宝塚発同志社前行き19年前の惨劇 JR福知山線脱線事故

ミステリ作家、青崎有吾の「11文字の檻」という短編集の最初に掲載された作品「加速していく」は尼崎での鉄道史に残る事故をモチーフにしています。
 あまり、この事故を考察したり、素材にした作品はありません。

 福知山線脱線事故は、2005年(平成17年)4月25日にJR西日本の福知山線(JR宝塚線)塚口駅 – 尼崎駅間で発生した列車脱線事故である。乗客と運転士合わせて107名が死亡、562名が負傷した。

 なお、JR西日本では、「福知山線脱線事故」ではなく「福知山線列車事故」と呼称していますが、マスコミなどでは、「JR宝塚線脱線事故」や「尼崎JR脱線事故」などとも呼称されています。

 私にとっては、勤めたことのある地名としての福知山が路線名になっており、列車が母校の大学のある「同志社前」を起終点にしていることで、当時関西にはいませんでしたが衝撃を受けました。 

 本当の意味で真相はわからないところもありますが、鉄道は絶対安全安心な公共交通機関だということを思いださせる事故です。
 当時関係者には、事故にあった人は知らなかったのですが、やはり後輩の中に、ある日突然日常を奪われた人がいることを聞きました。
 大地震でもそうなのですが、運命の残忍さ、生命の儚さというものに思い入り、つくづく、残された人間が時間を大切に生きねばと思います。

広島県に安芸津という町があった

 昭和60年から約2年半、広島県に転勤して働いていました。広島県には広島市以外にも福山と呉に会社の拠点がありました。今で考えられないきめ細かい拠点施策の一貫です。呉に赴任した時は、今よりもさびれた港と造船の町だと感じました。アニメや、大和ミュージアムもまだなく、観光資源に乏しい上、造船の低迷で街の構えは広いのですが、全体的には活気のない感じでした。
 それでも、海が近いというだけで自然は豊かでした。今は呉市に合併された江田島や音戸島、倉橋島、能見島なども車で回りました。仕事がきついですが、竹原までの呉線沿線も営業エリアで、瀬戸内に海と山が迫ったおっとりとした風景は和みました。


 Nさんという細身で非常に色っぽい感じの部下がいました。取引先の社長さんが少し執着気味になるほど、美人でした。
 私はこの時、独身でしたが別の人に恋していました。どことなく薄幸で近づき難い感じでNさんはそれほど意識したことはありませんでした。
 ある日、Nさんのお父さんが亡くなったということで、上司と香典を持って実家のある安芸津町という港町に向かいました。

 Nさんの都会的なイメージとはかけ離れた田舎の町、坂の多い狭い道に、小さな家がへばりつくように建っていました。
 迎えてくれた、やつれたようなNさんの喪服姿は別人のようでした。
 喪服姿が美しいとかそういうのではなく、怖さと憐れさが勝っていました。この狭い家の、残された母親と、周りをとりまく何ともいえない閉塞感、重さのようなものに上司とともに圧倒される感じで、気分が重くなりました。

 静かな瀬戸の海は凪を迎えていました。日本にもこういう光景があるのかと、「砂の器」の映画を何となく思い出しました。安芸津町は今は、内陸の東広島市に合併されています。山陽線と呉線の山側、海側が平成の合併で一緒にされたのは違和感です。

 あの情景は今も残っているのでしょう。

長浜鉄道スクエア 北陸本線の要衝

 長浜駅のびわこ側には、現存する日本で一番古い駅舎を改造した建物が長浜鉄道スクエアという施設として、駅に併設されています。
長浜市街は駅の東側に広がり、この鉄道の記念施設を訪れたのは30年以上前、30歳になる前だと思います。レイルウエイライター種村直樹さんのミステリにずばり「長浜鉄道記念館」とうのがあります。30年前では鉄道スクエアという名前ではなかったのでしょう。当時から30年以上、改装もしながら保存しているのはすごい歴史的意義です。

