありますが、猛練習をして現役を保っている姿にが多くの中高年も心打たれます。

 それにしてもかつてはNPBのベテラン、老獪な技術とか言われる選手は私にとって年上だったのですが、もはや自分の子供でもおかしくないような年齢でベテランと言われ引退試合をしていくとは、見てる私がいかに年齢を重ねたのか、時代を感じます。

ゴシップマスコミ、アウティングに義憤する愚かさ

 マスコミには大別すると概ねテレビ局も抱えた新聞系と、出版系の雑誌があります。スキャンダラスにスクープしているのは後者です。
 政治や、スポーツ、芸能の有名人にはりついたり、素人から情報を得て時に忖度鳴くスクープをします。政権を揺るがすような大スクープもあれば、悪いニュースを目立たなくするため政府の依頼ではないかと思われる妙なタイミングで大物のスキャンダルのストックが放出されたりもします。
 いずれにせよ、表にニュースが出るのには複雑な背景があり、大きな金が動いているでしょう。アウティングというスクープの提供者にも大金が支払われ、それ以降の報道を抑えるのにも他のマスコミ対策に大きな金が動きます。


 最近では大物俳優の銀座クラブでのセクハラ疑惑、すでに和解になっていたものが周りからリークされて、ドラマやCMなどの降板につながっています。
 プロ野球巨人軍のキャプテンの中絶トラブルも、その善悪是非はともかく、相談を受けた友人のアウティングです。この友人はメディアからアウティングでお金を貰い、当事者もすでに大金を貰って示談しています。

 このようなニュースに、今の〇〇とか憤るののとか、被害者の気持ちを慮るとなどと、庶民が嘆いても、彼ら彼女らは潤沢にお金を手にしていることは間違いないことです。

 中絶とまでいけばもちろん大変ですし、たとえ一晩でさえ大変な試練で苦痛だとの考えは正しいです。しかし、あくまでスクープがお金になり、政争の具に後で使われているのも事実です。スクープメディアはそういう目でも見なくてはならないです。

ヰタ・セクスアリス4 特撮ヒロインやアイドルに憧れた少年時代

 まあだらだらと4日も続きましたが、今日は昨日のたわわ以上に炎上しそうな最近の画像でサムネ攻めます。
 性とか恋愛とかはやはりね、人それぞれ秘めたもの、歪んだような個人差があります。
 教科書やバイブルもちゃんとしたアンチョコもないのが、性の難しいところ。それを時代が妙にギスギスしたものに押し込めて。変におかしいものになっています。
 なかなか、恋愛って好きな人には伝わらず、うまくいかないものです。
アイドルや、特撮ヒロインにその欲望の代替をお願いして、自慰行為にふけったりという恥ずかしさ、後ろめたさみたいなものがありました。当時は今のようなネットでの同胞のつながりもなく、みんな同じような輩やもっと徹底したつわものもいて、世の中同じようなもんじゃんと思えたのは随分年取ってからです。
 コイバナに関しては以前もこのカテゴリで書いていますので、比較的いいとこまでつき合えたけど、結婚に足らなかった話は多少美化しながらありました。
 しかし、その以外の期間は、まあホンマに厭らしく言えば、恋愛したいけど相手いない寂しい期間の長きにわたる暗黒時代です。そのうっぷんを仕事にぶつけるわけでもなく、大金を出してプロと遊ぶでもなしでしたから、犯罪に行かずによかったとも思います。まあ、ミステリとkいろいろの読書、鉄道趣味、旅行趣味などが意外と発散していたのでしょうか。
 
 ただ個人的には、飽きっぽいところがありますので、いくつか失敗ばかり経験して焦りもありましたが、三十代半ばでようやく結婚出来たタイミングはまあ別に良かったかなと思っています。友達の中には独身をとおした人もいれば、すごく、すんなり初恋のような高校時代のつき合いから、判で押したような美男美女が恋愛成就して結婚して子供もでき長~く同じ屋根に暮らしているひともおられます。結婚生活の心得みたいなのがしっかりしているのでしょうか、適度に不倫とか遊びも恋があったのかはわかりません。倫理に反しな息抜きがあるとは思います。

