リニア、整備新幹線 日本の未来へ1

 先ごろ北陸新幹線が金沢から福井県敦賀まで延伸しました。リニア中央新幹線の工事も静岡県知事が反対していましたが、辞任されるということでようやく活路が開かれつつあります。
 静岡以外の品川、神奈川、山梨、岐阜、愛知は実はリニア工事はそれなり始まっています。静岡の問題を何とかクリアして私が生きているうちに、できれば大阪までの開業をしていただき、見たい乗りたいものです。
 とはいえ、その開業はいったいいつになるのか、静岡工区に限らず始発駅の品川や名古屋、新大阪などの大都市周辺でさえ、地震国の日本で険しい山をトンネルで抜け、大深度から一気に地上に出る工法が成功するのかもまだ予断は許さないところです。
 駅や正式ルートもまだ、名古屋以西、大阪までは確実なものではありません。さすがに京都市はあきらめましたが、奈良にできる駅はどのあたりか既存のどの線につながるかそこからどうなるか不明です。
 京都在住の私としては現実的にほぼ見られそうなのが、2030年過ぎの品川~名古屋開業だとして、東海道新幹線京都から名古屋でリニア乗り換え、1時間10分程度、これが最速最終形に近いのではと思います。
 京都から東京に関して、ビジネスや観光含め、あとは乗り換えなしの現存の東海道新幹線で富士山を見ながら観光色豊かな列車で2時間30分。奈良に駅ができたとしても、京都~奈良は単線区間もある在来線にスーツケース持ってか、私鉄の近鉄でしかもターミナルとして新設駅のようで不便そうです。そもそも奈良に止まるリニアは山梨や岐阜にも止まるリニアの「こだま型」で本数も少なく遅いもので、京都~奈良を在来線経由していては名古屋乗り継ぎよりも不便そうです。
 あとは新大阪までの本数の多い「のぞみ型」の最速リニアで、新快速などで京都に戻るのもありそうです。
 リニアに寄せる期待はさまざまです。

 他の整備新幹線とともに、内容が長くなりますので詳しくは次の機会にします
 現在未成の整備新幹線が3つあり、ここも並行在来線や環境アセスメント、地元の反対など大きな課題を抱えています。

 日本全国に高速鉄道と高速自動車国道をという主張を日本列島改造論で唱えたのは1970年代の首相田中角栄でした。彼の地元新潟は早々の上越新幹線が通りましたが、いまや日本の地方は首都圏一極集中でどんどん過疎化が進む、少子高齢化とともに衰退し、消滅が囁かれる自治体も増えています。
 何とかその辺を、新幹線開業や在来線の維持から可能性をさぐりたいです。

 

衣替え 簡単、感動パンツ

 関西当りだと、あっという間に真夏の暑さと梅雨の蒸し暑さが来ますから短い春の時期の着るものは難しいです。
 出番も短いのであまりお金もかけたくない人もいるでしょうし、忘れないうちに引っ張り出しておかないと忘れそうになります。
 比較的、イージーでもジャケットを着れば見た目普通?今宣伝中の量販衣料大手のパンツを買いました。しかもめんどくさい裾直しもせず、ウエストもレングスもぴったりを選んでゲット。
 4,000円前後は紳士服専門店のほぼ半額、あとは上半身だが、ジャケットはセットアップを選ぶと合計1万円でスーツっぽくなるが、逆に他のシーンで使えない。

 シャツは7分袖が、店頭では少ないのでネットで2枚購入。夏物の白は襟元が汚れが目立ちやすいので、シンプルで派手でないグレーやブルーの色物にしました。7分袖は置いているところが少ないですが、まくれば半そでなみに涼しいし、露出する肌が少ないのでエアコン下や梅雨寒の時でも寒くなく、真夏の紫外線も少し抑えられ体調維持しやすいです。真夏でもかえって涼しく思えます。それと半そでのカットよりもオシャレに見えます。