展示車両はD51蒸気機関車と、交流電化対応のED70電気機関車の2台です。

 昔の駅舎をうまく活かし、改札口や駅業務、駅長室を再現していますし、ジオラマや年譜、ビデオ画像で往時をしのぶことができます。
 北陸本線は、敦賀延伸の新幹線で注目されました。並行在来線ということで、直江津~敦賀の間は第三セクターとなり、米原から敦賀の45キロほどの短い区間のみとなりました。
 しかし、敦賀~長浜間は、日本で3番目にできた古い路線です。当時は東海道線が今より北側のルートで関ケ原から長浜につながり、長浜から大津は琵琶湖を船で結んでいたのです。大津~神戸、新橋~長浜に次ぐ最古のルートであり、現存する駅舎で最も古いのが、この旧長浜駅なのです。
 陸路と湖上交通の交錯する要衝だった長浜は北陸本線が米原経由、東海道線も陸路で全通すると、中間駅に成り下がります。二代目になるかつての駅も哀愁を帯びた北国で、車両も交流用で京阪神とは趣が違いました。今は京阪神から新快速が来るアーバンネットワークに組み込まれました。4両ながら新鋭の電車が行きかいます。かつて琵琶湖を3時間かけて船が渡る待合があったのですが、観光でも楽に日帰りでいける距離です。
 歴史上の人物、紫式部も明智光秀も琵琶湖を渡り、越前に向かいました。その琵琶湖を横に見ながら、快速で駆け抜ける電車たちと、思い出を刻む哀愁ある記念館。

 

時の流れをしばし、逆行できます。

大阪が進化している

 普段、古都の落ち着いた街で、右京の太秦から京都御所の間の通勤で、高い建物の少ない町に慣れているので、東京はもうビル街が圧倒的過ぎて、現実味がないくらいです。
 大阪は近いので、未だに遊びにも行きますし、最初に実家以外で住み、長く勤めた都市でもあり、その変貌が見ておきたいとも思います。
 鉄道やら買い物、演劇や展覧会など「点」として通過したり、ピンポイントで行っても、万博を控えまとまっていろいろできてくるパワーにはやはり圧倒され、チョット付き合うのには疲れそうです。

 万博は小学校の大阪万博に何度も行き「制覇」したぐらいなので思い入れはありますが、そんなに強い期待感はありません。「行けたら行くわ」程度の思いです。

 最近では西梅田側にも、大きなビル、施設が複数でき、ウメキタ側にも芝生の大きな広場などできあと数年でさらに進化、完成する空間が広がっています。万博景気、さらにIRと、新駅、新路線も広がり先進性、利便性の高まりと、イベント効果で当面大阪は上がり目でしょう。
 西梅田近辺は10年ちょっと前、通勤にも四つ橋線を使い、取引先の新店舗の立ち上げにもかかわり思い出深い場所です。中央郵便局跡は更地にされ、屋台が出たり、サーカスなどイベントをやっていました。ここにKITTEという切手、郵便局を想起させる商業ビルが建ちました。
 劇場もあり、良いテナントも入っていますが、イマイチ「官」の匂いも残すのが面白いところです。
 まあ大阪は東京ほどではないにしろ広いし、一通りに行くには少し時間もかかりすぎ、気持ちとしては遠く感じるようになりました。大阪は京都より平野も多く、企図された公園も多くあり緑は案外多く、住むのに悪いところではないです。文化や芸術、スポーツイベントも当然開催頻度も高いので便利ではあります。
 しかし、私は人が多い所より、ローカル線や廃線鉄が好きなので、好きなイベントや経由地以外ではそう無理には行かないでしょう。

新幹線接続?の超ローカル駅

 夏草ボウボウと有蓋貨車みたいな待合、決して廃線跡ではありません。
 3セクですが、山陽新幹線に接続する駅です。
 新幹線が通れば街が活性化すると思われるのは十分条件ではないようです。
 新しい新幹線やリニアがいつできるとか、早く自分の街に開通して欲しいとか、乗りたいという人もいるでしょうが、なかなか次はしばらく難しいのです。
 まだ整備新幹線、並行在来線などの問題ができる前、初代のひかりが走った東海道と山陽の新幹線も、すでにそれぞれ60年、50年と経過していき、大盛況の影で一部は負け組の結果が出たような駅もあります。
 
