コイバナ? DV離婚?大阪で酔いつぶれた可愛い人 

 化粧品メーカー時代の大阪での最後に近いコイバナ 都会であることは変わりないのですが大阪の街と京都の街の違いは何なのかと思うと、大阪は関西のおばちゃん含め人が多く、海が近いので川幅の広いこと、あちこちの地下鉄と高架の都市高速が走っていることでしょうか。
 大阪時代に一番美しくスタイルも良かったのは前に書いた伊東美咲似スーパーモデル級のIさんだったとは思いますが、同時期に一緒にお仕事させてもらったOさんは高くとまる感じの無い母性的で可愛い人でした。
 Oさんははじめて仕事で一緒になったのは、応援で行った滋賀県の事務所でしたが、その時の新しい配属で戸惑うとても優しい声で私の名前を呼んで、満面の笑顔で迎えてくれました。色白の童顔で優しい表情なのですが、スレンダーというよりはグラマーという言葉が合うような体系の人でした。男性目線で恐縮なぐらいですが、大きな胸をされていて、歩くと胸も揺れますし、タイトでやや短めなスカートでよく柄のあるタイツを穿かれ引き締まった脚でモンローウォークのように歩く後ろ姿もコケティッシュさがありました。
 仕事ぶりも真面目で献身的で、美容教育のスタッフとして企業相手の企画や商談に現場目線でさまざまな情報を集め、勉強をして考察してくれていました。その相談や提案を持ってくるときの声と表情の愛苦しさには癒されました。
 Oさんの仕事である美容の情報に関して、メーカー主導のヨイショ系雑誌ではなく、私は自分でLDKなどのメーカー忖度のない雑誌やネット記事を共有して密に協力していました。彼女の主宰するセミナーや社内外の教育は好評を得ていたはずです。

 それでも教育スタッフの上司は厳しいパワハラ系の女性、セクハラ系の幹部、取引先もあって大変な面もあったようです。
 ある時は、肝心のその優しい声が全くでなくなり、筆談で過ごしておられるときもありました。その体調の変化は1~2週間は続きました。
 また、ある時な声をかけるにはややためらうのですが、タイツのおみ足に痣のようなものが見えることがあり、「ケガをしたのか」と聞くと、「いろいろな病気と付き合っているんです。気にしないでください」とやんわりと優しい声のままでも毅然と返されました。なぜそれならスカートでなくパンツを穿かないかとも思うのですが、足が太く短いのでパンツスタイルはとても嫌なのだそうです。このあたりの女性のこだわりはわからないものです。
 後で噂のように聞きましたが、OさんもIさん同様に、子供がありながらも離婚されていて、原因は配偶者の暴力いわゆるDVだそうです。
 Oさんの体調不良や脚の痣が何が原因かは訊いていないのでわからないままです。
 ある夏の夜だったと思います。大阪の街で同僚とお酒を飲んでいて店から出てあるいている時、別の女性グループの飲み会の帰り道に遭遇して、大きな声でOさんに声をかけられました。足元もふらつくほど心地よく酔っぱらっていて、私に寄りかかってきました。
 Oさんは他の面々には、私に送ってもらうように告げて、ほとんど抱きついてくるような感じで私に支えられました。
 普段社内では清楚でコツコツと仕事をするイメージなのが酔って豹変した感じで「ダイジョウブ、大丈夫、まだ飲める」とも言いながら呂律もまわらないぐらいですが、しかたなく他の連中とは「お持ち帰り」のような印象で見送られて、もう一軒二人でハシゴ。
 さんざんそこでも飲んで、しばらく中央大通りの高架から、空を見上げながら歩きました。こちらも酔っていますし「大阪で生まれた女」「悲しい色やね」的歌詞で、酔いしれるフォークソングか演歌のような世界です。
 聞いていた法円坂のマンションは御堂筋の本町から地下鉄で終電までは時間もあり、たった2駅です。タクシーには半端な距離ですが地下の駅までの上り下りが面倒です。歩けない距離ではないのですがここまで酔っぱらってる女性をつれて大阪の深夜を2駅間も歩くのもまた何とも微妙です。やはりタクシーかと思いましたが、案の定近場NGで3台拒否、あきらめて地下鉄の駅に戻りふらふらの彼女を引っ張ってエレベーターを探して歩き、何とか肩抱いて改札をのけて電車まで行き座らせると寝そうになるので話しかける。駅につくと立たせて下ろすのが大変で火事場のクソ力よろしくお姫様だっこで抱えながら電車をおりてエレベーターから改札を目指し、ようやく少し歩けるようになったのでマンションまでの部屋まで何とか送り届ける。
 そこでさすがにこちらも酔いも回り、体力もつき、京都まで帰る方法もホテルを取る思いつかないほどで、彼女をとりあえずはベッドに寝かせると、ソファーなのか絨毯なのかにばったりでした。


