京都地下鉄大赤字の対策  このままでが財政再建団体へ

京都市の財政赤字が大赤字。破産寸前というところです。財政再建団体となれば、税や保険料も上がり制限も増えます。
交通局、地下鉄事業はその中でもひどい内容です。
コロナを言い訳にしますが。元々東西線建設からの見通しの甘さ、体制の課題が大きいわけでインバウンドバブルが延命して、コロナが妙な言い逃れになっていますが根は深いものがあります。
地下鉄等交通事業は、減便や値上げはますます利用者離れを起こします。私鉄やJR、大阪の地下鉄窓と比べても高すぎる現状を考えると、まずサービスの原点として乗ってもらうにはどうするか考え知恵を絞るしかないでしょう。職員のモラル向上はもちろん当たり前ですが、残念ながらそこからスタートのようです。
市民の問題、厳しくかつ暖かく監視して、協力していかないといけないでしょう。

【東日本大震災デイケード】岩手県厳美渓、三陸海岸の桜。

写真は記事と関係ありません

震災前、仙台に仕事で赴任して子供が遊び盛りで、あちこち休みにはお出かけ行きました。岩手県は一ノ関に景勝厳美渓には子供とも行って、渓流を挟んだ対岸からロープをはったかごで届ける「カッコウ団子」という名物も食べました。東北の労組とのレクリエーションでも渓流下りをし、この時ご一緒した岩手支社の幹部の方が、3.11で亡くなられました。大した会話は無かったのですがブラックな強面の人が多い中、優しい印象の方でした。関西に戻っていた私はだいぶ後で訃報を聞き絶句しました。津波に慣れてない彼は営業中、海よりの取引先被害を確かめに行ったそうです。三陸海岸、今も桜の季節は、みどりと、青、そして名もない花も頑張って見事なピンクに咲くのでしょう。多くの生き残った方は、亡くなられ方からエールを送られているのかもしれません。

琵琶湖マラソン 有終の美

昨日で最後のびわ湖マラソン、午前開催でした。。有終の美、鈴木健吾選手が日本最高記録出しました。
ソウル五輪の選考で中山竹通と揉めた瀬古利彦が優勝はしたがタイムはひどく平凡で、記録のでにくいイメージがありました
朝スタートで、川内くんが2時間7分台のパーソナルベスト更新で10位、気温や風とかコンディションは最高だったのでしょう。
陸上部のあった会社で、私は京都滋賀勤務の頃は何回も駆り出されました。瀬田唐橋の中之島の施設で弁当食べて、橋の両側を往復するので合計4回のぼりを立て旗振りメガホンで声出してました。
当時でも伊藤国光監督下、高岡、早田のエースは福岡、東京に出て格下が出る印象で、これがまたほとんど上位入賞なしでした。瀬田川を渡る風はいい感じですが暖かいと花粉にも苦しみました。楽しい思い出もありました。

【東日本大震災デイケード3】             #東日本大震災10年 #東北の新聞

【東日本大震災デイケード3】宮城県の地方新聞『河北新報」の由来、東北の地方新聞、全国には多分無名でしょうが、青森県「東奥日報」、秋田県「秋田魁新報」岩手県「岩手日報」山形県「山形新聞」福島県「福島民報」「福島民友」とあります。で宮城県仙台のメイン新聞ワタシもとってたのが河北新報。東北にも全国紙はありますが、夕刊がなく地元の情報が遅いので不便で地方紙とります。仙台の「河北」だけ県名や旧国名と関係ありません。県を流れる北上川のことと勘違いされる方もおられますが、「河北」の由来は明治時代に政府や帝都側から「白河以北一山百文」と白河の関より北側の土地には価値がないと馬鹿にされた言葉からです。東北の人はそれでも農林水産や工場、原子力発電等で明治から戦後まで日本、首都圏の生活、高度経済成長までを支えました。
そんな東北を何の因果か、恐ろしい波が襲いました。
図書館で見る河北には10年前の様子が特集されたいました。頑張って欲しい東北。一山百文ではない日本の宝だ。

同窓生でも大きな格差?