 整備新幹線のように線路建設には自体は自治体負担はなくとも、請願駅と言われる一部自治体負担駅でも、駅の場所や、在来線との接続も問題がありがちですし、のぞみの停まるターミナル駅ではないと街はずれにこだま停車駅を作っても恩恵は少なかった例も意外とあるのです。
 それ以前の課題として、新幹線は短絡新線を使います。速度、到達時間を優先するため、既存の駅に無理に沿うためにカーブしてルートを決めいちいち停まってられない事情もあります。
 写真の奥の高架駅は、山陽新幹線新岩国駅で、手前の草ぼうぼうのホームは新幹線駅から徒歩5分の第三セクター錦川鉄道新岩国駅です。
【新岩国誕生の事情】
新岩国駅は岡山~博多開業当初からの駅です。徳山と広島の中間で、観光名所の錦帯橋もあります。既存の山陽本線岩国駅に作る案、岩徳線西岩国近くの案もありましたが、急カーブも必要な上、距離が長くなり、市街地で用地買収も難しいため、車両基地も併設できる広大な土地のある御庄地区の現在の場所に決まりました。
近くに岩日線御庄駅がありましたが、岩国と新岩国駅は同一駅扱いですが、御庄駅はJR時刻表の乗り換え標準時刻にも載らない、近くにある駅扱いで、鉄道ファンにも謎でした。今でも新幹線の接続は悪いですが、3セクになって錦川鉄道清流線、清流新岩国駅とされ、連絡通路や案内表示はできました。接続は良くないので長々待ったのがこの写真です。JRになる時に、新幹線接続駅にすると岩日線を赤字でも引き受けないといけなかったから、接続駅にせず切り離したとも言われています。
 何より放置されたようなホームのメンテナンスの悪さです。哀愁はありあすが、草生した廃線跡の駅のようです。
 しかし、新幹線の新岩国駅にも課題は多いです。50年も経とうかという経年劣化も、観光地から微妙な距離の難しさもあり、設備面も古く、ショップもほとんどなく、食事もままならないし、トイレや待合室も古いままです。山陽新幹線で最少クラスの乗降客の駅ですが、これが地方の中心からは少し離れたローカル駅の実情です。
 請願駅では、新倉敷駅、新尾道駅、東広島駅、いずれも既存路線との微妙な距離と観光客集客とのズレなどで似たような苦しさを味わっています。東北や上越、北陸、九州などにも似たような事情で、成功した町の駅と、失敗のケースがあります。
 新幹線、主要幹線とローカル線と、上手い接続、連携を行い、町全体がデザインされ、人を呼び込み活気を産まないと意味がありません。
JRや鉄道会社全体もまず本業で儲かる仕組みが必要で、それにプラスしてホテルやショップ事業を推進するべきです。

 
 

青春のタイムスリップ

 青春18切符が青春18のびのび切符として発売されたのは1982年で私が社会人になった年です。
 それまでの貧乏旅は、学割、周遊券などでした。本格的に18切符で旅を楽しんだのはそこそこに青春とは名ばかりの中高年に差し掛かってからでしょうか。仕事からみでは、転勤や出張、家族との帰省や旅行などでもあちこち行きましたが、一人で(貧乏)旅それも強行日程というのは、久しぶりになるでしょう。
 朝から京都からひたすら西へ山陽本線、北九州、小倉、門司港まで行き、お目当ての一つ、九州鉄道博物館。
 小倉市内モノレール、日田彦山線とめぐって、山陽線途中で宇部線、新幹線、錦川鉄道、岩徳線、山陽線で広島まで戻り、広島でメインイベントとなる懐かしい大阪時代の同僚と再会の飲み会。
 広島からは今回の目玉、芸備線完乗めざし、三次まで行き、三江線廃線跡をサイクリングで見て、備後落合で木次線列車と落ち合いを見て、新見で完乗。そしてトリは伯備線新型やくもに初乗車。
 芸備線、廃線が噂さされる地味な路線と言われたがまた詳しくは別の機会に書きますが、今回の圧巻の見どころでした。
 体力と少しのお金で、いつでもタイムスリップはできるものだと、よくわかりました。

 

終戦の日、79年後はどうなる?