 思い思いに快適に季節のファッション、いでたちを楽しみましょう。

公務員共済はなぜ別物なのか

 私も 社会保険の仕事をする前は良く分からなかったことが多いのですが、一般の方も誤解されている方がたまにいるのが国民健康保険、国民年金と公務員共済のことです。
 国民年金と厚生年金、国民健康保険か協会健保・組合健保と書かれていると、「国民とつくから国がやっているのだろうから、私の夫は国民〇〇の方だろう」や「会社で入るのは厚生年金だから私の父は国民年金かな」という誤解です。
 まずはざっくり、国民年金や国民健康保険は、自営業、農家、フリーターなどサラリーマンや公務員ではない人が入る国が運営する制度です。会社に勤めているサラリーマンは年金制度は厚生年金で、健康保険は大企業は組合健保、その他の企業は協会けんぽです。公務員が入っているのは、公務員共済という制度です。言葉としては共済イコール保険ですが、この公務員共済には「年金(長期共済)」「健康保険(短期共済)」「雇用保険(退職等年金)」が含まれています。
 社会保険の知識やら質問の選択肢が足りないのと共済組合という言葉がやや難しいからの誤解も多いです。
 さらに、年金は最終的には一元化されたと言われ厚生年金と同じよう受給期間を計算されるので、国民年金と対比して言えば大まかには厚生年金のグループですからややこしいです。1階の基礎年金の上にある2階建ての部分です。また年金と雇用保険の共済は、パートでは入れない制約もあり公務員でも契約社員は「雇用保険あり、厚生年金」という場合があります。健康保険は共済の場合と協会けんぽの場合があるようです。
 公務員共済に加入できるのは原則、完全フルタイム勤務の公務員
厚生年金に比べ、公務員共済の加入要件は独特のものになっています。
厚生年金では、
①1日又は1週間の労働時間が正社員の概ね3/4以上であること。
②1ヶ月の労働日数が正社員の概ね3/4以上であること。
という2つの要件に該当する場合、事業主は従業員を厚生年金に加入させる義務があります。
もっと具体的に言うと、週40時間労働の会社であれば、概ね週30時間以上、週35時間労働の会社であれば、26時間15分以上であれば、厚生年金の加入を考えないといけません。
これは労働契約であって、パートタイマーやアルバイトなど、どんな雇用形態でも、その契約内容の如何にかかわらず、労働時間が上記の基準を超える場合は加入しなければなりません。
しかし、公務員にはこの基準は適用されません。
 先ほど述べた通り、市役所勤務でも厚生年金に加入されている知り合いがいたり、市役所退職後に市役所再就職で「厚生年金扱い」で働いている近所の方がいたりと、公務員共済については私も基準がよくわからない状態でした。
 この12月から私もひょんな経緯で事務補助員待遇から事務官となったため、厚生年金から国家公務員共済となり、年金は共済、雇用保険は外れて退職等年金掛金と呼び名も変わります。

 しかし、この立場でやはり思ったのが、公務員共済と、年金機構のつながりの悪さ、マイナンバーカード制度でデジタル化とも言われているのに連携や記録反映の遅さ、不明さです。
年金機構の人でも、共済に詳しい人は限られるのです。ほとんどの期間が公務員の方は未だに共済組合から請求の手続きをされますし、一時的に共済期間があった方は見かけ上「消えた年金記録」!になりやすいのですが、1年に1度誕生日の前々月には両者の記録の情報を一元化して整合をするのです。しかし、これも60歳まででねんきん定期便に反映させるためで、受給見込みをわかりやすくするためです。
 逆に言うと、公務員に就職した直近はなかなかデータが反映しないのです。公務員はそれだけ秘匿性の高いものなのか、新卒でさえ半年かかるのです。健康保険の方のマイナンバーカード連携も、他の健保や国保に比べ遅いです。国がやっている事業なのですが、このあたりはブラックボックスです。
 感じるのは国家公務員の上から目線です。
 

年金制度ムズカシ過ぎ、停止者には敬意を – 天使の星座 (seizafpkotodama.com)