 翌朝は気まずい「やってしまった」状態で、あんまり何も覚えてない彼女ですが、さっぱりした爽やかな対応でシャワーを用意してくれて、朝食を準備してくれました。
 簡単な朝食をとって、別々に出勤でした。
 それ以降は、Oさんとは少し距離おいて深酒やめていました。
 Oさんは当時のパワハラ上司は更迭されて、その後のポストに就かれ、管理職の道に進まれましたが、その後は知りません。

コイバナ? 仕事のパートナーはスーパーモデル 大阪時代 – 天使の星座 (seizafpkotodama.com)

阪急電車10分間のコイバナ – 天使の星座 (seizafpkotodama.com)

追悼:伊藤淳二元カネボウ会長  書評『天命』

 

 先日99歳で亡くなられていたという報道があった伊藤淳二(いとう じゅんじ)氏は、私が入社した時の鐘紡の社長でした。1922年(大正12年)中国青島生まれで、戦後すぐの1947(昭和23)年、慶應大学卒業後に鐘淵紡績(カネボウ)に入社され当時のオーナー社長・武藤絲治(むとう いとじ / 1903〜1970)の後継者指名を受け、1968(昭和43)年、45歳の若さで大逆転、クーデター人事で社長となった人物です。カネボウは経営多角化を推し進め、1984(昭和59)年、会長に就任、社長就任のストーリーは城山三郎のビジネス小説『役員室午後三時』 主人公藤堂のモデルとなりました。
 

 1985(昭和60)年の御巣鷹山の日航機事故後、政府(中曽根康弘首相)からの強い要請で日本航空副会長(翌年に会長)に招聘される。わずか1年で辞任しました。この経緯が山崎豊子『沈まぬ太陽』- 登場人物の国見会長のモデルとなりました。だいぶ美化されて、映画では石坂浩二が演じ繊維工場でを自ら糸を扱い差配している場面がありましたが、この当時すでに現場にいるような人ではなく、随分とデフォルメというか男前に描かれ映像化されていました。

 伊藤氏も今ではすっかり過去の経営者扱いですが、著名な作家の小説のモデルに二度もなった人物はそういないでしょう。 屈辱的失敗で日航会長を解任され、カネボウ専任に戻られるのですが、その後も会長として院政をはり、過去の成功にとらわれ傀儡的社長がコロコロ変わるだけで改革が進まぬまま、坂道を転がるように、事実上の経営破綻に落ちます。

「天命」は論語をはじめ彼が出会った様々な含蓄ある言葉を中心に生き方を著しています。多く方の書評や最近のコメントではその中身は古臭いという、褒めていても古き良き時代的なものです。時代としては少しあとになる稲盛和夫の著作に比べても、難解で衒学、知的顕示欲の強さが垣間見れます。
 ちなみに伊藤淳二は、社内で「知命教室」という幹部勉強会のようなもの、論語プラス経営という頭の痛くなるようなのをやっていて、それも社内で冊子が出回ってきて、ヨイショ的な内容が多いのですが、やはり博学であり衒学趣味でした。


