京都市幻の地下鉄延伸、球場、市役所移転?

 京都市のLRT構想を先日書きましたが、地下鉄の延伸計画もほぼ頓挫し幻となったものがあります。

 洛西ニュータウンまでの東西線延伸が、入居者が50年待っても幻なのは割と取り上げられ有名かもしれません。

 もう一つ、烏丸線の延伸計画もあり、これは比較的距離も短く5キロ程度で、20年ほど前に計画され、ちょっと前まで東西線延伸よりはリアルに期待されたのですが、やはり幻となりました。

 現在の終点竹田から、油小路を洛南進都経由横大路で京阪につながるものです。京阪側も本線に新駅を設け直通させる案でした。

 元々鉄道は空白ですが、高速道路のインターなは近く、交通至便となれば副都心の機能は満たされ需要はあると計画されました。

 企業の高層ビルを誘致、市役所機能も移転させ、横大路には京都サンガFCのホーム、サッカー専用スタジアムを作り、老朽化した西京極球場(わかさスタジアム)の野球場もこちらに新設するという、壮大な構想でした。

 しかし、財政難で、サッカースタジアムは亀岡に譲り、市役所も昔のままの現在の場所を建物改修、増築することになったのは、周知のとおりです。西京極も現施設を改修することが発表されました。 

 副都心らしいと言えるのは、バルスプラザと、京セラ、任天堂本社ぐらいで、あとはドラッグストアやファミレスなどの郊外型の店舗や飲食店が点在するどこにでもある地方国道で、とても副都心とは言えない光景です。

 京都サンガFCは2部をさまよっていましたが、この頃はJ1上位で観客も2万人以上詰めかけています。このあたりは、京都市にとっては悲観的な読みが結果として外れてしまって残念です。

 建築基準の見直しで、さらに高層ビルが建てやすくはなりましたが、一体鉄道も空白のエリアでどれだけの誘致が今後可能なのでしょうか。

 竹田からの延伸は、地下線しか無理なようで、財産的にはもはや完全に棚上げで、洛西ニュータウンへの東西線と同じく、幻となりそうです。

 私はサッカーファンで亀岡のサンガスタジアムは駅近でキレイで見やすく良いスタジアムですが、京都市民としてはやはり京都市内にできて欲しかったです。

 地下鉄の建築読み違いも、仕方ない面もありますが、都市計画の杜撰さ、甘さ、先見性の無さです。

 かつて京都市は明治初期の東京遷都で、衰退を怖れ新しいものに取り組み日本初を企図し続けました。

 しかし、戦後80年を経てその意欲や革新性を喪っていました。

 個人的に思うのは、市役所の職員、市議会議員さん、その他関係の方も真面目で良く仕事をされますが、こと斬新な改革、先進的な思考は弱い気がします。それは、市民の要望を短期的にはよく聞き入れての結果で、縁を大切にする感じで、印象の悪い言葉では、「コネ」や「しがらみ」にこだわる部分でしょうか。決して利権とか汚職はないのですが、善人が生真面目にやってしまう仕事であやまった方向に進む残念な結果のような失敗です。

 構想をブチ上げて、やっぱりできませんお金はこんだけ使って、中途半端にやりかけが残る。推進力が足らないのかと、それを止める勢力が邪魔なのか、国でも事業が進まないのは同じですね。

 結果、頭の良い真面目な人が、いっぱい集まって考えて、なんじゃこりゃというハンパなものしかできないのです。

 邪魔をしているのも、一人一人のわがまま、利権かもしれません。

 

 

儚き想い、蜃気楼の愛

 実は未だに、学生時代に好きだった人が当時のままで夢に出てきたりします。
 実際には、同い年だともう高齢者で、いいお婆さんになっているのでしょうが、可愛いままでいて欲しいと願うのみです。

 女性の多い化粧品の会社にいたのですが、女性の実年齢だとか、化け方はなかなか難しくもあり驚くほど面白いものでした。また、それに注目し、追いかける男性を観察するのも興味深いものです。
 一般の会社から見れば、随分華やかで遊びが多く、女性関係が随分大らかだったと思われがちですが。実際には私個人としては遊んだとか、モテたとかもそおうなく、面倒くさい仕事だけの会社時代でした。