一期一会の意味

 こんなことなら、もう少しアイツと喋ったりしたのに、、、

 一期一会(いちごいちえ)とは、茶道に由来する日本のことわざ・四字熟語です。
 私は歓送迎会などの挨拶で、好んでこの言葉を使います。大勢の飲み会、数人の飲み会でも、そのメンバーその人とまた同じよう集まれて会話ができるかというと、なかなかそんな保証はないものです。実際の6人以上のメンバーを、同じように集めるだけでも難しいものだと話しました。
 茶会に臨む際には、その機会は二度と繰り返されることのない、一生に一度の出会いであるということを心得て、亭主・客ともに互いに誠意を尽くす心構えを意味するです。茶会に限らず、広く「あなたとこうして出会っているこの時間は、二度と巡っては来ないたった一度きりのものです。だから、この一瞬を大切に思い、今出来る最高のおもてなしをしましょう」という含意で用いられ、さらに「これからも何度でも会うことはあるだろうが、もしかしたら二度とは会えないかもしれないという覚悟で人には接しなさい」と言う言葉通りです。


 還暦を過ぎたら、人生の師や先輩の訃報にも接することも増えます。
 そして、さらに悲しいことに同じ学び舎で過ごした友、職場で切磋琢磨した同年代の悲報も耳に入ります。いくら平均寿命が延びても60も過ぎればいつ亡くなっても当たり前と思っていても、自分と自分の周りだけは違うとバイアスがかかっているものです。

 一生に一度だけの機会「一期一会」という言葉の持つ意味も、自分が年齢を重ねるにつれさらに深いモノに変わってきた気がします。

 千利休の言葉かともされますが、献杯はお酒で。

休日のカフェにて

 先日の休日、京都駅近辺でカフェに行くとインバウンドの旅行者の外国人にカウンターの店員さんがメニューの案内と注文を流ちょうな英語で話しておられました。
 JRや地下鉄の改札も人員は減り、改札での英語案内に苦労され行列ができているのをよくみかけるだけに、外国人が増えて当たり前とはいえその店員さんの発音の良さには感心しました。メニュー内容や、交通機関だと駅や改札、観光情報など特化して英語を学べばそれだけなのですが、リスニングはできても慣れないとTOEIC型勉強の私などスピーキングは難しいです。
 また同じカフェのカウンター席の隣では、若い女性がノートパソコンでWEBデザインか企画書か何かを、多くの素材を次々とサクサク呼び出し、時折考えて試しながらサクサクお仕事されていました。 
 私もビジネスマン時代は、スタバや新幹線でノートパソコンを開いてプレゼン資料を作ってました。
 現在の標準に入っていたり、無料で手に入る素材もテンプレートも10年も経つと時代が違うぐらいに種類も増えているようで、その動きを見るだけで感動するような隔世感を味わいました。
 翻って、アナログな紙媒体が多く、古びたアプリにコツコツ手入力し、集計も初歩のExcelやAccessに垢抜けない作業をやっている公的機関に勤めていることに幸いなのかと複雑な思いです。
 会計なども、不正の監視も含めて、デジタル化を進めた方がよいことは今回の政治家の裏金問題で明らかです。
 役所も早くDXを加速させどこでも仕事できるようにしないと、遅れは取り戻せません。交通機関の駅に比べても、役所などの公的機関は田舎で人口が減っても、支所が無くなり人を減らすことはあまりないです。最近の無人改札のように、本庁からリモート、インターホンで手続きとかは少なく、人を介しての手続きが続いています。高齢者でも携帯やタブレットを使い、動画サイトぐらい見ている時代、民間ではすでにデジタル化で対応していることを役所がやらないのはやはり外国からも遅れてしまうところでしょう。
 それ以前に、この隣の女性ぐらいのスキルの人はたくさんいるのに、足元にも及ばないオジサンたちが国の全てを決めてるのは何だかです。