 政治とか、大学、会社の中とかいろんなルールを厳しくするのか、自由、自治、自主がいいのかは、難しい議論です。議論するK都ができるのが、自由の証なのでしょうが。国だとか組織の名誉とか威厳とかのために、厳しくしたところで抜け穴はできるでしょうし、本当に抜け穴も何の隙も無いルールなら行きが詰まりそうで、私ならそんな学校、会社、国にはいたくありません。そして今さら厳しいルールを設けても、組織の過去の緩みや罪(があったとして)消えるわけでもないでしょう。世の中の裏側上の方に、いっぱい枕営業みたいな闇もあって、それでお互いも訴訟もなく連帯責任もなく成り立っているのに、キレイごとだけがまかり通るのは何だかと思います。

ヰタ・セクスアリス3「月曜日のたわわ問題」 表現を不自由にする

「月曜日のたわわ」という「月曜日が憂鬱な社会人に向け、豊満な体型をした女子を中心に描かれるショート作品」が日経新聞に全面広告を出して、炎上してしまうというのが、少し前にありました。
 以下、たとえばジェンダー問題に詳しい識者などが、問題点を3つほどの主張をされています。内容をまとめると下記のようなものです。

 「見たくない表現」(たぶん痴漢を恐れて憂鬱な女子高生、OLなどにか)に日経新聞の朝刊で出合ってしまった読者が、購読の解約を表明する動きも出ているとのことです。「広告によって与えられた媒体のイメージはすぐには払拭できません。どのような広告を載せるかは、メディアにとってのリスクにもつながります」「異性愛者の男性が未成年の少女を性的な対象として搾取する」という「ステレオタイプ」(世間的固定概念)を肯定し、新聞社が「社会的なお墨付きを与えた」

「広告は女子高生のイラストをあえて用いることで、作品が発信しているメッセージを確信犯的に、大々的に伝えています。作品で起きているのは、女子高生への性的な虐待。男性による未成年の少女への性暴力や性加害そのものを日経新聞が肯定する構図です」

「メディアと広告によってジェンダー平等を推進し有害なステレオタイプを撤廃するための世界的な取り組み」を国際機関とともに展開してきた日経新聞が、自ら「ジェンダーのステレオタイプを強化する」という矛盾に陥ってしまったことだ。

日経新聞はUN Women 日本事務所と連携し、ジェンダー平等に貢献する広告を表彰する「日経ウーマンエンパワーメント広告賞」を主催するなど、広告のジェンダー平等化を推進する立場に立ってきた。同賞では、「3つのP」という審査項目を掲げている。

Presence 多様な人々が含まれているか

Perspective 男性と女性の視点を平等に取り上げているか

Personality 人格や主体性がある存在として描かれているか

この基準に照らすと、今回の全面広告は、『未成年の女性の肉体に欲望を抱く男性の視点』のみに偏っており、見られ、触られる側に立つ女子高生の『人格や主体性』は考慮されていません」と指摘

これまで大手メディアとしてジェンダーのステレオタイプを克服するために取り組んできたことは、全て偽善だったのでしょうか」「今年の新入社員が最初に迎える月曜日」に、「豊満な体型」の女子高生を通勤中に眺めて「元気になってもらう」。こうしたステレオタイプを強化する全面広告が注目を浴びる一方で、女子高生らは痴漢の増える不安な時期を迎えている。一般社団法人痴漢抑止活動センター(大阪市)は「4月は、電車通学に慣れていない新入生を狙う痴漢が増えます」とTwitter上で警告
 などというまあ随分強引な結論づけをして厳しい対応や忖度して自粛を迫るようなこと言う人達の非難が集中したわけです。

 マンガそのものは書くのは自由なのでしょうが、日経新聞の一面広告がダメということなのでしょうか。
 最近は、水着とか露出はなくとも、〇〇を連想させると言われている姿勢やポーズとかで噛みつく人もいます。実際たわわとされる胸が正面から書いているわけでもなく、単にキャラクターが月曜日に憂鬱なサラリーマンを愛らしく微笑んで激励している以上に見ることはないと思うのですが、どう感じとるかは自由なので否定はしきれません。しかし、新聞を広げなくとも多くのエッチな水着写真はもちろん、ヌード写真やAV動画、昔のポルノ映画だってそれこそ「痴漢電車どうのこうの」なんてのもスマホやタブレットで見て女高生に欲情を抱いている人も大勢いるかもしれません。
 日経新聞というところがいくらこういう取り組みをしていようが、権威か厳粛なところなのか、別にこの程度のことが問題になるのは正直、どうでもいいというのか、騒ぐ気持ちがわかりません。
 憂鬱な月曜日の朝、踏切の人身事故いわゆる飛び込み自殺も多い中、このマンガに癒されていた方もおられるのですが、確かにこういう容姿、スタイルを見るのが不快と言われれば何とも難しいところです。裸、水着とかレオタードでもダメ、やがてイスラム教のラマダン時期みたいに禁欲になっていく方向がジェンダーなのでしょうか。