 若手時代は、エリアの女性トップに立つお局のような美容教育の「先生」と呼ばれる責任者がいました。30代後半?か40半ばぐらいだと見えましたが、随分年年齢も言ってるのにケバイ、派手なおばさんに見えました。ある時、本社からその先生の若い頃を知っている男性幹部が来て、そのお局も若い頃は随分カワイく、美しい人だったと聞き、驚いたものです。
 自分が年齢を重ねると、ある程度、一緒に仕事をした人や好意のあった異性には思い込みがあり、少々老けてきても、良い方向にバイアスが働いて見るのが分かります。

 またストックホルム症候群とも言われ、閉鎖的な小さな集団では、「その人ぐらいしかいない」となると特別な感情は肥大します。
 職場、学校やさらにその中のチームやサークルなどで、男女というのは、異性間を意識し合うのも分かります。
 彼氏がいるとか、結婚しているとかで、あきらめる人と、それでも突き進む危ないというか、性欲の強い人もいました。
 好きなタイプが結婚しているとか、付き合っている恋人がいる場合などは、そこで引いてしまうけども、かといってすぐ別の人というわけにいかないという心理が働く場合もあり、付き合いづらくなって晩婚になった私はそんなケースです。
 もちろん、女性関係で問題を起こし、それを繰り返す輩も数多くいました。それだけ、モテるから仕事もできるんだと、さすがに今のコンプラ重視時代では通用しないような気もしますが、政治や経済界を見ても近くを見ても男女の関係はどこまでいってもいくつになってもそれなりにあるものです。

 化粧品会社でも、職場結婚は多かったですし、役所だとか法曹界でも職場結婚は多いです。翻れば、同級生たちも卒業と同時ぐらいに学生時代からの交際相手と結婚した者がかなりいて、あとはやはり勤めた会社で相手を見つけています。もちろん、見合いも昔は多く、合コン、今ならマッチングアプリもありますが、職場結婚の比率が多いのは、やはり狭い空間に異性が押し込まれると、一緒になる可能性が高いのでしょう。
 理想は映像の中という人も、目の前の人が見えず、少子化の元凶で夢を追いすぎてるとも思われますが、ある意味一本気で良い面もあります。

 私はそれでも、時間も空間も離れた初恋の夢を見続けます。
 

 

思い出の街の変貌と静寂

 

