バレンタインデーのお返しの起源は

 バレンタインデーのお返しは私の遠い記憶では3月14日のホワイトデーではなく、「マシュマロデー」と呼ばれていました。1970年代ですね。私の中学時代です。
 海外発祥のイベントのバレンタインデーが普及するとともに、日本独自のお返しをする文化に着目して生まれたとされています。バレンタインデーのお返しにせめてマシュマロでも渡してほしい旨の文章が少女雑誌に掲載されているのが目に入ったお菓子の会社。石村萬盛堂はこの文章に触発され、バレンタインデーの返礼としてマシュマロを渡す日を創設し、返礼用マシュマロ菓子として「君からもらったチョコレートを僕の優しさ(マシュマロ)で包んでお返しするよ」とのコンセプトで、黄身餡の代わりにチョコレートをくるんだマシュマロを売り出すこととしたそうです。起源は他にも諸説ありです。

 ホワイトデーは、日本人特有の内祝いやお祝い返し、「お返し」文化に合わせて菓子業界が企画したイベントです。とはいえ、義理でもお世話になった人からプレゼントをもらったら、お返ししたりする行為は日本人らしいです。
 多くの女性の部下を持っていた化粧品の営業をやっていた時代はバブルでチョコレートも沢山もらいました。義理というか、上司チョコでしょうが、その中にも少しこじゃれたセンスや日頃の感謝などのメッセージが込められている人はやはり仕事もできる人だと思いました。
 義務感でも、年賀状などできっちりパーソナルな発信だ出来る人は優れています。
 バブルもはじけ、お歳暮お中元はもとより、年賀状やバレンタインも社内は禁止になり、それはそれでよかったと思います。
 それでも今でも職場によってはあるようです。無駄な安からぬ義理チョコが増え、上司への媚び等も複雑に入ると、お返しも含めて返礼の出費も増えて大変です。

 若い頃にドキドキしたいわゆる本命の恋愛経験ならいいですが、義務感の義理はやはり要らないですね。
 バレンタインにまつわるコイバナもいくつかあるのですが、あんまり面白い内容ではないのでこの辺で。

中島みゆき「化粧」 飾る女性の思い出

 女性、しかも美しく装う人の多い化粧品会社に勤めておりました。
さまざまな出会いがあり、それこそ女優さんのような「美」を生き方のスタイルにしているような人もいました。
 中島みゆきさんの初期の歌に桜田淳子さんがカバーした「化粧」という哀しい女性の詩があります。
「化粧なんてどうでもいいと思っていたけれど、」で始まり、振られた男に最後に会いに行くのに「せめて 今夜だけでもきれいになりたい」
 というせつないばかりの意地の女ごころを歌っています。

 あるエリアで勤めていた時、Sという方が本当にきれいな人がいました。化粧も上手い上、元々鼻筋などを少し手直しされている上、若さを保つのにエステだけでない努力もされているのではととかくの噂でした。
 若くして、時のエリア支社のトップに重用されていましたが、取引先からは、話が長く空気が読めない常識を欠いたことがあり、メンタル的にも傷ついて営業スタッフに回っておられました。
 元々、声をかけ辛い美貌で、男性が気楽に談笑できる仲間のMさんには逆に嫉妬していました。Mさんはスタイルはいい方ですが、年齢も上でSに比べれば平凡な顔立ちです。
 ある時積極的にSが誘惑のようなアプローチをかけてきたことがあります。当時、結婚もしてご主人もおられるはずなのと、それよりも当時の上司、エリア支社のトップの女なのでとても淫らな関係はいやだと考え、断りました。それは私が好きというよりも、Mさんと気軽に話す私が何となく羨ましいというのか嫉妬心を抱いたのか、何でも自分が一番で独占したいという複雑な気持ちなのでしょうか。
 ある時、SはMさんのような生き方にスタイルを変えたいと悩んでいました。それでもやはり私とたまに会うときでさえ、すごく丁寧に整え、キレイにならないという見栄なのか矜持のような気持ちに捕らわれるようです。
 販売会社のノルマがすごくキツイ時代で、女性は出世したり、営業成績を上げるのにかなり女性を売って無理をしていた時代の残滓があります。

