夜汽車 『どうにかなるさ』死語になりそうな旅へのロマン

厳密にいうと寝台列車は、特殊なリゾート列車以外はほとんど廃止され、飛行機や夜行バスに代替されました。夜汽車という定義は、夜を走る列車ということなら、通勤電車でも日が暮れれば夜汽車ですがやはり長距離の旅に出る夜行列車のようです。

 唱歌や昭和のJPOPには唄われた夜汽車。青雲の志で故郷を離れたたり、何らかの事情で人や土地と別れるため夜汽車に乗り込む情景があります。
 自動車、夜行バスや新幹線とはちょっと味わいの違う言葉です。仕事に疲れてふと通勤電車の横にブルートレインがあると、あれに乗って遠くに行きたいと若い頃思いました。

 旅の仕方も生き方も安全で確実なものに変わりました。1970年ごろのかまやつひろしさんの名曲『どうにかなるか』の出だしは『今夜の夜汽車で旅立つ俺だよ あてなどないけど どうにかなるさ、』というので始まります。
 有り金はたいて片道切符を買う、住み込みでも何でも働き生きていけた時代であり、そういう自由で大らかな人が多かったのでしょうか。

 どうにかなるさは、現代人に夜汽車とともに持ち続けて欲しいフレーズです。

熟年結婚と離婚

 もう十年以上前の話で、不倫とかではなく、何となく通勤帰りでよく一緒になった大阪時代の既婚女性がいました。事務系の女性だったとしか、記憶がなく今はもう名前はおろか顔もうっすらしか思い出せません。

 ホンの数回、電車のつり革を掴み横に並んでお互いの仕事や家庭の愚痴を話しただけの仲の人でした。ただ気が付けば話が弾む、お互い既婚ながら、まあそこそこ好意は持っていたような雰囲気はありました。

 ある時、熟年離婚の話になりました。なぜそんな話が出たのかというと、たぶん仲間の誰かがそうなったからだと思います。その時、彼女がしゃべった話は、『それはもう離婚は誰でも考えたことがあると思う。お互い結婚生活にはマンネリし、幻滅し、失望していると思うけど、いざ離婚となると、お金も手続きも世間体も、ただ面倒臭いし、パワーもいるし、お金もいるからしない方がラクですよね』というような内容でした。『犯罪的な暴力や勝手に大きな借金したとかでもない限り離婚はないでしょうね。普通は』
 比較的、清楚で良妻賢母的なタイプに見えるその人から出た本音なので、頷き共感しながらも少し驚きました。

 最近の熟年の同年代の話を聞いてるとまさにそうです。しっかりした家同志で結びついた我々の年代の結婚だととくにそうです。お金持ちで良く働いた亭主がそうそう捨てられることも離婚を切り出すこともないでしょう。やはり遊びすぎで、金や他の女、暴力がちょっと度が過ぎると離婚に近い状況に行くケースを知っていますが、芸能界なみには高校、大学の友人や同期入社の同僚など一般には離婚をそれほど見かけませんでした。
 ただ芸能人なみの『美』の世界の化粧品会社の美容部員さんは、若気の至りで結婚してすぐわかれるという、違うパターンもありました。職場的な差別になるといけないですが、ある意味美しいということはそれで人生勝負かけてるわけで、素晴らしい反面、家庭的ではない人もおられ、またその美が年齢を重ねると微妙に変化するのが、芸能界と似ていました。美だけで相手を好きになり、末永く家庭を持とうとする夫もまたどこか幼稚で身勝手だったからです。

 結婚はある面、他人との共同生活で、根競べです。

 情熱的な恋愛と、プロポーズから、華やかな結婚式で誓ったはずです。しかし恋愛はいつか冷めるものです。病める時も健やかな時も相手の気持ちを考え、自分を少し我慢する忍耐を覚えないと長くは持ちません。

 ある日、件の女性、電車の中で、夫の仕事で島根に引っ越すから会社は辞めると突然話してくれました。またねと降りる駅で挨拶しようとした別れ際でした。『もう井上さんとおしゃべるすることはないですね。またどこかで会えたらいいですね』
 まだLINEとかが一般的っではない時代なので、通勤電車の彼女とは、本当にそれきりでした。熟年離婚の話を、もっと書こうと思ったのに、何かその人のことが急に思い出されて、今どうしているか島根のどこだか、名前すら思い出せないので、何だかもどかしいものです。一期一会がほんの数回で揺られる電車の中での会話で、幸せにしておられることを祈るだけです。