コイバナ? DV離婚?大阪で酔いつぶれた可愛い人 

 化粧品メーカー時代の大阪での最後に近いコイバナ 都会であることは変わりないのですが大阪の街と京都の街の違いは何なのかと思うと、大阪は関西のおばちゃん含め人が多く、海が近いので川幅の広いこと、あちこちの地下鉄と高架の都市高速が走っていることでしょうか。
 大阪時代に一番美しくスタイルも良かったのは前に書いた伊東美咲似スーパーモデル級のIさんだったとは思いますが、同時期に一緒にお仕事させてもらったOさんは高くとまる感じの無い母性的で可愛い人でした。
 Oさんははじめて仕事で一緒になったのは、応援で行った滋賀県の事務所でしたが、その時の新しい配属で戸惑うとても優しい声で私の名前を呼んで、満面の笑顔で迎えてくれました。色白の童顔で優しい表情なのですが、スレンダーというよりはグラマーという言葉が合うような体系の人でした。男性目線で恐縮なぐらいですが、大きな胸をされていて、歩くと胸も揺れますし、タイトでやや短めなスカートでよく柄のあるタイツを穿かれ引き締まった脚でモンローウォークのように歩く後ろ姿もコケティッシュさがありました。
 仕事ぶりも真面目で献身的で、美容教育のスタッフとして企業相手の企画や商談に現場目線でさまざまな情報を集め、勉強をして考察してくれていました。その相談や提案を持ってくるときの声と表情の愛苦しさには癒されました。
 Oさんの仕事である美容の情報に関して、メーカー主導のヨイショ系雑誌ではなく、私は自分でLDKなどのメーカー忖度のない雑誌やネット記事を共有して密に協力していました。彼女の主宰するセミナーや社内外の教育は好評を得ていたはずです。

 それでも教育スタッフの上司は厳しいパワハラ系の女性、セクハラ系の幹部、取引先もあって大変な面もあったようです。
 ある時は、肝心のその優しい声が全くでなくなり、筆談で過ごしておられるときもありました。その体調の変化は1~2週間は続きました。
 また、ある時な声をかけるにはややためらうのですが、タイツのおみ足に痣のようなものが見えることがあり、「ケガをしたのか」と聞くと、「いろいろな病気と付き合っているんです。気にしないでください」とやんわりと優しい声のままでも毅然と返されました。なぜそれならスカートでなくパンツを穿かないかとも思うのですが、足が太く短いのでパンツスタイルはとても嫌なのだそうです。このあたりの女性のこだわりはわからないものです。
 後で噂のように聞きましたが、OさんもIさん同様に、子供がありながらも離婚されていて、原因は配偶者の暴力いわゆるDVだそうです。
 Oさんの体調不良や脚の痣が何が原因かは訊いていないのでわからないままです。
 ある夏の夜だったと思います。大阪の街で同僚とお酒を飲んでいて店から出てあるいている時、別の女性グループの飲み会の帰り道に遭遇して、大きな声でOさんに声をかけられました。足元もふらつくほど心地よく酔っぱらっていて、私に寄りかかってきました。
 Oさんは他の面々には、私に送ってもらうように告げて、ほとんど抱きついてくるような感じで私に支えられました。
 普段社内では清楚でコツコツと仕事をするイメージなのが酔って豹変した感じで「ダイジョウブ、大丈夫、まだ飲める」とも言いながら呂律もまわらないぐらいですが、しかたなく他の連中とは「お持ち帰り」のような印象で見送られて、もう一軒二人でハシゴ。
 さんざんそこでも飲んで、しばらく中央大通りの高架から、空を見上げながら歩きました。こちらも酔っていますし「大阪で生まれた女」「悲しい色やね」的歌詞で、酔いしれるフォークソングか演歌のような世界です。
 聞いていた法円坂のマンションは御堂筋の本町から地下鉄で終電までは時間もあり、たった2駅です。タクシーには半端な距離ですが地下の駅までの上り下りが面倒です。歩けない距離ではないのですがここまで酔っぱらってる女性をつれて大阪の深夜を2駅間も歩くのもまた何とも微妙です。やはりタクシーかと思いましたが、案の定近場NGで3台拒否、あきらめて地下鉄の駅に戻りふらふらの彼女を引っ張ってエレベーターを探して歩き、何とか肩抱いて改札をのけて電車まで行き座らせると寝そうになるので話しかける。駅につくと立たせて下ろすのが大変で火事場のクソ力よろしくお姫様だっこで抱えながら電車をおりてエレベーターから改札を目指し、ようやく少し歩けるようになったのでマンションまでの部屋まで何とか送り届ける。
 そこでさすがにこちらも酔いも回り、体力もつき、京都まで帰る方法もホテルを取る思いつかないほどで、彼女をとりあえずはベッドに寝かせると、ソファーなのか絨毯なのかにばったりでした。