「美しい人生とは美しい晩年を送り得る人、人生の一瞬一瞬をかみしめ「今」に燃え、毎日毎日を精いっぱい送る人であろう」という言葉には、大いに共感する部分もあります。

 しかし彼の晩年はどうだったのでしょう。博学でもありますが、稲盛和夫のフィロソフィーに比べると点が線につながらないような少し現実と合わなくなって、経営者としての評価は随分下がりました。
 自己顕示欲が強すぎ、後輩などの意見を受け容れての修正が難しいところがやがて綻びにつながったのではと思います。
 現実の社会は論語に心酔する一流大学出の向学心溢れた人間ばかりではなく、礼節や忠誠よりも私欲が優先するのが通例です。伊藤の思い、考えは本当の意味で浸透するわけではなく、権力者への盲従に支えられていたのかもしれません。

 そして、「未完の如くして完結して居る。果たされない様で果たされて居る。大切なことは、その時、自分の可能性の全てを尽くしたか否かであるように思う」という言葉で『天命』の最後を締めくくっています。
 日航会長時代でミゾをつけ、結局は鐘紡の栄華さえ砂上の楼閣のように崩れ去り、最後は大株主として元経営者として情けないような泥仕合も見せてしまいました。それでも未完と言っている以上矛盾ではないのかもしれません。
 未完であるが一時代を築き、実はそれなりの完結をしている。99歳まで永らえ、目的を果たし得なかったそういう生涯がありかもしれないです。

伊藤淳二と稲盛和夫 日航改革二人の明暗 – 天使の星座 (seizafpkotodama.com)

西武大津店の思い出

 西武グループの創業者・故堤康次郎氏の出身地である滋賀県に、県下初の百貨店として1976年にオープン。開業初日は約13万もの人が詰めかけたことからも、県民からの期待がいかに大きかったかがうかがえます。
 先日びわこ博が小学校3年生の時、大阪万博1970年が小学校の5年生でしたから、私はオープン当時は高校生だったのです。
 当時は京都の大丸、高島屋、藤井大丸、丸物といったデパートしか知らず、多層建ての繁華街にある形態ではない西武は新鮮でした。
 高島屋や大丸といった老舗が高級品も扱いながらも、子供向けの玩具売り場や食堂、遊具が充実していたためか、売り場としての西武百貨店はやや物足りない感じもありました。その後トレンディとか言われるブランドが席捲する少し前の話です。
 その後、会社に入り滋賀県で営業にも周り、30歳てま頃、平和堂や当時でき始めたダイエーや西友なども担当した後西武百貨店も担当することになりました。
 今思うと、バンカラな野暮ったい独身でしたが、滋賀で最も垢抜けた商業施設を背伸びして担当させていただきました。
 当時、カネボウ化粧品としても初めてHF(アシェフ)という百貨店ブランドを作りようやくチャネル別流通に力を入れだした時でした。全国的にも百貨店ではそこにしかない外資が強く、そこら中の店にあるカネボウや資生堂は差別化に苦戦していたのです。今では考えられない強引な販売方法のアプローチデモというのが頻繁に行われ、普段は2名体制の派遣でしたが、デモやイベントだと各課の美容部員が動員され、ノルマがかかり大変いキツイ仕事でした。会場の設営、撤去、毎日の朝夕礼もあり休日フル出勤となり、当時会社の拠点は彦根になったため彦根と大津を何度も往復しました。実家が京都なので実家に戻って通えばといわれましたが、大津~京都もハンパな距離で携帯もパソコンもない当時は家に帰ると連絡などが厄介でうまくいかないものです。
 それで実家の電話で長話して、また返信があると取り次いだ母が、「彼女」かと期待した子もいますが、それは全くの誤解でした。