 もちろん、令和になってそれほどノルマは無くなると、今度はかまってくれる男性、媚びを売る対象が、テレワークだと難しくなったようです。
 Sの前に営業にいた、Nという女性も美人で、営業成績も素晴らしく、何期も連続で達成して表彰を受けていたりしましたが、やはり数字とそういう無理がイヤで、結婚後しばらくして退職されました。Nの連続達成のために、上司や周りも無理をして、こちらも正直その反動や何やで相当迷惑を蒙りました。
 昔は社長や、地区支社トップも女性のセクハラ接待のようなものもあり、そんな機会を昇進や経費流用に活かした女性もいました。枕とは確証もって言えないですがそれに近い悲しさはあります。
 あっさり辞めたNに比べ、Sの辛抱はある面可愛かったのですが、やはり限界はあったようです。
 中島みゆきさんの、「アザミ嬢のララバイ」「化粧」「悪女」「あした」などの儚くせつない女性の歌を聞くと、彼女たちのことを思い出します。
 今も4大卒のかなりの美人さんが親会社に入って来られますが、もう現場営業をすることもないですし、美容現場から営業も難しいのでああいうキャリアの変遷で悲喜劇の女性を見ることはないでしょう。

今も気になるコスメの評価

 最近当ブログは仕事の関係もあり、年金やお金の話、旅、鉄道や読書、政治の話が多くて、人生応援と占星術のジャンルが減って、コスメのことをほとんど書いておりませんでした。
 カテ分類のトップがコスメだったのを忘れそうになっていました。
 これでも、化粧品メーカーに37年勤めていましたので、たまに女性ファッション誌やコスメ売り場をチエックする習慣は残っております。今ほどは雑誌もネットで読むことができなかった時代、男性のわりに本屋などで女性コスメの情報を得て仕事に活かしていたものです。多くの男性社員がそんなことをしているわけではないですが、業界の新しい動向を語れずにそこに身を置くことこそ気恥ずかしく思っていました。

 ミステリでいうと年末にその年出た本の中で今年のベストがランキングされて、いくつかは読んでいても後追いや初見になることもあり興味深い企画です。コスメも各雑誌がランキングや特集をします。
 在籍した、カネボウや花王のコスメブランドが好評価され、健闘しているのは我が子が一等賞でもとったようで、いまだに嬉しいものです。
 雑誌の場合、広告を出している大人の事情もあり多くはタイアップ記事も多いですが、それでも評価の上下はあります。各メーカー得意部門があり、ヒットを生み出しやすいアイテムが伝統的にあるのも面白いです。

 昭和、平成と違い、顧客のニーズも変化し、ブランド戦略も宣伝、流通も変わりました。テレビ媒体の割合は小さくなり、かつての美容部員にあたるスタッフ人員も、百貨店などの高級品ブランドだけにつくような存在になりました。
 素人目ではテレビコマーシャル、マス媒体に登場しないと、売れていないシェアダウンしているのかと思いますが、雑誌などで確認できる品質と高給価格帯で勝負して金額シェアと利益を守っているようです。
 化粧をする、化粧品とくにそこそこのブランドを買うと言う人がまた、豊かかな人種とも言えますし、少し背伸びしたがる見栄はりだとも言えます。
 それでも、今公務員のような仕事をしている同僚からh、信じられない仕事についていたと我ながら思います。
 化粧をする心、装いたい気持ち化けて隠したいのものがあるのは人の常でしょう。