 翌朝は気まずい「やってしまった」状態で、あんまり何も覚えてない彼女ですが、さっぱりした爽やかな対応でシャワーを用意してくれて、朝食を準備してくれました。
 簡単な朝食をとって、別々に出勤でした。
 それ以降は、Oさんとは少し距離おいて深酒やめていました。
 Oさんは当時のパワハラ上司は更迭されて、その後のポストに就かれ、管理職の道に進まれましたが、その後は知りません。

コイバナ? 仕事のパートナーはスーパーモデル 大阪時代 – 天使の星座 (seizafpkotodama.com)

阪急電車10分間のコイバナ – 天使の星座 (seizafpkotodama.com)

頭の良い人は人生何周目か?天命か

 大手化粧品メーカーを定年まで勤め、その後は年金事務所を中心に社会保障、厚生労働の公務を4年、その後現在は裁判所で司法系と方向の違う仕事をしています。こうやっていろいろSNSでノマドもやっていると「器用ですね」「私は今の仕事以外、他のことはできない」と言われる人もいます。
 今、ドラマなどで流行りのタイムリープものだと、「人生何周目?」みたいに言われますが、自分では不器用というかとてもそんな偉いものではありません。
 医者や学者になったとか、大会社の社長になったとか、司法試験やら難関資格を突破した人を見ると、その記憶の良さとか理解力こそ「前世の記憶」「天命」でもあるのかと思います。あるいは企業勤めから、自営に転じて家業を拡張とか、議員やアーティストに転じている人もおり異能に関心するばかりです。
 私の場合、集中力が長続きせず、記憶容量も小さく、意識が散乱・発散するのでケアレスミスは多いでし、飽きっぽいので2級ぐらいまでの資格が精いっぱいでした。今身近におられる裁判官の方など、日本でも最難関の司法試験に受かり、その中でも難易度の高い裁判官に就かれていることにはただ感心するのみです。もちろん見かけも含めてある意味では普通の人なんですが、やはり「天命」を背負ってなのでしょう。

 私に関しては60歳過ぎての働き方に関しては、特に志が強かったものではありません。ただ、興味があった新しいことに機会があればチャレンジしたかっただけです。その世界に何十年もいる人にとっは新参者でわきまえも常識もないアウトサイダーです。
 それでも新卒からの勤めと違い、ある意味「絶対辞められない」というプレッシャーのようなものは減って、慣れない仕事そのものは大変ですけれども、肩の力は少し抜けた感じの気楽さにはなってきています。
「社畜」とか「仕事中毒」というのは、本当に立場変われば抜け出せないのも良く分かります。私も若い頃、長いこと、クソみたいにブラックな会社で、さらにそんな中でも汚い上司にこきつかわれました。
 時間が限られているのだから、若いうちにもっとうまくやれたこと、主張したり、要領よく立ち回れたのではと思うことはあります。
 お酒の付き合い、ゴルフやギャンブなどの遊びの付き合いも本当に下手で不器用でした。50歳過ぎてから、ようやく美味しい店を見つけることは上手くなりました。
 60歳を過ぎ、転職して全く知らない人の中で、知らない仕事をするのに関しては「面白い」とだけ無邪気に妙にポジティブに進みました。最初は特に失敗ばかりでしたが、それもまた新入社員、雑巾がけを味わう、マゾではないけど、真新しい自分の能力を発見できる楽しみのようなものがあります。
 学生とか、まあ社会人になってもですが、英語とか簿記とかパソコンとか勉強したものを職場で役立てる機会とかシチュエーションは限られます。あっても競争が激しく他の人がやっているとそれ以下のスキルだとか、その組織では永遠にその勉強は無駄になりかねません。簡単に異動なんて無理な場合もあります。
 2周目の人生とか器用と言われるのは私の場合、何となく好きで勉強したり、いつかは役立つと信じ資格をとったり一見「無駄」をしてました。経験して引き出しを多くしていたものが、ここへ来て回収されるように役立っているような気がします。
 取れなった資格の中に「図書館司書」というのがあります。本が好きなので図書館への転職も考えてチャレンジしました。ところが、この資格は簿記や宅建などに比べ合格率は高いのですが、学生時代には取っておかないと、再入学して講義を受けないと取れずお金と時間が必要です。私は本は好きですが、図書館の中の仕事をずっとするのは合ってなかったとは思います。
 これはまあ、運命というのかやはり私にとって図書館は、趣味と勉強、癒しの空間で仕事場ではないという「天命」なのではと思います。