コイバナ? 仕事のパートナーはスーパーモデル 大阪時代

 本人も日本人離れした体格の大谷翔平選手、奥さんも元アスリートで高身長の美人でした。
あそこまでの体格のお相手だとさすがに150㎝ぐらいの女性だと釣り合わないように思います。
 もちろん、身長差のカップルも世の中にはあります。女性の方が背が高い場合もあります。
 私自身の好みとか言っても始まりませんが、170㎝ちょっとなので、横に並ぶのは160ぐらいまでがやはりいいように思います。今までお付き合いした女性も全て150センチ前半で、まあ平均的な日本人女性か、少し低いぐらいでしょうか。
 時代が移るにしたがい、同じ身長でも足が長くスタイルの良い方が増えだしました。
 初恋をしたような時代、同年代の女性たち昭和の女子は、みんな当たり前に小さく丸っこい感じでしたが、今の女優さんやアナウンサーの人や、大卒の子らは本当に細くてスタイルもいい。
 私はあんまり背が高くてスタイルの良い美人系は苦手で、化粧品会社でもそういう人は「ああキレイだな」ぐらいで全くつき合えるとか思いいたらず、かえって落ち着いてそっけない態度になってしまうようでした。その態度が結構、冷静で安心感を与えて好感を持たれた時があります。
 ある時、大阪で勤務しているとき、当時でいうと伊東美咲さんや武井咲さん、今はキャスターになられた膳場貴子さんのような本当に女優さんやモデルさんのような女性Iさんという方がおられました。私が少しお茶ら気を淹れながら毎月企業対策のプレゼンをするのをとても熱心に聞いておられ、上司を通じてその伊東美咲さん(仮)が「とても楽しみにしている。井上課長(当時)が大好き」と伝わってきました。
 確かに、当時企業としても自主回収白斑の対応もあり厳しい仕事が続いていて、私のプレゼンは一服の癒しだったようです。それでも、男女の「好き」である年齢ではありませんし、お互いに結婚もして子供もいるのでそういう意識は全くありませんでした。
 顧客や部下の対応に北大阪地区を同行して回る機会もあったのですが、気楽に打ち合わせがてら食事にも行き、送って帰るような時もありました。
 しかし、どうも社内では変な噂が立ちました。困ったことに伊東美咲さんは、ビジネスネームこそ変えていないのですが。中学生のお子さんはいらっしゃるものの離婚されて、バツイチのシングルマザーだという話なのです。
 確かにスタイルも良く美しい人ですし、あざとい裏の顔があるとも思えないタイプなのですが、このまま沼に落ちてしまうのは悩むところでした。
 結構多くの男性はこっそりと不倫に入るような会社でしたが、そこはもうちょっと私には無理でした。身長は私と釣り合わないくらい高くはなくて160㎝ぐらいまでですが、やはり私には150㎝ちょっとの平凡なスタイルと容姿のお相手が分相応なのです。
 

コフレドール生産中止 ブランドメイクの盛衰

 私のいたカネボウ化粧品は4月1日、メイクアップブランド「コフレドール(COFFRET D’OR)」の終了を発表した。朝のニュース番組で大きくコーナーで取り上げられ、それを受け街頭インタビューやSNSでは終了を惜しむ声が多数寄せられ、Xでは発表から半日経ってもブランド名がトレンドにランクインし続けていました。
 すでにシーズンキャンペーンでの宣伝広告は減り、新商品も細々でフェイドアウトの傾向だったので個人的にはこれほど騒がれることに驚きます。
 若い方はさまざまなプチプラなど使っていて、ここで惜別の声を上げるのは少し年代高めかと思います。Xでは「下地が優秀で何本リピートしたかわからない。先週も購入したばかり」「下地で使っていたから今後どうしよう」「チークはずっと“スマイクアップチークス”だったのに」「“スキンシンクロルージュ”の代わりになるものが見つからないよ〜」と、愛用者による嘆きと戸惑いの声が。ドラッグストアのカウンセリングブランドはメイクアップの入り口になることが多く、「高校卒業して親元を離れる時に、母と一緒に選んで最初に買った初めての化粧品が『コフレドール』でした。ありがとう」「社会人になるにあたって母がへ商品一式買ってくれた」など、人生の節目を振り返るユーザーも相次いだと報道もされています。
 マスコミの分析では、
『消費者の低価格志向が顕著になり、1000円前後の商品が売り上げを伸ばす一方、ドラッグストアのボリュームゾーンである2000〜3000円台の中価格帯コスメは苦戦を強いられてきた。そこに韓国コスメやD2Cブランドが台頭し競争は激化。一方、コロナ禍の影響でリベンジ消費や高級志向が高まり、化粧品市場は低価格帯の“プチプラコスメ”と高価格帯の“デパコス”への二極化が進み、中価格帯コスメの存在感は希薄化していた』などとされています。