先日、大阪に暑い日に、水に映える建物の図書館があると聞き、大阪府松原市を訪ねました。
この町は、43年前、化粧品メーカーに入った社会人一年目で初めて営業を任されたエリアです。北は大阪市南部、西南部は堺市、東部は羽曳野市、藤井寺市、八尾市に囲まれた、人口12万人あまりで南北の政令指定都市に比べると小さめの市です。
2年ほど右往左往した思い出深い、新人向けのエリアでしたが、中心部にダイエー、イズミヤがあり、そこを除くいわゆる路面にある一般のお店を担当していました。ドラッグストアはまだなく、コンビニもやっと出来はじめたばかりで、当時は個人商店の薬店、化粧品専門店が主力で、この小さな町に20~30店前後あったのではと記憶します。
京都市で15万~20万ぐらいの行政区に50とか100の専門店があった個人店の時代です。
当時でも、時代がかわりつつある兆候はありました。昔と変わらず、この市にはJRはなく、私鉄の近鉄南大阪線の、4つの駅があるだけです。当時から車での移動も便利で、阪神道や近畿道のインターがありました。
この写真の水面に浮かぶような図書館は、5年ほど前にできたモダンなデザインのものです。近鉄の駅の一つ高見の里駅の近くです。
その駅の周辺にも、何軒か担当した店がありましたが、今はすっかり変わりました。あちこちに大手ドラッグもできています。その当時も、公設市場が亡くなったり、高齢で後継ぎなく、廃業に追い込まれた店がありました。小さなエリアで2店も閉まると、営業成績は苦しく堪えました。
天美の駅から、少し東に歩いたところにあったタバコを扱う古いお店に、若いお嫁さんが来て、改装もされてイッキに売上が上がった時期もありましたが、もうその店もありませんでした。あの時若かったお嫁さんももう間違いなく60代後半ですから、40年の間にさまざまなドラマがあったのかは分かりませんが、残念です。
その駅の反対側には、Bというお店がこれも古くからあり、もうひとつ資生堂を良く売っていた老舗でOという店もありましたが、Bだけが残っているようでした。本来、Oの店がやっていそうな資生堂の専門店ブランドを、当時は垢抜けなかったBがサロン風になって引き継いで続けられているようです。
近鉄線とは離れた東北部に、三宅、阿保地区にもお店は点在し、阿保にあったNという薬店も立地は悪いところでしたが、半年に一度の催事は多くの美容部員を手配し、よく集客して良く売りました。店主もアイデアマンで当時若輩の私には随分年上の夫婦に見えましたが、子供も小さかったので30代前半ぐらいだったのでしょう。やはりもう廃業されているようです。薬の小売は一般の店では、全く大手に太刀打ちできない時代が来ていましたからでしょう。
河内松原、布忍にはそれぞれ小さなスーパーがあって、そのビルにテナントで入っている店がありました。Sという薬店も小うるさい親父で、相手するのがイヤでした。布忍の駅前のスーパーも見当たりませんでした。当時のナンバー1の店だったTという店もあったはずです。表彰店にもなったのですが、したたかな女経営者でした。近くの路面店のZはTよりも古くからある店でしたが、Tの勢いに押されて、いじけるように、自然派メーカーに傾いていかれたようです。当時、白髪の混じる奥さんがやっていましたから、代替わりしたのでしょうか、自然派の店で、ネットでもみつかり、古い店舗のまま健在でした。
駅の人の流れ、商業施設の人の流れは、塞翁が馬のように、経済、社会とともに時間がうねり、人々の運命も流れたのだと感じます。
近くに古墳があり、このようなため池もあり、マンションや住宅も増えたとは言え、ピークはとっくに過ぎ、人口は減ってきています。
昔は、最新式のポケットベルを持たされ、鳴動すれば、公衆電話か店先で電話を借り、得意先に電話して商用を聞くような対応もしていました。今はそんな公衆電話も消え、古い看板色を背負った商用車はおろか、それを迎えるメーカーの看板のある店すらありません。
それでも、近鉄以外の新しい鉄道ができたわけでもなく、街全体の大きな枠組みが変わっていません。線路も高架されることもなく、ICカード対応になったぐらいで駅の構造そのものも変わっていないでしょう。電車から見える街、駅から少し歩く市内の様子としては、40年、そうは変っていないものです。モダンな図書館、ドラッグストアやコンビニは時代の変化を、ため池や鉄路は不変の静寂を象徴しているようです。
おそらく、戦後80年の間、前半の40年の方が劇的な外見変化があったのでしょう。後半の40年は内面的な変化と言えるのでしょう。
どうでもいいような思い出からの雑感です。

オールドメディアはどうなる

不祥事でテレビから消えていたダウンタウンの松本人志が、ネット配信の番組で11月から復帰するとの報道がでていました。
地上波テレビには、問題を起こして出れない人が動画サイトでは、それを逆手に知名度を活かし逆に稼いでいる時代です。
本来の意味での、不祥事に対する戒めでも何でもなくなり、ますますオールドメディアと言われるテレビの衰退がささやかれます。
そんな話題を競合するオールドメディアたる新聞やテレビが報道していていいのかとも思います。しかし、もう彼らにはプライドも何もなく、広告出稿量も金額も減っても、共存して生きながらえる道しかないでしょう。

新聞などもう、ネットニュースへの情報提供で生きています。かつてはテレビの台頭で存在を脅かされたとき、それを逆手に目立つ裏一面をテレビ番組表にして、共存を図ったものでした。今や、テレビ局も制作はしても同時にネット配信もして、無料の動画サイトにもコンテンツを提供することで、存在感を維持しています。
リアルタイムで、人気番組を家族でチャンネルを選びながら見た時代は隔世の感となりました。
子供の頃、裏番組で見れなかったり、録画もまだできなかったような不便さはありませんが、もう何だかワクワクするようなコンテンツが減ってしまって、興味も少なくなっています。
それは、もう若い人でもそうで、今のテレビを見ているのはごく一部の高齢者になっています。

ネットも不祥事起こした人間の活躍の場で、毒まみれの情報もありますが、清濁見極め、情報や娯楽をチョイスするリテラシーがないと、自分が守れない時代です。

過疎地の商店の物語

ローカル鉄道をめぐり、廃線跡などを散策する途中には、タイムスリップしたような古い看板やお店を見かけます。意図的な景観保全ではなく、昭和から令和まで息づいていて、かつては繁栄もあっただろうに朽ち果てている姿が哀れを誘います。
シャッター商店街が話題にあがりますが、アーケードがあって、企画などのあったスケールの商店街ではなくても、駅前に賑わいがあった痕跡がうかがわれる場所はよく見かけます。
鉄道がピーク時は毎日通勤や通学、買い物の人でにぎわい、乗客や、鉄道車両の管理のための人員とその家族までたくさんいたことも分かります。そんな駅も無人化、廃線となり、大型モールはクルマで飛ばせば行ける時代になり、駅前の店は後継ぎもなく、そもそも商売が成り立つほどのお客さんが来なくなったのでしょう。