 まだつづくかな

ヰタ・セクスアリス2    誰もが童貞を捨てるのに焦り、青春の門の前でもじもじした

 東京の方の大学の方の本が続いてしまいますが、齢63になる私たちの世代の学生時代に人気があった小説で,映画化もされた作品に五木寛之さんの「青春の門」というのがありました。現在も進行中の大河小説で長く書き続けられ、私も含め全巻を読んでいる人は多くないでしょうが、筑豊編に始まる初期の話は、何度も映画やドラマになり、その概要を知る人は多いでしょう。
 時代なので、赤線、売春も出ますが、「誰もが1度は通りすぎる、そしてただ1度しか通ることの許されない青春の門」というのはいつの時代も変わらない気がします。
 男性目線と言われるかもしれませんが、男と女は表裏一体のものです。
 現代は、いろいろなモノや情報が私たちの若い頃よりも早く簡単に手に入る時代です。その反面昨日も書いたように、妙にお堅いこと、厳しい規律を掲げる窮屈な時代でもあるような気がします。
 昔はエロい写真や雑誌などがビニールをかぶって売られ入手するのが難しかったような時代でもありました。今はネットを探って、ポチればとんでもないほどいやらしい動画が入手できるような感じです。テレビなどの上っ面では裸や厭らしい言葉がなくなったのに、手に入れようとすればすぐわいせつなものが入手できる。
 ところが、昔の言葉で耳年増というのか、変な情報はあっても、いざ現実に異性と対話して体験、経験していくのとはわけが違うのです。
 かくいう私もそうでしたが、童貞をなくすのに結構な時間と苦労がありました。それはモテる、モテないとか、人間的にいい悪い、仕事や勉強ができるできないとは全然違う話です。若い男性も女性も性や恋に悩む年代であり、それを男性にとってはプロの女性が指南して経験を積ませたからうまく流れたとも言えます。そういう女性がいたことを表に出すのは、女性差別だと言われる向きもありますが。そういったプロと経験した男性が上手く素人、初めての女性を相手にして上手くコトが流れるのに寄与したというのはあると思います。
 ちなみに私の場合は、いわゆる性風俗に行ったことはあり、そこが初めての経験かもしれませんが、とても年齢のいった女性で全然まともな経験ではありませんでした。ですので趣旨とは違いまがプロは嫌いです。

 学生時代の体育会系や、劇団のグループの友人などの話によると、そういうプロで経験した者と、もちろん本物の恋人とに分かれるのと、あと中間ではないですが、けっこう誰とでも付き合ってくれる「サセコ」という感じの女性がいたのです。もちろん、誰彼と見境ないなくというのではなく、そこそこのつき合いで、短いインターバルですぐカラダの関係にいたってあと腐れがなく、別の人ともすぐつき合い、また付き合ってくれるみたいな感じだ、というお話です。
 基準がユルイといって、全てのモテない童貞やブサ男まで相手にしてくれるかというと、そこが難しいところです。ただイケメンの口利きとか、お金をかけた設定で一度だけならとかが何とかなるハードルのようです。

 集団での半強制性交というのが母校のアメフト部で、強姦犯罪のようにやり玉に挙がっています。どうもいろいろ確認にていると、報道がイメージづけているような、それほど凶悪な企図のある集団での常習的性犯罪者ではなく、情けない要領の悪い、ドジな童貞君たちのようです。
 1対2とか4ってプレイもありますが、基本的に同性と一緒になど恥かしいですし、それほど面白いものではないそうです。一人ずつ順番でも後でする方は、何となく不潔感を覚えますし、キレイに洗ったとしてその間が空きますし、私ならイヤです。これをいいと思う友達はほぼいなかったですね。鬼畜集団レイプなどというのはAVやエロビデオのウリです。