「コフレドール」は2007年に資生堂「マキアージュ」に対抗して誕生しました。
 今回、花王グループのブランド統廃合と言われていますが、20年ほど前この時も大手化粧品メーカーはブランド乱立で、煩雑になり新規客はとってもブランドは伸びず在庫過剰を招いたため統廃合をはかったのが2メーカーのメガブランドができた背景です。「マキアージュ」は2005年にベースメイクの「プラウディア」とポイントメイクの「ピエヌ」を一気に統合した感じでした。この英断と過去最大級の宣伝費を投じ,モデルには女優の篠原涼子、伊東美咲、蛯原友里、栗山千明の4人を競演させ強力なインパクトで市場を席捲した。この攻勢を食らったライバルメーカーのカネボウ化粧品も、相手を分析し逆襲をかけたのが2年後の「コフレドール」だったのです。
 落ちない口紅でヒットしたポイントメイク「テスティモ」と、ベースメイクの「レビュー」を統合した形で、CMには人数では上回る5人の旬のモデルの競演で対抗したのです。沢尻エリカ、 中谷美紀、常盤貴子、 柴咲コウ、 北川景子と今考えにくいでメンバーでした。
 当時の価格帯が現在よりも1000~1500円程度高いのによく売れていたのが平成半ばなので、そんなに時が経っていないのにここでも時代を感じます。
 個性的な良い商品も出しましたが結局、あくまで資生堂の後追いで、在庫問題なども解決できずカネボウは衰退の時代に向かいました。
 そして、カネボウ化粧品自体がその後、花王に吸収され一つのブランド会社になってしまうわけです。

 現在はリップやチークなどのポイントメイクと、ファンデーションや化粧下地などのベースメイクを取り扱っている。ブランドによると6月から順次生産終了となり、12月末を目処に販売も終了する。

 

バレンタインデーのお返しの起源は

 バレンタインデーのお返しは私の遠い記憶では3月14日のホワイトデーではなく、「マシュマロデー」と呼ばれていました。1970年代ですね。私の中学時代です。
 海外発祥のイベントのバレンタインデーが普及するとともに、日本独自のお返しをする文化に着目して生まれたとされています。バレンタインデーのお返しにせめてマシュマロでも渡してほしい旨の文章が少女雑誌に掲載されているのが目に入ったお菓子の会社。石村萬盛堂はこの文章に触発され、バレンタインデーの返礼としてマシュマロを渡す日を創設し、返礼用マシュマロ菓子として「君からもらったチョコレートを僕の優しさ(マシュマロ)で包んでお返しするよ」とのコンセプトで、黄身餡の代わりにチョコレートをくるんだマシュマロを売り出すこととしたそうです。起源は他にも諸説ありです。

 ホワイトデーは、日本人特有の内祝いやお祝い返し、「お返し」文化に合わせて菓子業界が企画したイベントです。とはいえ、義理でもお世話になった人からプレゼントをもらったら、お返ししたりする行為は日本人らしいです。
 多くの女性の部下を持っていた化粧品の営業をやっていた時代はバブルでチョコレートも沢山もらいました。義理というか、上司チョコでしょうが、その中にも少しこじゃれたセンスや日頃の感謝などのメッセージが込められている人はやはり仕事もできる人だと思いました。
 義務感でも、年賀状などできっちりパーソナルな発信だ出来る人は優れています。
 バブルもはじけ、お歳暮お中元はもとより、年賀状やバレンタインも社内は禁止になり、それはそれでよかったと思います。
 それでも今でも職場によってはあるようです。無駄な安からぬ義理チョコが増え、上司への媚び等も複雑に入ると、お返しも含めて返礼の出費も増えて大変です。

