兄を泣きながら追う弟 五才の頃?

 昨日出かけようと、マンションの出入り口から進むとと、子供の声で「お兄ちゃん、お兄ちゃん待ってー」と大泣きの様子。
 見れば、3~4歳の子供が両側に補助輪のついた小さな自転車で泣き叫びながら、補助輪にない自転車に乗ってどんどん先を行く少し大きなお兄さんを追いかけています。
 ときおり、止まっては「お兄ちゃん」と泣きながら呼びますが、かえって差は広がり、しぶしぶまた漕ぎ出します。
 中島みゆきさんの昔の歌「五才の頃」を思い出しました
 補助輪の無い自転車は走り出すとたしかにそうゆっくりできないし、止まるのもメンドくさくお兄ちゃんはスイスイ行くのが楽しいのでしょう。
 それでも次男だった私はやっぱり、弟君を応援したくなります。頑張ってお兄ちゃんに追いつけ、いつかこの悔しさを晴らせと祈ってやりたくなります。もう少し弟の心情を考え、面倒を見てゆっくり止まりながらでもいいのにと思います。
 しかし、所詮子供にそこまで望むのは無理なんですね。長男、次男、末っ子、一人っ子と他のさまざまが環境とともに性格が形成されていくのだとは思います。
 弟クンも泣き虫からやがて成長するのですが、逆にいじめっ子にはなって欲しくないです。兄に必死に追いつこうとしているうちに、友達や下の子よりは強くなり、兄の真似をして優位を自慢したくなります。それでも兄に差をつけられ、泣き叫んだ時の自分の気持ちを忘れず、後ろの子に気をかけてやれるような人間になって欲しいですね、
 兄や姉にいじめられた下の子が、大きくなり他の弱い立場の人を虐め、親に暴力を受けた子が自分の子を虐待していては、社会はどんどん荒んでいきます。夫が妻に、妻が夫に暴力や嫌がらせを行うのも残念なことで、それがまた子供や老人への虐待につながるのも悲しいことです。
 どこかで、誰かが回り回って自分に悪いものが返ってくることを教え、諭さないといけないです。もっと踏ん張って、人を信じ他人を傷つけることの罪深さを、教育や報道、SNSなどあらゆる機会で広げないといけないと思います。
 大きくなっても5才ぐらいの自分の泣き顔を思い出さないと泣き顔の無い大人になってしまいます。

マスク美人、マスクオフ時代に戻れるか

 令和2年から5年の途中までのおよそ3年あまり、日本はコロナ禍、マスク時代でした。
 とはいえ、令和6年の今もマスクオフとは言い切れず、花粉症や風邪もあるかもですが電車に乗ってもおよそ半分を超える人がマスクをしています。多くの客商売もマスクをしている方が多いです。
 それでもあの時代は「通勤して働くな」とか、「飲食業は営業するな」「旅行や里帰りなどするな」と、今考えるととんでもない厳戒態勢でした。
 この3~4年の間に,知り合って別れた人の中には、名前は憶えていても、鼻から下の顔全体を見たことが無い人もいます。
 最近になって、素顔というか顔全体を見て、こんな顔の人だったと気付く人さえいます。男性は髭をそらなかったり、女性もメイクをしないような時期もありましたから、印象も違い変わってきます。
 男性目線で、異性の顔を評価してしまうと怒られそうですが、目鼻立ちのバランスというのが美男美女の条件だなあとは改めて思います。
 確かに目の要素は大きいのですが、目元だけでキレイに見える人もマスクをとってみると鼻と口に問題があったり、つり合いが悪いと絶世の美人には至らない場合があります。鼻というのもどうでもいいように見えて、しっかりした鼻筋が通った方で目と微妙に均衡がとれるとこれでかなりポイントが上がります。
 今はこの辺の比率をAIが計算して美男美女を作ったり、評価する時代だそうですが、そこのポイントだけ人工的に上がれば幸せとは限りません。それは何となく今まで見て来た人の行く末で分かります。
 清潔で、健康的で、努力する性格の方が幸せになれます。
 

健康な食事は無理?

