記録なのか記憶なのか

 日本プロ野球界に長嶋賞創設と報道されました。長嶋茂雄さんの名前が打者版の沢村栄治(戦前の名投手)賞のような強打者に与えられる賞に設定されるようです。

 記録だけで言うと、三冠王を取り、タイトルを何度も取ってホームランの世界記録を塗り替えた王貞治の方が実績があります。

 しかし、ONと言われ王と長嶋が並んで戦後のプロ野球人気を引っ張った中で、人気は長嶋が上だったのでしょう。

 背番号3は私らの少し上の世代には神様、圧倒的な人気でした。

 ひたむきでかつ華麗なプレイの長嶋は人々の記憶に記録以上に残ったと言われています。

 記録も記憶も実は似たような言葉です。

 野球は個人記録が多く作られるスポーツです。盗塁や犠打など比較的地味なものや、連続の安打や奪三振、出場などもカウントされています。打率や出塁率、防御率、勝利やセーブの権利など計算したり、公式記録を待たないと分かりにくいものも多くあります。

 最近はメジャー流のサイバーメトリックとか、表彰はなくてもさらに実績や貢献度が細かく評価される数値が出ています。

 私たちが仕事をする上での個人の人事評価、企業の業績の評価も、時代とともにだんだん複雑、多面的になってきています。

 昔は売上目標だけだったのが、利益、キャッシュフローなど財務指標も複雑になり、目の前の〆切りや決算だけでなく長期的に見る貢献、サステナビリティの評価も入ってきました。

 プロ野球で記録のための小手先の争い、忖度や率を守るため試合に出ないなどというのは、決算のための粉飾を想起させます。

 プロスポーツや芸術、芸能は特に魅せることでお金を取っているのです。確かにホームラン王などのタイトルを取ると箔がつき、見に行きたいと思います。文学賞を取ったとか、音楽の賞も、それならいいものかと思います。

 しかし、少しその分野を眺めると、必ずしも賞を取ったから優れているとは限らないのです。

 プロ野球などのMVPや新人王もそうですし、多くの世間のタイトルや賞も、大人の世界、お金が動く政治的な裏のあるような決まり方があるのは、よく知られているでしょう。

 単に年度だけ取っても、豊作というか競合が多い年度と、そんな厳しい年なら獲得が難しいレベルの人が楽に受賞できる場合もあります。ホームラン王はや新人王は逃したけど、別の年なら楽に取れる記録だったという場合です。

 記録より記憶というのはそういう面でのフォロー的な言葉かもしれません。

 昔は権威があったけれど、今はそうでもないものに、歌謡界のレコード大賞や紅白歌合戦出場というものがあります。昔は年末大晦日の国民的行事でしたが、特にレコード大賞の権威失墜は顕著です。

 社会や音楽の変化もありますが、元々歌謡曲に一等賞を決めるとか、勝敗を決めるのがおかしいということにも、気付かれ始めたのでしょう。過去の大賞曲には名曲もありますが、時代を代表し、今もよく聞かれ、歌い継がれる曲が受賞していない場合も多いです。

 それを思うと、いろんな部門で今だに騒がれる◯◯賞なんて大した権威でもないのです。映画や音楽、絵画、文学など全てに今だにありがたがられる賞があり、それを目指す人々や支える層は厳然とあります。

 ノーベル文学賞なども、毎年日本の誰々が候補と騒がれますが、何が基準でどう選ばれるか、さっぱりわかりません。選ばれたら、日本人として嬉しいという気持ちは理解できても、文学としてそれが多額の賞金を貰って権威となるのは、貰えない人にとっては不思議を超えた理不尽なものです。

 賞や記録が全てではないのは、その世界でやっている人が実は一番よく知ってるはずです。記録でも記憶でもない何かが大切なのです。

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