 若い頃にドキドキしたいわゆる本命の恋愛経験ならいいですが、義務感の義理はやはり要らないですね。
 バレンタインにまつわるコイバナもいくつかあるのですが、あんまり面白い内容ではないのでこの辺で。

中島みゆき「化粧」 飾る女性の思い出

 女性、しかも美しく装う人の多い化粧品会社に勤めておりました。
さまざまな出会いがあり、それこそ女優さんのような「美」を生き方のスタイルにしているような人もいました。
 中島みゆきさんの初期の歌に桜田淳子さんがカバーした「化粧」という哀しい女性の詩があります。
「化粧なんてどうでもいいと思っていたけれど、」で始まり、振られた男に最後に会いに行くのに「せめて 今夜だけでもきれいになりたい」
 というせつないばかりの意地の女ごころを歌っています。

 あるエリアで勤めていた時、Sという方が本当にきれいな人がいました。化粧も上手い上、元々鼻筋などを少し手直しされている上、若さを保つのにエステだけでない努力もされているのではととかくの噂でした。
 若くして、時のエリア支社のトップに重用されていましたが、取引先からは、話が長く空気が読めない常識を欠いたことがあり、メンタル的にも傷ついて営業スタッフに回っておられました。
 元々、声をかけ辛い美貌で、男性が気楽に談笑できる仲間のMさんには逆に嫉妬していました。Mさんはスタイルはいい方ですが、年齢も上でSに比べれば平凡な顔立ちです。
 ある時積極的にSが誘惑のようなアプローチをかけてきたことがあります。当時、結婚もしてご主人もおられるはずなのと、それよりも当時の上司、エリア支社のトップの女なのでとても淫らな関係はいやだと考え、断りました。それは私が好きというよりも、Mさんと気軽に話す私が何となく羨ましいというのか嫉妬心を抱いたのか、何でも自分が一番で独占したいという複雑な気持ちなのでしょうか。
 ある時、SはMさんのような生き方にスタイルを変えたいと悩んでいました。それでもやはり私とたまに会うときでさえ、すごく丁寧に整え、キレイにならないという見栄なのか矜持のような気持ちに捕らわれるようです。
 販売会社のノルマがすごくキツイ時代で、女性は出世したり、営業成績を上げるのにかなり女性を売って無理をしていた時代の残滓があります。

 もちろん、令和になってそれほどノルマは無くなると、今度はかまってくれる男性、媚びを売る対象が、テレワークだと難しくなったようです。
 Sの前に営業にいた、Nという女性も美人で、営業成績も素晴らしく、何期も連続で達成して表彰を受けていたりしましたが、やはり数字とそういう無理がイヤで、結婚後しばらくして退職されました。Nの連続達成のために、上司や周りも無理をして、こちらも正直その反動や何やで相当迷惑を蒙りました。
 昔は社長や、地区支社トップも女性のセクハラ接待のようなものもあり、そんな機会を昇進や経費流用に活かした女性もいました。枕とは確証もって言えないですがそれに近い悲しさはあります。
 あっさり辞めたNに比べ、Sの辛抱はある面可愛かったのですが、やはり限界はあったようです。
 中島みゆきさんの、「アザミ嬢のララバイ」「化粧」「悪女」「あした」などの儚くせつない女性の歌を聞くと、彼女たちのことを思い出します。
 今も4大卒のかなりの美人さんが親会社に入って来られますが、もう現場営業をすることもないですし、美容現場から営業も難しいのでああいうキャリアの変遷で悲喜劇の女性を見ることはないでしょう。