 まあ、愛のあるセックスとは基本1対1のパーソナルなものだと思います。報道で明らかになった1時間に4人かわるがわるというのは、その前の4時間以上お酒を呑んでというのから考えると「たった1時間、早ーっ」ではないでしょうか、本人たちにとっては一人がリードした、童貞喪失体験会みたいなものではなかったのかなと思います。相手が精神的肉体的に損害や被害を蒙ったと思い、不快に思う気持ちで訴えるといわれればそれまでなので、男性たちに非はもちろん全面的にあります。男性は女性を不快にしてはいけませんし、それで訴えられるのは本当にへたくそ、情けないドジ野郎であり、周りが深く反省して組織に自粛などがあれば、本当の迷惑野郎です。しかし、まあ本人たちはたった1時間、一人15分ほどのため、就職内定取り消しで、暴露雑誌に顔をさらされ、一生を棒に振りかねないとしたら、親御さんも含めてまあ忸怩たるものというか、それこそメンタルケアが必要な危険なレベルです。
 厳しすぎる青春の門みたいな話ですが、そういう何ともいえない理不尽なタイミングというのもありなのでしょう。

  また少し話がそれて「月曜日のたわわ」の話は明日へ(つづく)

 

ヰタ・セクスアリス  最近まじめすぎる禁欲主義のような人が増えた?

 性の問題、その情報というものはセンシティブで、書き込むのも作品化するとか報道するときも非常に難しい面があります。
 何だか最近は、自分は性欲も我慢したひどく高潔な、石部金吉みたいなことをレスする向きが多いようです。一つの性的な表現事象や性犯罪の事件をとらえ、著しく厳しい発言や妥協を許さない非難をし、擁護する者も攻撃する。「時代遅れ」とか我々の時代にはあり得なかったとか、歴史初めての暴挙のような表現までされます。性風俗の歴史などを考えれば、現在に近いモラルやらができたのはごくごく最近であり、愛人や不倫に罰則はなく、昔はもうやりたい放題のようなところがありました。
 ですから、男はオオカミに変わるからとか、夜道は女子供一人で歩くなというような戒めがあったわけです。
 逆にいうと、若い男の性欲、女の性欲など今も昔も量など変わりあるとは思えません。悪質な性犯罪は統計的には減っており、ある程度治安のよいいい時代になっています。ただいろんな人権が確立したり、不快を感じる微妙な心理までもセクハラという罪に問われるようになると、大きなメディアに出る表現や、有名な企業や大学などでは罪のハードルは低くなり摘発されやすくなっている気がします。表現は昔と比べ、ものすごく不自由になっているところに、ますます雁字搦めの不自由を叫ぶような人がいます。
 鴎外のヰタセクスアリスではないですが、私らも若い頃、間違いなく今なら捕まりそうなエッチなことはやってきました。それは友達や同僚も同じレベルでした。今も昔も、英雄色を好むでも、偉くなってるやつはもっと豪快な遊びや犯罪まがい(今なら犯罪)をやって逃れてのし上がっていました。

 レイプ、強制性交などの性犯罪を許すとか擁護するわけではないですが、そういう人が特殊な異常犯罪者かというと、そういうわけではなく、誰もがもっている性衝動ではないかと思います。そして、それがいい悪いに関わらず、我慢しきれない状況が偶発する場合もあるし、衝動を抑えきる理性がやや弱い人もいるということです。
 犯罪として、表に出るのは氷山の一角であり、和解や泣き寝入りの数も多いでしょう。性衝動を抑えきれない危ない人間というのは、ある一定の割合で、学業や仕事が優秀な人間の中にも潜伏しており、試験などで振り分けることなどまず不可能です。

 私の元同僚というか、部下、後輩にあたるYという男も国立大を出た優秀な男でしたが、新婚なのにとにかく女癖が悪いというか、遊びも不倫も強引な性交も何でもありのタイプでした。同年配のFという対照的なコツコツ真面目に積み上げるタイプの男がいたのですが、一般的な評価はもちろん、目立つのも上司に可愛がられ、女性陣からモテるのもなぜかYでした。
   

 個人的なこと書いてたら「月曜日のたわわ」問題まで行かんかったので明日へ(続く)