かつて同じ学び舎で、勉強や遊び、いろんな時間を共にした学友も40年以上たち還暦を迎えました。
出世したものは一部上場企業の社長、医者や歯医者で高等市民クラスもおれば、早々にリタイアして年金暮らしや年金待ちで非課税所得の方もいます。
アーティスト系の自由業の方もいますし、京都の老舗を引き継いで門外不出とういか旅くらいはして貼るけど住所は京都市内を一歩も出ずの生涯の方も結構おられます。
とくに部活で一緒にグランドで汗流した中学の頃からの仲間でも、いろいろ数奇な運命をたどっています。
ずっと京都で何代目かの老舗を継ぎ、小学校時代神童と言われ中学校高校と口も達者で元気に遊びまわっていたA君、昔話には花が咲くが、今は少ししんどく他の仲間が羨ましいような様子にも見えました。
高校時代運転免許証を取った時、物凄い事実を知りそのショック、逆境を乗り越えて、勉強を重ね人一倍努力して、大立者になったB君。名士となり誰も羨む出世頭となりました。
人間の運命はわかりません。今60歳を過ぎ、あがりのような悠々自適が良いのか、まだあくせく働く機会があるのが良いのかも、どちらが幸せなのかもわかりません。
何かで分岐があったのでしょう。その分岐点は今も人生のどこかで続いています。

秋田大雪の大館、能代の思い出

大雪のニュースを聞くと、秋田にいた頃の冬を思い出します。今年は北陸辺りも久々の大雪だが、東北の日本海側も厳しい寒さが11月の中頃から続く、たまに大雪になるのではなく連日寒く雪であり、横手等も雪は1Mはざらでものすごく積もってました。営業で秋田から大館、能代、鷹巣あたりに行くのはかなり命がけでした。のろのろ渋滞でガス欠になりかけたり、信号で止まるたびにツルツル滑ったりしてました。吹雪でホワイトアウトしかけたときもあります。
まあそれでも大きな事故もなく生きているんだから今となればいい思い出です。
男の子はいくつになっても雪が好きなのかもしれません。
京都でも雪が降るのは、ただ寒いだけより何だか楽しみにしています。
秋田には、かまくらもあります。能代、大舘で新日本紀行のNHKアーカイブでやってましたが秋田杉の化粧板や、曲げまっぱ等産業、文化も見ごたえありました。言葉も難しく苦戦してましたが、本当に貴重な経験でした。

鉄旅の原点大阪万博の迷子 阪急電車

私は熱中すると衝動的で周りが見えない。忘れ物も多く、一人でフラフラする。小学校時代テスト等の成績はいいが、かたずけるとかできない落ち着きのない子でした。今ならADHD気味といわれても仕方のない子でした。

1970年大阪で万国博覧会が開催された。それは当時小学5年生だった私にとても魅力的なイベントに見えました。近未来のさまざまなパビリオンは紹介記事をみるだけでわくわくしたものです。京都の小学生なので一度遠足で、少しだけ初見体験をしました。行列のできる有名なパビリオンは行けず、地味な外国館だけしかこの時は訪れりことができず後日家族でクルマに乗り再訪することができました。
しかし、人混みの大混雑の中、何と私はこの時フラフラして家族とはぐれてしまい、迷子になってしまいました。
小学校5年くらいなので迷子センターのようなところへ行くのはちょうど照れ臭い年だったのではと後から言われています。そういうところに駆け込むべきか、しばらく両親、兄を探しながらもものすごい人なので再会できる雰囲気ではありませんでした。クルマを探すといってもさすがにいくつもの駐車場のどこかわかりません。幸い会場マップはあり、お金もありましたので飲み物を買い電車賃くらいは十分あったので、とりあえずいくつかのパビリオンを見てひとりで帰ることにしました。
当時京都の自宅へのルートは2つ。阪急四条大宮駅が最寄でしたので、南茨木駅からのシャトルバス(南茨木への大阪モノレールはまだ未開業)、万国博西口駅(現阪急千里線山田駅の北側にあった)から淡路乗り換えで京都線のどちらか。西口経由は遠回りですが阪急だけで行けるのでバスよりは簡単な乗り換えと判断して、暗くならない間に西口へ向かいました。鉄道地図や路線図を見るのは好きだったので淡路駅でも迷いはなかったのでしょう。無事自宅には帰りましたが、両親には心配もかけ後々も語り草なエピソードでした。
私の鉄旅の原点でした。
なお大阪モノレールは1980年の開業で、この時会場内交通として環状モノレールと、遊覧ロープウエイもありましたが乗っていないと思います。