4年で変わった大阪、日本

 2019年6月、令和の元年に私は退職して1カ月目で職探しの面接のため大阪を訪れました。
5年間いた大阪の本町、立売堀界隈でしたがこの時は2年ぶりぐらいの訪問でした。午前中に受けた京都での面接の結果も気になり、トンボ帰りに近い形でしたが、心斎橋から本町までは歩き、懐かしい船場センタービルなどを訪れました。
 この時、G20の大阪サミットで御堂筋に全くクルマが走っていない異様な光景を味わいました。
 営業車を停めていたビル駐車場の受付のキレイなお姉さんが、覚えていてくれていて嬉しかった思い出があります。ひな祭りやハロウイン、クリスマスなどにコスプレをして顧客を楽しませてくれました。当時すでに、100円パークキングなどのセルフ発券が当たり前の時代にいつまでも、人の発券しかもキレイなお姉さんなのがとても不思議なぐらいでした。
 先日、元職場の近くのオリックス劇場での観劇の帰りに4年ぶりに同じビルを訪ねると食堂街はほとんどが閉店、カフェと寿司屋だけが残っていて、中華や、カレー、蕎麦屋など行きつけは無くなっていました。コロナ禍の猛威なのか、活気のありそうなウメキタなどに比べ、下町は厳しかったのでしょうか。
 そして、一番楽しみにしていたお姉さんのいた駐車場は、残念なことに味気ないセルフ発券となっていました。営業車を都市部の拠点で駐車場契約することも止め、テレワークも進めていたので、おそらくこのビルとの契約もとうに終わっていたでしょうが、残念dす。
 10年前も4年前も変わらないものもあれば、大きく変わっているものもあります。
 4年前のG20が行われた時は、まだコロナ前であり、もちろんウクライナ前であって、米大統領はトランプ、日本は故安倍晋三さんで、ロシアのプーチンも中国の習近平も一同にインテックス大阪に集まっていたのです。
 今では亡くなった安倍さんは別にして彼らが揃うことは難しい国際情勢にたった3年ほどの間で変わっています。世界の多くの国で、政権が変わったり、大きなインフレがあったり、革命や体制、政策が変わっている国や地域が、この5~10年にありました。それに比べれば日本は変わらない、伝統なのかジリ貧なのかでしょうか。
 大阪の街は、新入社員でも勤め、港や川があり都市高速と地下鉄が縦横に走り、活気があって好きな場所も多いですし、懐かしさと親しみがあります。
 万博をめぐる情勢も複雑ですが、今年は理屈ぬきのアレが起こった関西です。関西が起爆になって、日本が元気になり、世界の平和と安定につながるイベントに変わることを期待します。

25年ぐらい先を見るリーダーがいないと

 今年は最後になってもダイハツの不正が発覚し、BIGモーターズの保険会社まで巻き込んだ不祥事もあり、社会、芸能、政治にも情けないような話が多いです。
 私も企業で営業をやっていた頃、年末は最後まで売上を追われていました、結局、昭和からの多くの日本の企業は、目の前の数字しか見えない人が増えるとダメになります。
 サステナビリティの時代と言われながら、今だけの業績、幹部の延命、損益計算書の瞬間を気にし過ぎることは粉飾につながるのは過去多くの企業の不祥事で明らかになりました。
 人間は弱い者ですし、目先にとらわれます。それでも知識があれば、今だけの評価が会社の全てではないことがわかるはずです。1年先のことや25年先のことよりも目の前の事しか見えないし、目の前で言われた人の意見に左右されます。しかし、たとえば簿記をやっていた人は同じ10万円を払っても一晩で終わってしまう20年以上事務所の備品になり、減価償却されていくものがあることがわかります。伝統や社員の規律が正しく、良い技術を持ち、商品やサービスを提供できる力があると判断されれば、個人の事故やコロナ禍など一過性の評価企業価値は下がらないのです。そして今は、その企業が将来をどう考えてプランニングしているかが、付加的価値として見られています。
 よく期末操作とか、期ヅレとかの不正や粉飾が問題になりますが、企業活動の実力をかかるためには、その実力、営業力や財務体質は瞬間ではなく流れ全体を見ないといけないことは明白です。
 さらにいうと、その活動が25年経ったとして、その間にどのくらい収益を上げ続けられるかなのです。もちろん目の前で現場の人間も頑張るかどうかにかかってきますが、そこは加味しても現場のその時任せではなく、ストーリーとして事業のライフサイクルがどのようなものが描けるかです。
 それが理解され、使命感があれば、目の前の損得は次への課題となって見え、頬かむりごまかしても意味がないことが分かります。現場は描いたデザイン通りやることは必要ですが、全体としては中長期の目標のために邁進していれば良いことです。

 比較的目先の利益を気にしなくてもいいのが行政なのですが、最近は妙に世論や市民の目を気にして、政治家は選挙を気にするため、結局漫然と年度内しか見えず、25年先を見据えられるリーダーがいなくなっています。首相、閣僚、政府与党こそ、25年ぐらい先の国家観を語れないといけないのに、今の国会答弁対策、近くの選挙戦しか見えないのでは、政治家失格です。
 人間にはタイプがあって、過去を振り返り分析する者、今現在の目の前の活動に集中する者、未来を想像しあれこれ考える者がいるそうで、それぞれが必要でもあり、相互のリスペクトも必要です。
 目の前のことだけにガツガツした人間が上に立つと、パワハラや裏ガネ、不正粉飾横行となり、未来が見えなくなります。
 一番情けないのが、30年前世界一だった日本、その国の総理大臣、与党、官僚、多くの企業のリーダーがこの30年、目の前しか見えなかったことです。