今も気になるコスメの評価

 最近当ブログは仕事の関係もあり、年金やお金の話、旅、鉄道や読書、政治の話が多くて、人生応援と占星術のジャンルが減って、コスメのことをほとんど書いておりませんでした。
 カテ分類のトップがコスメだったのを忘れそうになっていました。
 これでも、化粧品メーカーに37年勤めていましたので、たまに女性ファッション誌やコスメ売り場をチエックする習慣は残っております。今ほどは雑誌もネットで読むことができなかった時代、男性のわりに本屋などで女性コスメの情報を得て仕事に活かしていたものです。多くの男性社員がそんなことをしているわけではないですが、業界の新しい動向を語れずにそこに身を置くことこそ気恥ずかしく思っていました。

 ミステリでいうと年末にその年出た本の中で今年のベストがランキングされて、いくつかは読んでいても後追いや初見になることもあり興味深い企画です。コスメも各雑誌がランキングや特集をします。
 在籍した、カネボウや花王のコスメブランドが好評価され、健闘しているのは我が子が一等賞でもとったようで、いまだに嬉しいものです。
 雑誌の場合、広告を出している大人の事情もあり多くはタイアップ記事も多いですが、それでも評価の上下はあります。各メーカー得意部門があり、ヒットを生み出しやすいアイテムが伝統的にあるのも面白いです。

 昭和、平成と違い、顧客のニーズも変化し、ブランド戦略も宣伝、流通も変わりました。テレビ媒体の割合は小さくなり、かつての美容部員にあたるスタッフ人員も、百貨店などの高級品ブランドだけにつくような存在になりました。
 素人目ではテレビコマーシャル、マス媒体に登場しないと、売れていないシェアダウンしているのかと思いますが、雑誌などで確認できる品質と高給価格帯で勝負して金額シェアと利益を守っているようです。
 化粧をする、化粧品とくにそこそこのブランドを買うと言う人がまた、豊かかな人種とも言えますし、少し背伸びしたがる見栄はりだとも言えます。
 それでも、今公務員のような仕事をしている同僚からh、信じられない仕事についていたと我ながら思います。
 化粧をする心、装いたい気持ち化けて隠したいのものがあるのは人の常でしょう。

4年で変わった大阪、日本

 2019年6月、令和の元年に私は退職して1カ月目で職探しの面接のため大阪を訪れました。
5年間いた大阪の本町、立売堀界隈でしたがこの時は2年ぶりぐらいの訪問でした。午前中に受けた京都での面接の結果も気になり、トンボ帰りに近い形でしたが、心斎橋から本町までは歩き、懐かしい船場センタービルなどを訪れました。
 この時、G20の大阪サミットで御堂筋に全くクルマが走っていない異様な光景を味わいました。
 営業車を停めていたビル駐車場の受付のキレイなお姉さんが、覚えていてくれていて嬉しかった思い出があります。ひな祭りやハロウイン、クリスマスなどにコスプレをして顧客を楽しませてくれました。当時すでに、100円パークキングなどのセルフ発券が当たり前の時代にいつまでも、人の発券しかもキレイなお姉さんなのがとても不思議なぐらいでした。
 先日、元職場の近くのオリックス劇場での観劇の帰りに4年ぶりに同じビルを訪ねると食堂街はほとんどが閉店、カフェと寿司屋だけが残っていて、中華や、カレー、蕎麦屋など行きつけは無くなっていました。コロナ禍の猛威なのか、活気のありそうなウメキタなどに比べ、下町は厳しかったのでしょうか。
 そして、一番楽しみにしていたお姉さんのいた駐車場は、残念なことに味気ないセルフ発券となっていました。営業車を都市部の拠点で駐車場契約することも止め、テレワークも進めていたので、おそらくこのビルとの契約もとうに終わっていたでしょうが、残念dす。
 10年前も4年前も変わらないものもあれば、大きく変わっているものもあります。
 4年前のG20が行われた時は、まだコロナ前であり、もちろんウクライナ前であって、米大統領はトランプ、日本は故安倍晋三さんで、ロシアのプーチンも中国の習近平も一同にインテックス大阪に集まっていたのです。
 今では亡くなった安倍さんは別にして彼らが揃うことは難しい国際情勢にたった3年ほどの間で変わっています。世界の多くの国で、政権が変わったり、大きなインフレがあったり、革命や体制、政策が変わっている国や地域が、この5~10年にありました。それに比べれば日本は変わらない、伝統なのかジリ貧なのかでしょうか。
 大阪の街は、新入社員でも勤め、港や川があり都市高速と地下鉄が縦横に走り、活気があって好きな場所も多いですし、懐かしさと親しみがあります。
 万博をめぐる情勢も複雑ですが、今年は理屈ぬきのアレが起こった関西です。関西が起爆になって、日本が元気になり、世界の平和と安定につながるイベントに変わることを期待します。