中島みゆき「悪女」の思い出

セレクトアルバム買いました。エール編と寄り添い編の2枚組。よく聴いた唄です。中島みゆきさんは「わかれうた」「アザミ嬢のララバイ」「悪女」など初期には哀しくやや哀れを誘う女性を描いた唄を多く世に出していました。
「悪女」もそんなに悪い女ではなく、一人で強がり寂しがっているような女性が悪女になりたいとの願望です。私が一番印象に残るのが「あした」という曲です。この歌詞も少し怖いような女性が出てきますが、やはりその実は哀しい土砂降りのような人生を味わったです。
この曲を聴くたび、私は実際に出会ったSという女性を思い出します。
強がりで見え張りで、S傾向も強い美人で仕事も良くこなされました。上昇志向が強く社内の時のトップに媚び上司に媚び、同性の一部からは徹底的に嫌われていました。どこか詰めの甘いところがあり、ばれやすい嘘をつくところが憎めない。化粧や整形(たぶん)、スタイルには気を使うものの喫煙もヘビーでお酒も強く、夜には強いが朝には弱いメンタルのバランスも悪くとても健康的とはいえませんでした。
そんな彼女と何度か食事をし、微妙な関係のまま夜を過ごしたことがあります。
彼女の家で昇進試験の勉強を教えることになったのですが、私はてっきる既婚者で知っていて旦那さんに挨拶するつもりでしたが、すでに別居していたのでした。
騙すようになったことを知った私の気持ちを、空気で悟った彼女は強引なことはしませんでした。ワインを飲み寄り添いはしました。
しかし敏感なところもあり。彼女なりの感性で私自身が妻を裏切ることがないことを感じ取るようでした。
甘える声は可愛いのですが。二人は永遠に交わらない平行線だとお互い気付きました。
深夜ではありましたが送ってはもらわず、最終電車には間に合い帰りました。その後長い間私は彼女の魅力と毒に悩まされました。そういう面では本当に悪女だったのかもしれません。

ケンタッキーのチキンが最高に美味しかった時代のクリスマス

ケンタッキー・フライド・チキンは1970年の大阪での万博に出店し、日本に新たな食文化をう持ち込みました。同時期のマクドナルドとともに、若者文化とともにファストフードというジャンルも生まれました。
1973年ごろからテレビコマーシャルも入り全国の都市部の拠点に出店しだしました、
我が家でも、小売店で共働きだったので外食というより店屋物代りにマクドナルドとともにケンタにも走りました。
鶏肉と言えば、手羽や唐揚げ、クリスマスにも実家の商店街の鶏肉卵店や総菜屋で買っていましたが、ケンタッキー・フライド・チキンの美味しさには家族全員驚いていました。
我が家が所属する地元商店街はケンタやマックが来るほどの集客が見込めない立地で、わざわざ電車や車で買い出しに出かけました。当時の人情で、地元の商店街で買わず街のデパートや新興のファストフードで買うのは気が引けこっそりと買いに行ったものです。
一般的にプロの料理店の出汁やソースなどが多種類出回る前の時代です。
素人の家庭料理では当時ケンタに歯が立たなかったのです。
実際に私の同級生は鶏(かしわ)屋だったのですが。これはアカン勝てんとあっさり商売を継ぐのをやめて田舎でペンションを始めました。
洋食にしろ、アメリカンスタイルのフードもまだまだ家庭に根づきだしたばかりの時代です。
日本のあちこちに大手チェーンを圧倒する個性的なグルメや、家庭でも手間暇をかければプロに負けない素材が揃いレシピの情報のある現代とは比較にならない時代がありました。
そんな子供心に夢なった、ケンタッキーのクリスマス。勇んで買いに行ってくれた父も母ももういないし、なんだかファストフードも何度もテコ入れしたメニューもありますが新鮮味も美味しさも飛び切りなものに感じることはありません。
やはり1970年代だから、語り継がれるほど懐かしい味なのです。
戦後、アメリカからの自由と豊かさの象徴のようにクリスマスの習慣は拡大し、お正月と連動して年末年始の大きなイベントになりました。今のなんでも揃う豊かな時代からすると、考えられない美味しさなのです。
あるブログでも同年代の方が何もなかった貧乏な田舎から出てきて、大学の先輩にケンタに連れていかれその味に衝撃を受けたという話には共鳴します。
今の世代の方も、爛熟の中大事な味を見つけて欲しいですね。

滋賀石山寺

センチメンタルになると、昔の部下を訪ね石山寺を歩く。紫式部のいにしえの物語に想いをはせ、思い出す昔の話とか、会えなかったあいだの他愛ない話しをする。雄大なびわ湖や滔々と流れる瀬田川を寄り添って眺めるだけで落ち着く。
どんなに美しい花も紅葉もやがては枯れ落ちる。それまでお互いもう少し精一杯走ろう。