そんなさびれた駅前で代々続いた米屋を営んできたY子さんは、ご主人を亡くしながらも、女手一つで、店を回しきました。イオンモールが郊外にでき、若い人がすっかりいなくなっても、Y子さんは近所に配達し、お年寄りを何かと気遣いして細々と商売を続けてきました、
嫁にだした娘の青果店はとうに廃業し、旦那さんの勤めで遠くの近いに引っ越してしまい、年に一度顔を見る程度です。
頑張っていた多くの近所の店も平成の半ばでほぼなくなりました。
令和が始まっても、何とか重い米を外まで買いに出かけられないお年寄りのために商売を続けてきたY子さんですが、コロナにもかかり、復帰する時、腰を痛めてしまいます。
そして、トドメを刺されるように、米の卸先から、回せる米が無くなったと告げられます。とても年金ぐらしのお年寄りにか買えない値段の米しか卸して貰えず、お店の米が売りつくされ、棚がすっからかんになった時、Y子さんは商売をやめる決意をしました。
国民年金とわずかな貯えで店の処分ではマイナスになり、とても高額な施設には入れず、介護サービスを受けながら、シャッターの奥の自宅で、つつましやかな老後生活を送るY子さん。
かつて、にぎやかだった駅前通りをたまに夢のように思い出すことがあるそうです。

というような物語を創作してみたくなります。
この後は、Y子さんから不動産も年金も巻き上げようとする悪徳業者を追い払いう、薙刀と合気道の達人、孫の美少女が活躍。

東北と悪石島を結ぶ来訪神

 秋田にいた時、男鹿のナマハゲを実際に実演もみて、伝承館などにも行きました。
 商店街とタイアップ?した中学生ぐらいの自由研究に、ナマハゲに代表される日本各地に伝わる来訪神が紹介されているのを見たことがあります。
 その中に、日本とは思えない南洋のような奇抜な色彩の神様が、今地震で苦しまれている鹿児島県トカラ列島悪石島の「ボゼ」でした。

 ナマハゲが、藁のような蓑をまとい、体色はやや地味で赤か青の仮面なのですが、ポゼは緑の葉をあでやかにまとい、仮面も大きく多色をまとっています。
 年に一度来訪し、女子供を戒め、勤労と豊穣、無病息災等を祈念する来訪神が日本の各地にいろいろな形で点在しているのは面白いです。

 秋田のナマハゲ館は、ショッカーの再生怪人軍団のようで、なかなかの迫力ですが、各地の来訪神行事は、観光化されずに、過疎化で伝承も厳しい局面のところもあるようです。

 いつか見たいと思っていた悪色島のポゼですが、島が危険な状態となっており、安全になれば、一度はやはり見てみたい気持ちは強まります。

 子供の頃、来訪神にこっぴどく諫められなかったので、少し怠惰な大人になったのかもしれません。そこは素直に反省しています。

夏越の祓い、今年の前半を振り返り禊ぎましょう

 いつの間にか、2025年、令和7年も半分が終わろうとしています。
 6月30日、「夏越の祓い」という行事の日です。
 それほど昔からではないですが、6月の終わりにはどこかの神社で茅の輪くぐりをっしています。半年の無病息災を喜び感謝し、あと半年の無事を祈る行事です。
 天候などによってはいけない年もありますし、たいてい6月の末日ではなく、茅の輪が設置されていれば、月後半にはくぐっていいました。

 今年はそう遠出ができない脚の状態なので、近所の神社に行きました。近所とはいえ、炎天下1kmほど歩くのはきつかったです。
 今感じるのは、この股関節炎で歩くのは辛い件が、この前半の最大エポックでしょう。

 とは言え、半年の間というと、振り返ればいろいろな出来事がありました。波乱万丈とまでは行かないまでも充実したいろいろあった6カ月でした。記憶力は衰えていますが、スマホの写真が保存されているのであんなこともあったと回想できます。