紙のポスターを貼りまくった思い出

 ただの昭和とか昔の回顧みたいになりそうですが、最近はターミナルやショッピングセンター、バス停なども紙のポスターがなくなりデジタルサイネージと言われるものになっています。

 私が化粧品メーカーに入社して、営業に回された頃は、もちろん紙のポスターばかりで、あとは横長の店頭幕と言われる布を入り口や化粧品コーナーの上に吊るす販促物を、キャンペーンに合わせて設置をチエックするというのが仕事の一つでした。年配の方の店や。営業を丁稚のように使役する店は、自分でやらないとなかなか替えてくれません。コマーシャルが始まっているのに、主力店を幹部が来訪して、販促物が前のままだと、カミナリを落とされ叱咤されました。
 ドラッグストアやバラエティストアなどの企業が主流になると、大型のものや踊り場を占拠する枚数、パウチ加工したものをリクエストされ、逆提案で店の高所や壁周り全体をジャックするような貼りまくりをしたこともあります。ライバルメーカーの営業が来れば地団駄を踏んで口惜しがるような自社モデルの顔で埋め尽くすのは、高所恐怖はあっても快感でした。
 ポスターと合わせ店頭設置のビデオモニターのため、VHSテープやDVDをダビングした時代がしばらく続きました。やがて本部企業から【デジタルサイネージ】にするから、データをこのサイズで送ってくれと言われる、最初はなんのこっちゃでした。
 ポスターをピンやら、ホチキス、テグス糸で止め、屋根近くを忍者のように登っていたのが懐かしい。
 ああやはり、ただの回顧になってしまいました。
 古い街並みを散策して、ホーロー看板の広告などを探すのひそかな趣味になっています。しかしホーロー看板は多少劣化しても丈夫なのですが、紙のポスターは傷み、日焼けして残らないのです。

学歴、職歴、思わぬ自分史を作る機会を得て

 まったく数奇な運命で64歳にして、公的機関で再び採用試験に合格しました。しかし何と高校以降の学歴証明、職歴証明を提出せよと言われました。
 30代ぐらいまでの第二新卒、過年度採用のための書式ではないかと思いました。40年も前のことであり、入社した鐘紡(カネボウ、昭和57年当時は漢字)株式会社という会社は事実上倒産しています。学校も卒業証書や卒業証明ではなく、休学なども含む在籍期間の証明、職歴も仕事撫内容までも含めていったい、そんなの本当に必要で、そもそもはたして手に入るのかと思いました。
 学校関係は成績証明は無理でも、在籍証明は出せるそうです。年金事務の時に逆の立場で学生特例猶予の時にさんざん他人にはリクエストしましたが、卒業ではなく期間在籍の証明で、ネットや郵送で申請して、速達やレターパックで返送してくれました。高校は申請書に3年のクラス、出席番号、担任が分かれば書く欄があり、そこは記憶はすぐには蘇らず、友人の助けを借りました。
 最大の懸念は統合、組織変更した会社の方です。幸い、退社時にも世話になった後輩が花王グループの総務にいていろいろ差配してくれて、入社以来の経歴をうまく組織変更とまとめて記入、代表取締役社長印を捺して返送してくれました。
 高校からの50年におよぶ人生のエビデンス、自分史が完成したのは壮観でした。走馬灯のように見て、これが最後になるのではなく、さらに輝かしいページを加えていけるようにしたいとは思います。
 最後にオチではないのですが、これを提出した後、人事グループは証明を出したところに電話で確認をしてウラを取っていました。その上で、内線で「昭和57年3月21日卒業から、4月1日の入社までは空白期間になりますがアルバイトなどせず無職でしたか?」との確認「はい」と応えましたが、そんな40年前の春休み何してたか、覚えてないなあ(笑)。
 年金事務所では受給資格の足りない人に厚生年金にあたるバイトをしていたら年金が増える可能性はあって確認することはありました。しかしたかが経歴書そこで一週間強バイトしてたと言って何が変わるのかとおもいつつ、何してたのかなと回想しました。社会人になる前でドキドキだったのでしょう。