 終戦から79年、来年は80年ということで8月15日の玉音放送の流れた日が日本では終戦記念日となっています。外国には第二次世界大戦の終結の日は諸説あるようですが、日本人の多くが刻む戦争は多くの空襲や被曝があり、8月15日に敗戦を迎えたというものです。

 日本人の秩序なのか、真面目さなのか、負けたからといって何もかも投げ出して混乱したわけではないとい象徴的な話があります。鉄道アナリストの宮脇俊三さんが、山形県と新潟県を結ぶローカル線の今泉駅で18歳の時、疎開に向かう道のりで父親とその時を迎えました。
 宮脇父子は、坂町行109列車に乗りこみました。この列車は時刻表によれば今泉に13:52着で、5分間停車して13:57発でした。玉音放送から1時間50分近く後の列車で、宮脇は「こんな時でも汽車が走るのか、私は信じられない思いがしていた。」と書いています。
「天皇の放送が終ると、待つほどもなく列車はやってきたのだ」として「昭和二〇年八月一五日正午という、予告された歴史的時刻を無視して、日本の汽車は時刻表通りに走っていたのである」としています。

「女子の改札係が坂町行が来ると告げた。坂町行109列車は入ってきた。
いつもと同じ蒸気機関車が、動輪の間からホームに蒸気を吹きつけながら、何事もなかったかのように進入してきた。機関士も助士も、たしかに乗っていて、いつものように助役からタブレットの輪を受けとっていた。機関士たちは天皇の放送を聞かなかったのだろうか、あの放送は全国民が聞かねばならなかったはず」

 そんな戦争の劇的な時間を乗り越えた、米坂線も今は豪雨災害で復旧されず長く休止しています。多くの出征や復員、戦後の買い出しなどで賑わった鉄道も、モータリゼーションの時代には取り残されてしまったのです。
 鉄道そのもの、貨物輸送、通学も変わりました。デジタル化の波なこの先の80年と言わず50年くらいで、想像を超えて変わるでしょう。

 雄大な川沿いの自然を走ったその列車も役目を終えるとともに、その時代の人も思い出となるのです。

時代に流されるもの

 量販店に追いやられ衰退した昭和の時代からの商店街。
 それを追いやったドラッグストアも時代を席捲していたのはもう十数年前になるのです。今は店は飽和して、過当競争でネット販売にも圧されかつての勢いはありません。
 当時、最新のコンセプトで導入された、マッサージなどのカウンセリングのコーナーと、お試し可能なメイクゾーン、セルフ型の什器をずらりと並べた店舗は一見あまり変化がないように見えます。
 10年ぶりに見たその店、本部のオペレーション通り並んだ画一的で面白くない店になっています。
 10年前にその時も何年かぶりに訪れた時で、競合が近くにでき、小さな地方都市が異様な激戦になって、危機感とともにそれなりに活気がありました。
 何より、この店は私にとっても思い出深く、企業のエリアの旗艦店でカウンターパートナーの商談相手がいたのです。好敵手というよりお世話になった取引先であり、その部下たちも含めて仲良くしていた方たちで、担当を離れてからも節目で訪ねていたのでした。
 最後に伺ってから10年、やはり時の流れは残酷でした。
 店構えは変わらず、レイアウトもそう変わらないのですが。手作り感のあったPOPなど個性はまったくなく、どこにでもあるセルフ型のドラッグストアになっていました。
 競合や他の業態、人口の減少、景気の低迷もあるのでしょうし、コロナの波で化粧品も大苦戦はあったでしょう。駐車場を見ればその衰退はわかります、休日の夕方近くで、停まっているクルマは2~3台、かつては休日だと停めるのに苦労をしたあの駐車場がと信じられない様子でした。
 店内も従業員は探さないと見つからない。かつてリーダーや、マネージャー。バイヤークラスの社員がいたのに、今やパートさんと従業員(薬剤師や登録販売者)の二人で広い店をツーオペ、かつてスキンケアの診断やお手入れをやった美容ゾーンはカーテンで隠されたままです。
 アイデアマンが豊富で、季節感のあった品揃えと、それをアピールするユニークな手作りPOPが所せましだった頃とは、比べようもなく無機質でした。

 10分も歩けば東西に大型のモールがあり、またそこに競争があり、その近くにモータリゼーションに置いて行かれたローカル鉄道の駅があります。その駅は100年以上の歴史を持ち、かつては商人の街の発展に寄与し、出征兵士を見送り、今も独自のペースで通学の高校生や観光のお客さんを乗せガタゴトと電車を迎えています。
 時代、時の流れは残酷で、元に戻れそうで決して戻れない、思い返すこともつかの間の郷愁に過ぎないのです。