 前半の1ー3月、会計年度の3月末までが2年近く勤めた裁判所勤務のラストラン、雪の舞った2月がまだ4カ月前というのが遠い記憶のようによみがえります。
 年始から、結構な案件を処理し、年度末の準備もしながら、2月はリクルート活動にも入りました。年度替わりとあって。厳しい就職戦線で、結局会計年度の雇用には間に合わず、少し休んで、4月末からの仕事に採用されました。
 4月は少し、のんびりと旅をしたりする時間がとれました。そして、4月末から、現職で働きだして、慣れぬ職場であたふたする、あっという間の2カ月でした。

 何となく、知っているような気もした自治体の仕事ですが、全く知らない面が多く、感心する毎日でした。もちろん、民間企業や国と違う点もあり、こういう改革があればという思いを抱くことは、私の性格上ありますが、そこは徐々にという感じです。

 みなさんの半年はどうだったでしょう。今年、こうありたいという夢や目標は半分経過してどうでしょう。焦らずとも、振り返り、歩みを確かめながら、あと半年を前に進んでいくことです。

 私も明日からの半期も、いろいろあるのでしょうが、頑張って、まずは目の前の体調を整えて、一歩一歩を進め、目の前の課題をひとつずつクリアしていきたいです。

 

長嶋茂雄、昭和日本の象徴堕つ

 今日は、やはりこの話題を急遽取り上げます。

 私は、どちらかというとサッカー好きで、野球を見るのはアンチ巨人であり、関西に住んでも阪神ファンではなくパ・リーグの近鉄ファンを経て現在は楽天推しです。長嶋茂雄氏にはそれほどの想いはありません。私が中学生頃に現役引退されており、衰えの見えた晩年のプレイしか見ていないですし、実際魅了されたのは、私より世代としては少し上の人からでしょう。長嶋の現役時代を知る人はも、還暦以降の老人だけで、今現役でバリバリ働いている人はリアルタイムの長嶋を知りません。若い人にとっては、知らない歴史上の人物が亡くなっただけのニュースなのです。

 それでも、その存在の大きさは、いろいろあっても昭和のまさに巨人だったことに間違いはありません。
 今のメジャーも盛んに報道される中のNPBが、日本のプロ野球として戦後人気と存在感を得たのは王、長嶋というスターを得た巨人が圧倒的な人気と実力の球団になったことから始まります。

 それまでの職業野球とも言われたプロ野球で、巨人が金で実力選手を集めて勝っても人気たいしたことはなく、早慶戦や甲子園の高校野球、都市対抗などと、どっこいどっこいで大差のない程度だったのです。

 その長嶋は、1958年立教大学を卒業、パ・リーグの南海ホークスに入団が決まりかけていましたが、逆転で巨人に入団し、金田正一とのデビュー戦対決で4三振などで人気者となり、背番号3は国民的スターになります。
 歴史にIFはないですが、あの時、長嶋が南海に入団していたら、プロ野球の人気、セパの格差などの変遷は今と違っていたのかもしれません。

 野球は、日本の国民性からもやがて人気スポーツにはなったでしょう。野茂や大谷がいなくてもメジャーに行く日本人はやがて出たのと同じ理屈です。
 巨人のような、報道機関を親会社にして、権力を集中させて業界を牛耳って長く君臨して、老害となるようあり方は、やはりスポーツの健全な成長を妨げたと思います、王や長嶋は、一時代を築くスターでしたが、その名声で一部の人が利権を得続ける構造などスポーツの世界にあってはいけないのです。

 先ごろなくなった、ナベツネこと渡邊恒雄オーナーが、権力を握り、他のマスコミに長嶋死亡まで、読売新聞と日本テレビが情報を握り、逆らうメディアは排除して情報封鎖すると、脅しをかけていたのはわりと信憑性のある情報です。
 先のフジテレビの高齢経営者とともに、日本のマスコミが80台後半以降の代表者に、全権を握られていたのですから、恥ずかしい話です。業界を発展させ、守るはずが、閉鎖的で独裁的な内向きの組織になった典型がテレビ局やNPBです。

 確かに長嶋さんは、攻守とも華麗で魅せる動きで、喜怒哀楽も見る者を和ませファンを虜にしました。現代でいう大谷級のスター性を持っていったのです。大学時代から、ショービジネス的な魅せる面もあるメジャーの感覚を練習にも取り入れたセンスも先駆といえ、真面目一辺倒が好かれたアマ野球から、イッキにプロ野球を国民的スポーツにした功績は揺るぎないものがあります。