元統一教会問題は与党対野党ではなくシン・保守対ニセ保守にしなくてはいけない

 選挙に勝つために票が必要で、そのためにまとまった集団の支援が必要で、お金が必要になり、勝つためには何にでもすがりたいのは日本政治の煮つまった宿痾のような構造です。
 与野党を問わず、今回の元統一教会との癒着問題は情けないことですし、国家を衰えさせかねないことです。政治家が当初の国家のため国民生活のための志や目的を忘れ、国会議員になることと当選しつづけることが目標になってきています。
 かつて在日外国人献金問題で辞任に追い込まれた大臣がいましたが、本来公民権停止とまで罵っていてその立場の多くの方々が、朝鮮系の宗教団体からの支援をたっぷり受けて、ずぶずぶの関係で辞任などしていたら、議事堂が空っぽになるという事態です。
 もう一つ残念なのは、安倍さんの事件に端を発している絡みもあり、自称保守の論客たちがこの問題をウヤムヤのしたいという保守にありまじき亡国のスタンスとなっていることです。この問題は森友や加計、桜を見る会などの次元の問題ではなく、まさに国家を揺るがす問題です。これをウヤムヤにしてしまうと、日本の政治はそこらのリゾート地と同じく外国資本にカネで買われていっても許されることになり、愛国や保守の立場の人は絶対に譲ってはならないところです。
 ここで安倍さんや、国葬の問題と絡めて、元統一教会問題をこれ以上糾弾しないでというスタンスの評論家や、ジャーナリストはニセ保守です。この問題は野党や左翼側との対決ではなく、保守の中での問題です。自分でコツコツと地盤を固めて選挙に勝った議員対カネで国を危うくして選挙に勝った議員の構図にしないといけない。そのリトマス試験紙でないと、この問題は終わりません。

 岸田総理は内閣支持率の低迷をよく鑑み、この問題をクリアし厳しい対応をして、少なくとも外国系で反社会的宗教団体の日本政治への関与は過去も現在も厳しく断じて、未来永劫にこのようなことのないように対処すれば、明るい局面になるはずです。

55号のホームラン王の時代

 1964年(昭和39年)に王貞治が打った1シーズン55本という記録はその後長らく破られなかった伝説的な記録です。その後、55本に並びその後は2000年以降に、忖度の敬遠で超えることができなかったローズ、カブレラが現れ、バレンティンがついに60本に到達しますが、いずれも外国人選手でした。今回60年近くかかりついに日本人で55本ものホームランを打つ日本人の若者が現れました。
 1964年に記録された55本は、5歳当時の私の記憶にありません。その後の王選手が円熟して、1977年に856号の世界記録と騒がれた頃がリアタイの中学生でした。この記録からネーミングされた芸名、コント55号という二人はお笑いの世界で時代を席捲しました。

コント55号という名前も現代にも通じる斬新なイメージがあります。主に平凡な坂上二郎がエキセントリックな変人萩本欽一に振り回されるような設定のコントも、今キングオブコントでもいけそうですし、東京03がやってもいいようなシュールな面白さや激しい動きがありました。バラエティで野球拳という今では放送できないような破廉恥な内容でブレイクしたため、一時期低迷で二人のコンビは減り、坂上は俳優を中心に活動し、萩本は単独の冠番組で再び一世風靡しました。新しい漫才ブームで浅草からツービートなどの出るだいぶ前の時代で、コントやバラエティー番組の基礎を築いたとも言えます。

 スポーツとしては野球しかない時代なので、55号といえば王選手のホームラン55本を誰もが連想した時代。現代は村上宗隆、大谷翔平といえどもここまで記録は上回っても日本中を席捲して誰もが知っている時代ではなくなって、多様化した時代です。
 

紅白も大河もいらないからという選択はないのか

 紅白歌合戦に中森明菜が出演かと取りざたされている報道がありました。個人的には若い頃好きでしたし、歌もいいと思います。しかし、いまさら還暦前の彼女を引っ張り出すことに意味があるのかというと、アラカンの同世代を狙っているのが見え見えで、そんなところに受信料を湯水のように使っていいものかともいます。以前の紅白でユーミンと桑田圭祐が共演した時ももう今の若い世代はついていってないのに、確かにオジサン世代は喜んだが、まあ予算度外視できる体質だからこその愚行かと思います。何だか、今の政治、選挙の縮図のようで、いまだに地上波の、NHKの年中行事に拘る世代だけが恩恵を受けるようで申し訳ないようなもどかしさを感じます。