 勉強とか経験、失敗っていいよなあと今になって思えるのです。2周目なのか1周目かそれとも3周目以降かは知りませんが、一度の人生でガチャガチャいろいろできることを辛さも含めて楽しんでいます。
 
 

追悼:伊藤淳二元カネボウ会長  書評『天命』

 

 先日99歳で亡くなられていたという報道があった伊藤淳二(いとう じゅんじ)氏は、私が入社した時の鐘紡の社長でした。1922年(大正12年)中国青島生まれで、戦後すぐの1947(昭和23)年、慶應大学卒業後に鐘淵紡績(カネボウ)に入社され当時のオーナー社長・武藤絲治(むとう いとじ / 1903〜1970)の後継者指名を受け、1968(昭和43)年、45歳の若さで大逆転、クーデター人事で社長となった人物です。カネボウは経営多角化を推し進め、1984(昭和59)年、会長に就任、社長就任のストーリーは城山三郎のビジネス小説『役員室午後三時』 主人公藤堂のモデルとなりました。
 

 1985(昭和60)年の御巣鷹山の日航機事故後、政府(中曽根康弘首相)からの強い要請で日本航空副会長(翌年に会長)に招聘される。わずか1年で辞任しました。この経緯が山崎豊子『沈まぬ太陽』- 登場人物の国見会長のモデルとなりました。だいぶ美化されて、映画では石坂浩二が演じ繊維工場でを自ら糸を扱い差配している場面がありましたが、この当時すでに現場にいるような人ではなく、随分とデフォルメというか男前に描かれ映像化されていました。

 伊藤氏も今ではすっかり過去の経営者扱いですが、著名な作家の小説のモデルに二度もなった人物はそういないでしょう。 屈辱的失敗で日航会長を解任され、カネボウ専任に戻られるのですが、その後も会長として院政をはり、過去の成功にとらわれ傀儡的社長がコロコロ変わるだけで改革が進まぬまま、坂道を転がるように、事実上の経営破綻に落ちます。

「天命」は論語をはじめ彼が出会った様々な含蓄ある言葉を中心に生き方を著しています。多く方の書評や最近のコメントではその中身は古臭いという、褒めていても古き良き時代的なものです。時代としては少しあとになる稲盛和夫の著作に比べても、難解で衒学、知的顕示欲の強さが垣間見れます。
 ちなみに伊藤淳二は、社内で「知命教室」という幹部勉強会のようなもの、論語プラス経営という頭の痛くなるようなのをやっていて、それも社内で冊子が出回ってきて、ヨイショ的な内容が多いのですが、やはり博学であり衒学趣味でした。


「美しい人生とは美しい晩年を送り得る人、人生の一瞬一瞬をかみしめ「今」に燃え、毎日毎日を精いっぱい送る人であろう」という言葉には、大いに共感する部分もあります。

 しかし彼の晩年はどうだったのでしょう。博学でもありますが、稲盛和夫のフィロソフィーに比べると点が線につながらないような少し現実と合わなくなって、経営者としての評価は随分下がりました。
 自己顕示欲が強すぎ、後輩などの意見を受け容れての修正が難しいところがやがて綻びにつながったのではと思います。
 現実の社会は論語に心酔する一流大学出の向学心溢れた人間ばかりではなく、礼節や忠誠よりも私欲が優先するのが通例です。伊藤の思い、考えは本当の意味で浸透するわけではなく、権力者への盲従に支えられていたのかもしれません。