昭和は遠く3 #大学ラグビー #実業団駅伝 #ノンプロ野球

いまだに私は出身大学のラグビーと長年勤めた会社の陸上部の駅伝が多少は気になります。  令和も5年となるニューイヤー駅伝では、会社名が変わり、隔世の想いです。
 そう、かつてマラソンの伊藤国光や高岡俊哉を擁したカネボウ陸上競技部は花王陸上競技部となります。

 私の出身は同志社大学で、卒業する前の冬に初めて、1年生の平尾誠二らを擁してラグビー大学日本一になっていました。3連覇を達成した、関西の強豪なのですが、それはとうに昭和の話で、令和になって関西リーグでも苦戦が続き、全国大会では関東の強豪には大差で完敗しています。アメフトはレイプ事件を起こし、どうも出身校の体育会はイマイチな令和です。
 ラグビーのトップリーグは何度の改編されましたが、大学ラグビーの組織は言いも悪いも昔のまま、関東は伝統の早明を中心に排他的な対抗戦グループと、リーグ戦グループの構造です。
 社会人になれば、どんな偏差値の高い名門でも、ビジネスにおいてはどこの大学を出ようと関係はありません。出身大学で勝負できるのは、よほど大学愛の強いOBの経営する中小企業ぐらいでしょう。「お前〇〇大学か、それじゃ商談成立や」なんてことはビジネス社会ではありえません。ただ学閥とか一部の体育会系のOB繋がりというのは、排他的でもあり、それなりにビジネスにつながるような、コネクションがあるようです。能力とは関係ないので、どうも合理的ではありません。企業不祥事に繋がりそうなパターンです。

 カネボウの名前はかつてはバレーボールでも強豪だった時代もあり、入社前に解散はしましたが、戦前敗戦後の昭和30年代にはノンプロの野球では都市対抗を制したオール鐘紡という超強豪チームも持っていました。
 21世紀前に運動部はおろか、実質カネボウは解体し、消滅してしまい。今は花王傘下の会社としてメーカーとしての名前はわずかに残りますが、すでに私が在籍した最後の数年は営業も花王グループ会社の名前で、カネボウの社員も花王の名前で仕事をしていました。健康保険も花王となってしまい、陸上部が消えると組合員の労組に(株)カネボウ化粧品が残るぐらいです。企業年金も最古の鐘紡厚生年金は消え、花王の企業年金とカネボウの厚生年金のねじれ状態で残っています。
 戦前最大の民間会社で、戦後も化粧品を中心に世間によく知られた会社の人間にとって、昭和は遠く霞み、激動の平成も終わり、令和で1ブランドとして存続するのを見守るのみです。多くの売り場では、ソフィーナとカネボウが同じ美容部員が、販売や商品管理をしています。かつて新規参入してきたライバルでしたか、隔世の感です。 

ドスコイと呼ばれたOさんの思い出

写真は関係ありません

 ドスコイというと日本プロ野球西武ライオンズの主力打者で体格の良い山川穂高選手が、ホームラン後のパフォーマンスが有名で、彼の愛称でもあります。
 今日紹介するのは、山川選手でもなく、力士でもない、化粧品会社の女性です。(時々、若干はプライバシーもあるのでぼかし、修正しながらその人との軌跡を紡ぎます) 

 いろいろな人に出会った会社時代、個性あふれる人、いやな人物もいれば、尊敬できる人もいました。紹介したくなる偉い人も、反面教師もたくさんいます。

 別の小説やドラマや映画の創作を見ていて、奇跡とか奇矯な現実離れした話、それでも運命の気まぐれにほろっとくるような物語はありました。
 現実の出会いも平凡な市井の人だけど、こういう人生もあるのかと思いました。
 

 ある県で、結構イケメンで仕事もそつなくこなす男性社員がいまして、その妻となったのが彼の配下のチームにいたまとめ役的なリーダー、「ドスコイ」ことOさんでした。
  私が夫君の方と先に、彼が転勤後に同じ支店のエリア、部課で仕事をしてました。イケメンの彼がなぜ、ドスコイさんを選んだのか、周りの女性からも不思議がる感じを伝わっていました。私は一体どういう相手なのかと思っていると、しばらくして逆に私が彼女が残っていた県の支店に配属され、彼女の上司となる縁となりました。