六道まいり

 京都市内というと、今は年中観光客、外国人も増えて、神社仏閣も歳時記も分からずに映えるスポットにだけ夥しい人が集まっています。
 祇園祭が過ぎると。本来京都は静かになりお盆で先祖を供養する準備をする時期です。
’京都では「六道さんまいり」と呼ばれる盂蘭盆を控え8月7〜10日の期間において、精霊(御魂 みたま)を迎えるために「六道さん(六道鎮皇寺)」に参詣する風習があります。 別称を「精霊迎え」といいます。
 「六道」とは、仏教の教義でいう地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道(人間)・天道の六種の冥界をいい、人は因果応報により、死後はこの六道を輪廻転生する(生死を繰返しながら流転する)といいます。
  この六道の分岐点で、いわゆるこの世とあの世の境(接点)の辻が、京都市内の東山区、花街の宮川町から松原通に入り、東大路へ続く、上りの坂を少し過ぎたあたりが「六道の辻」とされ、冥界への入口とも言われています。

「六道さん」で先祖の霊を迎えるために「迎え鐘」を撞きます。そうして、眠っておられる先祖の霊を起こすのです。そうやって呼ばれたご先祖の霊は「お精霊さん」で、「精霊迎え」と言われる所以です。槙の葉に乗ってあの世から帰ってくるとされ、境内で槇の葉が売られています。
 お盆の間、仏壇に槇の葉や野菜、精進料理をお供えして、里帰りご先祖様とわずかな間、一緒に暮らします。「お精霊さん」は16日の送り火によってまた冥界に帰られるわけです。
 今は大文字をはじめ五山の送り火だけが、夜のイベントのように賑わいますが、精霊迎えがと対を成すのが送り火なのです。お盆の神聖で厳粛な行事で、ホテルのラウンジから飲食しながら眺めるのは本来違うのです。
 今年の大河ドラマでも出てきましたが、平安京の東の墓所であった鳥辺野に至る道筋にあたり、この東山松原あたりで「野辺の送り(のべのおくり)」をされたことにより「六道」冥界への入り口が定説となりました。
 昔の方の方が、仏教を信じ、先祖を敬い霊界を信じ霊的な力が強かったのかもしれません。

広島原爆投下から79年、かつて狂気の舞台があった

原爆を落とす日 「いつか、、、」#つかこうへい – 天使の星座 (seizafpkotodama.com)

 3年前につかさんのことも含めてこの舞台、ホンについて書いていました。
 学生時代だから1979年に観た、つか芝居から45年?経っていることにびっくりします。
 風間杜夫さんは、いまどきでいうイケメンで若い女の子にキャーキャー騒がれていました。そういう面では、つかさんの狂気のような芝居の本質が多くの人に受けていたのかどうかは微妙です。風間さんは定番の熱海殺人事件、この後、鎌田行進曲の銀ちゃんも代名詞となりますが、「広島、」の白系ロシア人、ディープ山崎が当たり役であり極めと思った当時の演劇ファンもコアにいます。


 当時原爆投下から34年の経過した戦後だったのです。今、細々とも被爆の恐ろしさなど語り継ごうという人が、激怒するような過激な内容でした。
 マシンガントークと言われた、その一部、愛する女性ひとりのために故郷・広島に自ら原爆を投下し、市民40万人の命の犠牲も止む無しというところまでエスカレートする奇矯な情景は、とても文章では表現できません。歴史を相手に狂気を仕掛けるような、それでもその無謀な中に愛が表現されているのです。
 広島に原爆を落とすに匹敵する愛?物議を醸しても、そんな人間的な表現があればこそ、今日のブログで熱く語り継ぎたい話なのです。
 舞台も、小説も時期などにより、内容、人物設定も変わっています。しかし、差別を乗り越えた愛の力が、40万人の命よりも重いという、逆説的で狂信的な愛は変わりません。そんな狂気があったのだとうろ覚えで語り継がないと思います。
 広島にアメリカが原爆を落としたことは、きれいごとではない深い罪です。だからこそ、それを愛ゆえの行為と芸術化するというつかこうへいの才能はやはり非凡であり、時代を超えて批判を許さない荘厳さがありました。