明治期~鉄道忌避のウソ

 歴史の中には、誤った考察がまかり通って通説が事実のように伝わっているケースがあります。

 今も、新幹線延伸やリニア開業の問題でルートや条件で賛否の議論は盛んです。
 過去も我田引水ならぬ『我田引鉄』などと言われるように、ルートが捻じ曲げられたて、有力政治家などの力で、遠回りしてもその町をめざしてルートが変わったケースはあります。

 今はさしずめ高速道路の時代ですが、明治から戦前ぐらいまでは鉄道がなければ、江戸時代からの街道を馬車で行くのような時代でしたから、町の発展には鉄道の誘致が重要でした。

 鉄道や地理に興味がある方も、なぜこの町の駅は、中心部でなく街はずれにあるのだろうかと疑問に思われます。
 『昔は蒸気機関車で煙をまき散らし、木造家屋の多い時代、火事の怖れもあり、騒音なども嫌がられて町の中心部には反対があって、辺鄙なところに駅ができたのだ』というのがまことしやかに定説になっています。
 たとえば京都市でも中心部の四条ではなく、かなり南のほうに国鉄の駅はできています。多くの各地の本線、新幹線でも、町の中心部ではなく、外れにできて、中心部にはバスや市内の別線を作って移動を強いられる場合もあります。
 しかし、上記の鉄道忌避の話は、ほぼデマに近い間違いで、もちろんそういう声もああったでしょうが、ルートの決定には考慮されてはいません。そういう声があったというのが過大にイメージとして残り、反対したからアッチに行ったという風になっている感じでしょう。

 町として誘致して、大筋で歓迎しているのですから、アクセスしやすい位置に駅ができた方が良いに決まっています。ましてや、地元でまた連絡の鉄道を敷くなども大変です。

 鉄道のルート決定は、トンネルや鉄橋の敷設、勾配やカーブ、地盤により要因が大きいのです。とくに明治期は勾配を上り切る動力がまだ不足していました。その後時が過ぎて新幹線の時代でも、高速で走るにはカーブのカント制限ができ、あまり曲がって駅に進入するルートも設定できなくなりました。車体も長く大きくなると、地盤の弱いところは難しいですし、河川をわたるのもなるべく避けたいものでした。

 今の鉄道のルートや路盤、駅の位置を見ると、そういうことがすぐわかります。

 これからのルートは政治的な要素が強いかもしれませんが、決定後はさらにその議論さえ、歴史の中では、すり替わるかもしれません。

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