 初めて歓送迎の宴で現れた彼女は、歩いて来て座るのに「ドスコイ!」の声がかかるほどのまさに恰幅の良い、女相撲みたいな丸い体形の女性でした。

 いったいイケメンのO君が何でこんな女性をと正直私も思いました。当時まだ私は独身でしたが、どうしても女性の外見へやら学歴などの思い込みが強く婚期が遅れていました。

 いざ、彼女と仕事をしていると、パソコンなどは全く苦手で不器用ではありましたが、人間味はあり、とにかく食べるのは大好きで、当時多かったチェーンのファミレスの安いバイキングへ行くときは本当に嬉しそうにルンルンしてました。

 だからと言って笑顔が可愛いほどではなかったですが、無邪気で素直な人間なのはよくわかりました。

 旦那のO君曰く、「女の顔や外見なんか、夜、真っ暗になったらわからへんし一緒や、まして10年も20年も経てばオバハンや」でした。
 美人は三日で飽きるとも言われますが、化粧品の会社でので美しい女性は沢山いて美貌を武器にさまざまな権謀術策を練る人ばかりでした。そんな中では癒しのような、ほっこりさせるような人でした。

 全国転勤の多い会社なので、その後Oはずっと単身赴任で、母点の支店を離れられない奥さんのドスコイさんとは離れての結婚生活が続いたようです。離婚になるケースも多いパターンながら、子供はできないまでも、連れ合ったまま熟年を迎えました。

 晩年はドスコイさんは脳梗塞を患い、Oは介護もあり早期退職制度で退職金を多く貰う方に決め、私より一足先に会社を離れました。単身赴任の別居が終わると、苦しいような介護の夫婦生活だったようにも聞きます。子供がいない分、お金も貯めて、Oだって単身赴任時代にイケメンだから、女遊びくらいはしたでしょうし、悠々自適にアウトドアや愛車に注ぎ込んで楽しくやっているとの話もあり、詳しいことはわかりません。

 退職してからOの同期から聞くと、やはり奥さんは亡くなったとのことでした。何か悲しい運命のような夫婦に思えます。何だか若くして命を亡くしたドスコイのことは切なく可哀そうにも思いました。今はそのファミリーレストランのチェーンもすっかり閉まってしまい、安いバイキングは無くなりました。

 ルッキズムの時代で、映像にもイケメンと美人ばかりで、それでも世の中にいろいろそうでなくとも運命を受け容れて、歩んでいる人はいるでしょう。

 楽しく人一倍ご飯を食べたドスコイさんが短くともいい人生だったと思いたいです。

シニア向け男性化粧品

 昭和57年に化粧品を中心にした会社に就職しましたので、愛社精神というかまあノルマもありさんざん自社の化粧品を使い続けました。

 カネボウの男性化粧品というのは、もう今や細々となり、それでも根強くオールドヘビーユーザー向けに作り続けてはいます。男性化粧品の市場はいつの頃からある程度の若い年代向け中心に資生堂とマンダムに席捲されてしまいました。

 ギラギラした整髪料と、鼻にくるキツイの臭いのブランドはアイテムも含め老人向けという感じでしょうか。香取慎吾が10代の頃、若い世代だと思っていたSMAPも解散し、その下のV6が40代のアクティブエイジ向けという、ニベアメンのCMをやっているのですから、時の流れは早いと思います。

 花王もマンダムも40代、50代を狙った、育毛を含む男性化粧品を結構売り出しています。ある程度お金を持った世代で、対外的な仕事のためにもアクティブで若さに拘りたい心理にミートしています。

 現役をほぼ引退しているような昭和の世代でもやはり多少はルッキズムを気にするのでしょう。

 昭和のオヤジ世代にとっては、今年も訃報が心に沁みます。アントニオ猪木もとうとう亡くなりました。
 それでも生き続ける60代、70代も肌を若々しく保つ化粧品は、ぜいたく品か微妙なところです。

ザリガニの鳴くところ 映画と小説レビュー     思い出した自然観察の女子大生

今時欲しがるのかな

 写真は全く関係ありません。

こっちですね

 先日、映画化されたので、映画を見て、またさっと読み直しました。いろいろ違う点もちろん2時間くらいの尺に収めるためのカットやオリジナルもありますが、大筋や結末は同じです。