 そして、「未完の如くして完結して居る。果たされない様で果たされて居る。大切なことは、その時、自分の可能性の全てを尽くしたか否かであるように思う」という言葉で『天命』の最後を締めくくっています。
 日航会長時代でミゾをつけ、結局は鐘紡の栄華さえ砂上の楼閣のように崩れ去り、最後は大株主として元経営者として情けないような泥仕合も見せてしまいました。それでも未完と言っている以上矛盾ではないのかもしれません。
 未完であるが一時代を築き、実はそれなりの完結をしている。99歳まで永らえ、目的を果たし得なかったそういう生涯がありかもしれないです。

伊藤淳二と稲盛和夫 日航改革二人の明暗 – 天使の星座 (seizafpkotodama.com)

やはりみんな世間は言いたいことが言えない

  半沢直樹も日曜日夜に、サラリーマンにとっては明日の仕事を思い出しながらもスカッとする爽快なドラマでした。同じ原作者とは言え、女性版半沢直樹で二番煎じのさらにリメイク版で先週から「花咲舞が黙ってない」が放送されています。
 同じパターンで銀行の不正を追及し、主人公は過去の慣習も「できないと思いこまず、誰かが声を上げないと変わらない」とポジティブ名言をし、今流行り「キックバック」も追及します。
 こんなに言えるのは、本当の会社じゃない荒唐無稽すぎるとも言われそうですが、やはり一つ一つのことに、一人一人が「黙ってない」で変えていく速度は鈍り、もしくは止まったままです。
 不正発覚で瀕死の業績にある会社や某国政政党も、何人も出てきた「半沢直樹」や「花咲舞」の話を聞かず握り潰してきた報いでしょうか。
 それを言い出すと、いろんなところで古い慣習を打破できず老害とも呼べる人が禅譲して優待しないで権力にしがみつくことにより、若い人が生き生きと力を発揮できないようになった日本という国の病巣さえ見えてきそうです。
 テレビを見てキャラを楽しむだけでなく、それぞれの立場で正しいことを「お言葉ですが、、」と前置きしても言いやすい場所にしないとと思います。
 

西武大津店の思い出

 西武グループの創業者・故堤康次郎氏の出身地である滋賀県に、県下初の百貨店として1976年にオープン。開業初日は約13万もの人が詰めかけたことからも、県民からの期待がいかに大きかったかがうかがえます。
 先日びわこ博が小学校3年生の時、大阪万博1970年が小学校の5年生でしたから、私はオープン当時は高校生だったのです。
 当時は京都の大丸、高島屋、藤井大丸、丸物といったデパートしか知らず、多層建ての繁華街にある形態ではない西武は新鮮でした。
 高島屋や大丸といった老舗が高級品も扱いながらも、子供向けの玩具売り場や食堂、遊具が充実していたためか、売り場としての西武百貨店はやや物足りない感じもありました。その後トレンディとか言われるブランドが席捲する少し前の話です。
 その後、会社に入り滋賀県で営業にも周り、30歳てま頃、平和堂や当時でき始めたダイエーや西友なども担当した後西武百貨店も担当することになりました。
 今思うと、バンカラな野暮ったい独身でしたが、滋賀で最も垢抜けた商業施設を背伸びして担当させていただきました。
 当時、カネボウ化粧品としても初めてHF(アシェフ)という百貨店ブランドを作りようやくチャネル別流通に力を入れだした時でした。全国的にも百貨店ではそこにしかない外資が強く、そこら中の店にあるカネボウや資生堂は差別化に苦戦していたのです。今では考えられない強引な販売方法のアプローチデモというのが頻繁に行われ、普段は2名体制の派遣でしたが、デモやイベントだと各課の美容部員が動員され、ノルマがかかり大変いキツイ仕事でした。会場の設営、撤去、毎日の朝夕礼もあり休日フル出勤となり、当時会社の拠点は彦根になったため彦根と大津を何度も往復しました。実家が京都なので実家に戻って通えばといわれましたが、大津~京都もハンパな距離で携帯もパソコンもない当時は家に帰ると連絡などが厄介でうまくいかないものです。
 それで実家の電話で長話して、また返信があると取り次いだ母が、「彼女」かと期待した子もいますが、それは全くの誤解でした。