 NHKの放送が何のために必要かというと、政治や、台風や地震などのニュースや気象情報であったり、五輪やサッカーW杯、MLBなどのスポーツコンテンツ、そして大河ドラマや朝ドラ、紅白歌合戦などの娯楽などでしょうか。

 このうちで言うと、スポーツが多様化しているのと、メジャースポーツは高騰化してコスパが悪くなり、だんだんDAZNなどのネット配信にも押されだしています。

 ドラマや音楽はネットが主流の時代で、NHKの歌番組は民放やFM、ネットに遠く及ばない存在です。重いテーマのドラマの中にはスポンサーを意識しないでできる良いテーマのものもありますし、大河ドラマは歴史の勉強に少しは役立つ程度です。国民的な歌番組と言われる紅白歌合戦も、何だかもう世代もばらつくと、家族で見るコンテンツではなくなっている気がします。
 N党の立花党首が選挙の際、政見放送や動画配信で紅白の裏話をしていました。毎年、なぜあんな歌手がと思われている人が選ばれている裏事情が分かり、薄々分かっていても正直なところがっかりというのか幻滅というのか、もう見たくもない感じですね。
 スポーツ中継の権利も高いですが、紅白で12月31日に高いギャラで大物歌手を囲い込むのも全て受信料であり、そんなことしなくても低所得者から受信料とらないというやり方もあります。ニュースやらの公共情報のみフリーとして後はスクランブルにして有料課金でもいい時代になってきています。公共料金のごとく、NHKが高飛車に出る時代はとうに終わっていると思います。

自分の出た大学を買ったブランドだと勘違いする草

 私は中学校から京都で同志社に入り、大学まで進んだ同志社ボーイです。
 京都に戻ってからはたまに今出川の校地を散策することもあります。
 一応、母校のOBのコミニティサイトなんぞも覗いていますが、何だかこのところ事件もありましたが。そのリアクションやリプのレベルの低さに驚きます。頭の悪いというのか、バイアスにかかりやすい、騙されやすい、融通の利かないのには辟易とします。10年も世話になって母校愛がないつもりではないのですが、ちょっと問題があると自分の卒業した学校のブランドが棄損されたような被害意識で、正義感のようなものを見境なく振りかざして満足する後輩や先輩が多くて、そのことが嘆かわしいです。

 棄損されるような内容の事件そのものが、いいとか悪いとか議論していないはずですが、火がつくと文章が読めないのです。
 OBが不祥事を糾弾する行為は、どこまで行っても自分の買ったブランドモノのバッグが傷つけられた被害者意識を、エセ正義感に転嫁して憂さ晴らししているようにしか見えません。
 

 大学は自治、自由なものですし、スポーツや芸術などに秀でてそれを中心に活動している人は過去からいました。有名なアスリートが輩出され、文学賞を獲ったり、有名な俳優や実業家が出れば、自分のことのように自慢しておいて、いざ不祥事や事件が起こったりすると癇癪を起す。もう小さな子供駄々っ子と同じ心理だと思います。
 自分の時代の方がコンプライアンス、SDGsなどもなく人権的にはひどかったのに、今は少しこういう問題に抵触すると「時代遅れ」とか上から目線で偉そうなことを言うのです。年齢は食っていても頭は幼児のままか、それ以上に硬直して厄介な人々です。

 大規模の大学で、人を集めるのであれば当然一定の割合で不祥事をやらかす悪人も常に発生します。同志社が一流のブランドだと褒められた経験は皆無ではありませんが、国立や早慶には負けますし、早慶とか東大だからどうではなく、問題はその人の力であり人となりです。卒業して何年もたつOBは目の前の仕事や家庭、地域のことに目いっぱいでいいのであって、母校がスポーツつやらで上がろう下がろうが何の影響もないことです。
 そんな母校の盛衰など私はあまり気にならないです。思い出としてはもっていますが、まあ時々勝ち進んだらスポーツを応援する程度です。決して自分の評価も上がらないし、下がらないのです。気にすることが無駄です。