 以下(多少ネタバレあり)

 衝撃的な結末とはいえ、まあ完全なミステリを標榜しているわけではなく、伏線はあってもそもそも犯罪の状況とされる手がかりは全部明示されてはいないので、衝撃ラストはあくまでも自然、動物としての人間の本能的行為だという、カロライナの自然とそこに生きる湿地の女とうテーマによるものです。

 自然の美しさ、厳しさとともに、DVや差別、恋愛、法廷劇、いろんな要素が美しい自然と、難しい人間という生き物を彩ります。

 これ以上は映画鑑賞、もしくは原作をお読みください。残念ながら、全米で売れて、日本で本屋大賞でも洋画は有名なシリーズでもないとなかなか長い上映期間は難しい。分厚い原作ですので、そのうち無料配信が出たらお見逃しなくというおすすめです。

 自然に生きる女性としては、東日本大震災のボランティアで知り合った女性を思い出しました。奥松島から浦戸諸島で蝶の生態観察の大学研究生らのチームにボランティア入った時の女子大生です。蝶の観察、採取は応援で専門は「カエル」だということで、歩きながらもカエルのいそうな水田や小川には、寄り道して捕まえておられました。しかも器用に縛りポーチのようなものにいれて十数匹ぐらいは宿に持ち帰り、ケースにうつしていました。
 蝶やトンボでもマニアックですが、カエルとなるとドン引きしそうな人も多いでしょうが、この女性は喜々と作業をしておられました。真夏でしたので、もう顔は真っ黒ですが、化粧でもして垢抜ければ可愛い感じなのに、何故カエルなのか、不思議というか不気味な感じでした。

 セミやゴキブリでさえ号泣して触れない、虫など生き物大嫌いで田舎ぐらしなど絶対嫌がる、ウチの連れ合いなどとはもう真逆もいいとこ世界が違うような人がいるものです。

 あれから数年経って、彼女はその後も研究を続けているのか、犯罪にでも巻き込まれているのか、平凡に卒業して働いているのか、結婚したのか、「ザリガニの鳴くところ」を観ていてふと思いだしました。

カラオケでストレス発散

カラオケと言えば昔は、2次会とか3次会の定番コース、バスの中とか、あるいは少し大きな家でマイクと装置のあるところで宴会などでの余興でした。

 一人でカラオケとかなると、変人のような感じでしたが、今は小さなボックスが増えました。練習というのもあるのでしょうが、バッティングセンター並みに、気分転換やストレス発散の憂さ晴らしに唄いまくる人も多いようです。

 コロナ禍でとくに宴会は減りましたので、カラオケで歌を披露する場面は減ったでしょうが、少し収まると今の世代は結構集まるようですし、また年配でもいろんなジャンルの唄を知って歌いたい人も多いようです。

 かく言う私も歌うのは好きです。昔は2次会などがそれこそ多かったので、お酒が入ると人が変わるとか言われましたが、アルコールが全く関係なく歌いたかっただけです。
 一人カラオケの場合、他人の番を待たなくて気も使わないので良いです。ただ一人で歌うのは、時間がもったいないため一気に連続になりますから、相当疲れます。まあそれがストレス発散なのでしょう。

風情ある銀山温泉と 大人のコイバナ

山形県観光公式サイト

 全国旅行支援が始まりました。「全国旅行支援」とは、旅行代金の割引や、地域クーポンの付与による「全国を対象とした観光需要喚起策」のこと。新幹線やフェーリなどのチケットと宿泊施設がセットになった「交通付旅行」は、割引上限が高くおすすめです。平日に行けば最大で11,000円もお得になります!宿泊施設とセットなら新幹線やフェリーなども割引が適用される旅行会社や旅行予約サイトが提供する、新幹線や飛行機、バスなどといった交通手段と宿泊施設がセットになったパッケージ旅行も割引の対象。宿泊施設だけの単体予約よりも割引上限が高く、遠出をしたい方にはもってこいの割引支援です!