 1958年長嶋入団写真のこの週刊ベースボールがたた30円で売られていました。プロ野球の入場料金は100円、今の物価に換算しても随分安い時代でした。
 この時代、日本はまだまだこれから発展していくために、いろいろな選択の道を決めていくのですが、この60年以上の選択はどうだったのかは、当時から見た未来に生きる我々はすでに知っていることです。

 昭和が遠くなっていくのは歴然とします。

 

走り始めた1カ月

 66歳を迎えた子の5月、還暦から何度目かの新しい仕事に向かい始めて、予想通り慣れない面や、人間関係の難しさも味わいながら、何とか駆け抜けてきました。

 世間では、もう悠々とリタイアして年金や運用で暮らす人、役員や経営幹部で泰然とお仕事をされるような方の多い中、知らない分野の法律や制度を覚えるこれはこれで、新鮮です。見方によれば、マゾかと思われるぐらい。とてもそんな新しいとこに入っていけないと言われますが、気が付けば新しい専門ジャンルを一つ増やしています。

 一度きりの人生、何でもやってみて、初めて会う人には、ずっとこの人はこの役場の人なんだと思われているだろうなと思うことがまた快感でもあります。

 何をされてきた人ですかと、キャリアを聞かれると、長くて説明も難しいですが。まあいろいろと、やってきていますと語ることができます。

間違って『器用ですね』と言われることや思われているがありますが、手先もそうですが、考え方も生き方も不器用です。
 一般的なギャンブルやゲームなどの遊びも苦手ですし、頭と体で理解しかしないと、なかなか呑み込めないところもあるわりには、我流で突っ走って失敗し、迷惑もかけています。

 こんなことなら、もっと若い頃から頑張って会社で出世していたらとか、勉強して公務員試験や資格試験を受かっていればとも思いますが、いろいろつまみ食いみたいに気楽に歩きながら、閉塞された業界に少しずつでも意見して、改善を促すようなところに、やりがいと使命があるのでしょう。

 私の37年もそうですが。同じ職場、同じ仕事にずーっといることは、我慢強いですし、立派だと思います。退職金貰えて、年金が入って働かなくて良くなれば、絶対働かないと思っていました。

 仕事も人生も、それぞれ、いろいろだなあとはつくづく思います。

ドンキホーテに集う人びと

 自宅近くにドン・キホーテができました。京都市では京都駅北側の店以来、八条口、河原町なのどターミナル、南インター、山科、宇治、洛西などの周辺部にはありましたが大学や住宅の多い地域への出店です。最近はユニーの跡地など大型店の居ぬきも多い中、パチスロの店の跡です。狭い通路にギッシリのレジに並ぶお客さんでしばらく大混雑でしょうが、深夜までやっているので便利です。

 地元色ということで、太秦映画村のキャラとのタイアップ、忍者や竹林などもコンセプトに取り入れ、近隣住民への配慮か店内の音はやや小さめでした。ドン・キホーテのオープンには何度か立ち会っていますが、最近は広い通路の店も多かったのと、仕事帰りの混雑時に行くことはなかったので、まさに迷路のような人いきれでした。


 化粧品メーカー勤務時代に、セルフバラエティストア部門を担当していたので、ドン・キホーテという企業は懐かしい、癖の強いカウンターパートナーでした。観覧車で有名な大阪の道頓堀や梅田などの店にも関わり、次々と近郊にも出店をしていた時期でした。ドンキイムズといわれる独自の統括機能と、店の担当者への権限移譲が、他にない特徴的な企業で、やんちゃで理不尽な担当も多いですが、ブラックですが、活気もありある意味やりがいのある企業でした。

 

 オープン時の定番、ドンキらしい目玉品もある中、ド印の情熱価格のオリジナル商品も増え、このあたりでアイデアも募り楽しみながら利益もとっているのでしょう。
 すでに、日本の経済が落ち込みがちなバブル以降の時期に、ヤンキーあがりみたいな若い担当者が、高度経済成長期を思い出させるほどよく仕事をしていろいろ動き回っていました。今はコンプライアンス時代で、働きすぎ働かせすぎのブラックは良くないのでしょうが、権限移譲でやりがいがあると、自ら喜々として働く、そういう活力が日本にはもっと必要なのでしょう。