25年ぐらい先を見るリーダーがいないと

 今年は最後になってもダイハツの不正が発覚し、BIGモーターズの保険会社まで巻き込んだ不祥事もあり、社会、芸能、政治にも情けないような話が多いです。
 私も企業で営業をやっていた頃、年末は最後まで売上を追われていました、結局、昭和からの多くの日本の企業は、目の前の数字しか見えない人が増えるとダメになります。
 サステナビリティの時代と言われながら、今だけの業績、幹部の延命、損益計算書の瞬間を気にし過ぎることは粉飾につながるのは過去多くの企業の不祥事で明らかになりました。
 人間は弱い者ですし、目先にとらわれます。それでも知識があれば、今だけの評価が会社の全てではないことがわかるはずです。1年先のことや25年先のことよりも目の前の事しか見えないし、目の前で言われた人の意見に左右されます。しかし、たとえば簿記をやっていた人は同じ10万円を払っても一晩で終わってしまう20年以上事務所の備品になり、減価償却されていくものがあることがわかります。伝統や社員の規律が正しく、良い技術を持ち、商品やサービスを提供できる力があると判断されれば、個人の事故やコロナ禍など一過性の評価企業価値は下がらないのです。そして今は、その企業が将来をどう考えてプランニングしているかが、付加的価値として見られています。
 よく期末操作とか、期ヅレとかの不正や粉飾が問題になりますが、企業活動の実力をかかるためには、その実力、営業力や財務体質は瞬間ではなく流れ全体を見ないといけないことは明白です。
 さらにいうと、その活動が25年経ったとして、その間にどのくらい収益を上げ続けられるかなのです。もちろん目の前で現場の人間も頑張るかどうかにかかってきますが、そこは加味しても現場のその時任せではなく、ストーリーとして事業のライフサイクルがどのようなものが描けるかです。
 それが理解され、使命感があれば、目の前の損得は次への課題となって見え、頬かむりごまかしても意味がないことが分かります。現場は描いたデザイン通りやることは必要ですが、全体としては中長期の目標のために邁進していれば良いことです。

 比較的目先の利益を気にしなくてもいいのが行政なのですが、最近は妙に世論や市民の目を気にして、政治家は選挙を気にするため、結局漫然と年度内しか見えず、25年先を見据えられるリーダーがいなくなっています。首相、閣僚、政府与党こそ、25年ぐらい先の国家観を語れないといけないのに、今の国会答弁対策、近くの選挙戦しか見えないのでは、政治家失格です。
 人間にはタイプがあって、過去を振り返り分析する者、今現在の目の前の活動に集中する者、未来を想像しあれこれ考える者がいるそうで、それぞれが必要でもあり、相互のリスペクトも必要です。
 目の前のことだけにガツガツした人間が上に立つと、パワハラや裏ガネ、不正粉飾横行となり、未来が見えなくなります。
 一番情けないのが、30年前世界一だった日本、その国の総理大臣、与党、官僚、多くの企業のリーダーがこの30年、目の前しか見えなかったことです。