 ほとんど宣伝になっています。えーと、関西の人とか、首都圏、中京圏の人も東北、山形あたりはちょっと遠いイメージもありますが、それだけに沖縄や北海道だけでなく、この機会に一度旅していただければと思います。北欧とかイギリスとかに住んでる日本人の友人がに日本は暖かいとか言わはりますが、日本は南北に長く四季があり、寒さも厳しい地域もあるのです。そんな東北の山形県銀山温泉、温泉地の情緒としてはイチ推しです。
 秘境ほどではなく、近代的などでかいホテルもなく、大正から昭和をイメージできる木造の建物が多い。草津や水上、西日本のイメージだと道後や有馬、城崎あたりをもう少し鄙びさせた感じで、冬は特に雪見の温泉になる確率がぐっと高まります。何せ日本海側の県ですから、

 私が仙台で仕事していた頃、取引先のバイヤーにこの温泉の情緒を台で仕事していた頃、取引先のバイヤーにこの温泉の情緒を教えてもらいました。
 もう20年以上前で、その人はまあ不倫旅行によく利用していました。
 まあ当時のモラルというか、コンプライアンスがそう厳しくなかったのか、彼曰く「私は自分に妻も子もいると堂々と宣言してからしか付き合わない」と明言なのか助言なのか教えてくれました。「君もこう言った方がモテるし、トラブルにもならず遊べる」と教えてくれたようです。
 決してイケメンというタイプではないですが、夜の街では口もうまく面白い方なのでモテたのでしょう。
 仙台の国分町という歓楽街で真夜中を通り過ぎて、朝方まで開いている水商売の女性が仕事を終えてリラックスしてお酒を飲むような店で、豪快で面白い飲みに付き合いながら、聞いたお話です。ちなみにこの接待なのか遊びなのか、当時化粧品ブランドKATEの販売台を180店舗に導入するという話を、国分町のお姉さん10人中過半数が知ってる使ってるという賭けみたいなことをして、見事に商談成立させました。
 そこに登場する女性たちも、若く派手に着飾りながらも、仕事を終えどこか疲れたところが、昭和末期のJPOPか演歌を思わせる感じでした。
 私も山形、酒田と出張があった時、一度だけやり繰りして、銀山温泉に泊まることにしました。
 12月で雪も積りだし、とても幻想的な街並みで、寒くても浴衣に丹前を着て少し歩いてみたくなりました。千と千尋のモデルにもなった?とも言われたタイムスリップするような、そんな感じです。建物は伝統的な「木造多層建築」というものです。
 タイムスリップというのは、超常能力ではなく誰にもできるものと、その時わかりました。
 その一晩だけ、私もSFのような、童話のような、ハーレクインロマンのような夜を過ごしました。(大人のコイバナはここまで、令和の倫理観)
 
 銀山温泉は、銀山川の両岸に大正~昭和初期にかけて建築された洋風の木造多層建築が立ち並ぶ、ノスタルジックな街並みが見どころのひとつです。
 もちろん、ご夫婦、ご家族、仲の良い友達同士でぜひ訪れていただきたい温泉です。

人権の時代と言われながら枕の話は尽きない

 このところ、少し大人向けのアブナイ話が多いかもしれません。しかし世の中の裏側とは、そういうものなのかとも思います。
 女性の多い化粧品会社にいたということで、多くの美容部員さんや女性の営業さんと一緒にし、主に管理をやっていたわけで、いろいろと大人的な話はあります。

 最近は、コンプライアンスとかジェンダーとかもういろいろ発言に制限がかかる時代です。「枕営業」という慣習が、女性の人権が守られるはずの時代にと書きかけると、これも女性だけではないと叱られそうで、タイトルも変えました。
 一般的には女性の枕?セックスを条件として仕事を貰うとか、昇進やポストを得るため、あるいは男性が主導する場合もあります。男性が女性上司にという場合もあれば、男性同士女性同士という場合もあるのでしょうが、一応私が見聴きした範囲にはあまりありません。

 今でのそんな悪習が残っているのはヤクザな芸能界ぐらいだと言われそうですが、まあ人間は弱くその欲望と狡さのようなものはどこでもいつでも変わらない気がします。どのような組織にもそれに近い営業はあるようです。

 悲しい性というのかな、私もある地区の担当をしていた時、トップが変わるごとに取り入るタイプの女性がいました。ただ媚びるだけという範疇を超えて、他の女性からはいろいろ「部屋の出入りしていた」などの噂を聞きました。
 いつか、その人も年齢などもあり「こういうスタイルを止めたい」と呟くような相談を受けたことがあります。しかし、やはりそれはできずにずっと同じように年齢を重ね、外見を保つためにお金をかけ続けているような感じでした。