還暦から手習い、雑巾がけもまた良い

 10月から、また全く新しい職場で新しい仕事を始めていて、慣れないことばかりで緊張も戸惑いもありつつ新鮮な清々しさも味わっています。
 大学を卒業し、カネボウという大きな会社に就職が決まった時、友人に「一生、カネボウの人生でええんか」と揶揄されたのを覚えています。その友人は、自分で事業を起こして独立した人物ではあります。また同じようにカネボウの面接を受け、内定を決めながら公務員になった者もいました。また、すぐに親の家業を継いでいった友、医者や、学者、教師を目指した同窓もおり、同じ学び舎からでも千差万別な人生です。
 もちろん、途中から道を変えることもできますが、サラリーマンはそう簡単にはいいところに再就職できませんし、新しい会社はよほどヘッドハンティングでの条件付きでも、最初は一から学ぶ仕事であり、雑巾がけの新入社員から始まる場合がほとんどです。
 60歳を過ぎ、再雇用制度を選ばずに、就職を探した4年前もそう簡単には仕事は決まらずでした。何の縁か公務系の社会保険の仕事につきました。そこで覚えたことも一企業では味わえないものでした。
 今回は社会保険、厚生労働からも離れます。公務とは言え、全然かけ離れた、裁判所の事務です。
 内容に関しては追い追い守秘義務以外の範囲で語ります。
 仕事へのチャレンジという面では、輪廻転生できても記憶はリセットされそうですから、大学卒業時に選ばなかった道を通ってみるももいいかなという気持ちです。
 一度きりの人生かもしれませんから、新人に戻るのを恐れることなく、楽しむように感じていきたいと思います。
 60でリタイヤして遊ぶのも選択で、若い時に苦労されて貯めたお金で楽をするのも間違いではないでしょうが、もう一度若い頃に戻って雑巾がけというのもいいのではないでしょうか。
「一生、カネボウの人生でええんか」同じ企業に縛られる人生かと揶揄した友人に対しての、ささやかに意地で反抗するような選択です。
 慣れない上で、間違いの許されない激務ではありますが、テレビや映画で見るような裁判所の中は、新鮮です。また、何気に毎日新聞やテレビで報道される事件、訴訟はすべてどこかの裁判所に絡んでくることは世界の見え方が少し変わります。

最低賃金1000円台に

 最低賃金が見直され、全国の加重平均(人口按分か)で1000円を超えました。近畿では大阪に続いて、京都と兵庫が1000円を超えています。まだ地方の人口の少ない県では800円台というところもありますが、相対的に900円後半には近づいています。これに伴い、当然そこよりも少し上だった基準の人は改善されていくケースが多いです。
 物価高の感覚は重く、収入がそこそこの人は、賞与や退職金も含めてバブル崩壊後、一部業種を除き漸減している傾向にあります。非正規と中堅の社員の格差は詰まっているともいえますが、日本の給与水準の伸びがOECD諸国やアジアなど海外と比べても小さいのも現実です。

 とはいえ、ローカルニュースでは取り上げられいましたが、今月はじめから全国のトップニュースでは値上げ値上げばかりの報道が、ジャニーズ事件と並んで洗脳のように流されています。賃金がじわっと上がっているということは、値上げからそこは引かないといけません。節約節税、吝嗇などのノウハウが知れば、乗り切れる場合もあるので、暗くなるばかりではないというところです。

 推しの飯豊まりえさんから、なぜか藤原紀香にモデル変更、

昭和史からの裁判 水俣病

 たまたま、昭和史の本を眺めていて昭和40年代の「日本株式会社の功罪」という一冊に、私の小学校時代の世相写真とともに、高度経済成長に伴い、日本の主要産業が重化学工業にシフトしたため、「公害」という新たな言葉とともに、裁判が始まったことが書いてありました。
 佐藤内閣時代の懐かしい写真、当時日米繊維交渉もあり、綿紡中心の繊維会社だった私は勤めた化粧品会社の前身も大きな転換期を迎えました。
 明治以降、絹紡や綿紡などが主要産業だった日本は、重化学工業により大きく発展し、世界の先進国へと成長します。しかし、その過程の暗部に公害の問題がありました。
 一時代も半世紀以上前の歴史と思われた名前が報道の一面に出ました。当時から引きずった公害裁判の判決が大阪地裁で先日下り、国とチッソ側に賠償を命じるものでした。
 小学生が耳には入れていた水俣病という、病と地名、社会の授業で学んだ四大公害裁判。そんな昔のことと言われますが、昭和から平成、令和まで苦しみぬいた方々がおられることに驚くばかりです。
 青春ドラマや特撮ドラマを見ていた子供が、還暦を突き抜けるまでの間、ずっと裁判をしていた人達がいたのです。金額や中身などもあれっと思いますが、内容な詳しくは触れませんが、ただただその長い時間の経過を耐えた被害者をリスペクトするしかありません。