 男性、女性どちらがいい悪いというものではないのですが、そういうことなしに仕事をしているものにとっては、何とも一緒にされたくないというところでしょうか。かといって、そうやってのし上がった人もいい仕事をする場合もあります。
 私も魅力的なルックスの異性には第一印象で好感を持ちますが,他方コツコツと良い仕事をする地味な外見の人も多いので難しいというか、そういっても怒られるのが現代なのでしょうか。

 芸能界は違うというか、そういうものをあるのが、当たり前で分かって大金を稼ぎ、それを一般の人が見ているのだという考えもあります。
 不倫などのスキャンダルには厳しく、人権や倫理、道徳を報道する側の放送局が、ドラマの役を決める際にそういうことがまかり通っているのは、滑稽なものです。

電卓ワザに長けたB野君、借金まみれのA田氏ら同僚と過ごしたバブル期

1980年代後半、バブル期と言ってもパソコンはまだ、会社でも一人一台ともいかず、まだ電卓やワープロの時代でした。

 化粧品メーカーの現場で販売の部門にいましたので、売上の予想や集計には電卓をたたいていました。
 B野君は転職組で過年度の入社ながら、やり手で一気に当時のロートルメンバーを脅かし、陰の実力者と言われた後の経営幹部となるN課長に取り入り、管理職目前まで登り詰めていました。今ならパソコン、その当時より少し前なら珠算、算盤なのでしょうが、彼の電卓をたたく術はとにかく早かったでのです。コツや技術と手先の器用さもでそうが、パソコンならブラインドタッチ(タッチタイピング)のような鮮やかさでした。

 対照的にA田さんという人はもうそろそろ同期が経営幹部や支店長になるとかの話もチラチラ出る中で、まだ課長にもなれず、売上成績はドル箱を抱えてそこそこながら、その仕事ぶりや私生活は借金や女の問題などひどいものでした。

 この二人とは少し距離を置いた関係で、工場経験ありの変わり者S古氏と、ベテランP府氏、私の3人がN課長の派閥に入らず、反主流派で村さ来とか安いところでよく呑みに行きました。

 シャープで時に豪快でいい仕事をしていたB野君ですが、私の転勤後数年して、不倫相手の女性が自殺したということで、職を追われたと聞きました。当時N課長と対立するパワハラ気味のトップが君臨して、別部門の責任者M杉さんはノイローゼになり首を吊った。B野君は直接、自殺には関係してはいないのですが、自分には奥さんがいながら付き合っていたことは公然と知れていたので、スケープゴートになった感じです。
 私は当時独身でしたが、離婚経験はあるけどM杉さんは美しい方で憧れていました。一度二人で美術館に行ったことがありましたが、それ以上何もなしで転勤しました。当時からB野くんとは付き合っていたようで、まあ馬鹿な役回りでした。しかし死んでしまったとなると、ちょっと何かできることがあったのではないかとしばらく後悔していました。

 A田さんはその後、借金まみれで懲戒免職、離婚後、身投げしたそうです。P府さんは早期退職でリストラを受け容れ、仏壇屋の営業をしたあと、職を転々とされていたところしか聞いていません。S古さんはついに定年までも、役職にはつけず現場のままで、すでに管理職になっていた私の地区にも挨拶に来ましたが、あまり同席する気にもなりませんでした。

 私はどこかで、先に出世しそうだったB野君の電卓術にライバル心を覚え、パソコンが導入され、エクセルなどで表計算ができると意地でも電卓を一切使わない仕事を習得しました。後年パソコンの中に電卓ソフトやテンキーでも電卓替わりになるのが出ますが、何だか電卓には良い印象はないのです。
 M杉さんと行った美術館は「ダリ」だったとだけ覚えています。その後フレンチも食べたはずなのです。年上でバツイチではあってもそこは気にしないくらい美しい方でした。けれどどこかでほんの少し感性が合わないようなところがあり、負け惜しみですが、それがこちらも強引にならなかった点です。
 結局、あの当時の部署の5人で管理職、支社幹部になって生き残ったのは私だけだったのは、本当に偶然、運命はわかりません。
 若くして亡くなったM杉さん、A田さんともに北陸、福井県の出身で、カニなどを小さい頃は安くいっぱい食べたという話も妙に覚えています。