 シリアルは健康にいいと長年朝の習慣づいていたが、糖質は多いから特に血糖値の高い人は良くないという情報もでていました。
 漫才のネタではないですから、やはりコーンフレークは朝の物で、ランチやましてディナーにはあり得ないでしょう。
 添加物の少ない食品、国産に拘ると、とても高くつきます。
 ビール、発泡酒をはじめ、ダイエット対策で、カロリーや糖質や脂質カットしているとうたわれる商品も多いですが、同じような味を出すためには、やはり不自然なものを使っています。長い目で見て、食べて、飲んでが続くとやがて心配な事態がくるかもしれません。
日本人は、インスタント食品、レトルトやカップ麺、レンジで温めるご飯、日持ちのする防腐剤の入ったおおにぎりなど、開発して美味しく味つけするのは天才的に上手です。しかしまがい物文化は上手いのですが本物にこだわるグループはやや割合が少ないのです。
 震災の被災地など非常食はこういった食糧でやむなしです。しかし、それでも長期にわたると、普段の衣食住と違う点で体調は悪化し「災害関連死」の要因になっています。
 ましてや日常で、毎日コンビニ弁当やレトルトではやはり身体に悪いものが蓄積しそうです。
 外食も含め、多少さまざまなお金と手間はかかってもいろいろな食材からバランスのとれた食事をするのが理想です。なかなかこれが難しい世の中なのもわかります。無理せず楽しく食事することでしょうか。

東日本大震災 13年で変わったこと

 今年もこの時期が来ました。私が仙台にいたのはもう15年前になります。
 2011年転勤した2年後に、大きな地震が起き良く知る会社の同僚や取引先の被害に気を揉んだものです。
 当時、小学生だった私の二人の子供も今はすっかり大きくなり成人し勤めています。娘は仙台で同じマンションに住み同じ小学校に通った年齢が友達に昨年15年ぶりに東北に旅行して再会しました。電話やチャットではやりとりしても、リアルに会うのは久しぶり過ぎて、何から話せばいいのか戸惑ったようです。あのまま、東北にいたら私たちが経験した災害をその友達から少し詳しく聞いたようです。
 日本は地震国でその後も熊本、大阪北部、先日の能登半島など数多くの地震が発生して、防災の在り方、避難の体制も変わりつつはあります。
 当時は無かった、チャットのコミニケーションも進化し、多少なりとも情報の早期の共有はできるようになりました。
 それでも、まだまだいざとなると被災者には足りないものが多いようです。いわゆる「災害関連死」という言葉ができたのも最近です。それを防ぐ体制ができていない自治体も多く、まして個人の家では水や食料の備蓄一つとっても、不十分でしょう。災害のニュースを見聴きすると、一時的に防災意識は高まりますが、のど元過ぎれば人間は忘れてしまうものです。
 語り継ぎ、日常で活かすことも必要なのです。

【東日本大震災10年】生と死 運命を分けた野蒜駅発205系電車。仙石線の思い出 – 天使の星座 (seizafpkotodama.com)

東日本大震災10年、海岸線ほとんどに防潮堤の是非 – 天使の星座 (seizafpkotodama.com)

思い出される東北 – 天使の星座 (seizafpkotodama.com)

東北の海、山、川、湖すべて美しかった – 天使の星座 (seizafpkotodama.com)

運命を背負い、非日常を想像して日常を生きれるか。 – 天使の星座 (seizafpkotodama.com)

「Fukushima50」名も無き人たちが日本を救った – 天使の星座 (seizafpkotodama.com)

津波が10年で流したもの 書評:津波を乗り越えた町々 – 天使の星座 (seizafpkotodama.com)

津波が10年で流したもの 書評:津波を乗り越えた町々

 2021年の上梓なので被災直後から10年、津波の被災地を追った写真集です。復興は徐々に進んでいるとも見えるし、まだまだ全然とも言う人もいるでしょう。
 ある図書館の内容紹介では『一人の写真家がファインダー越しに見つめ続けた、東日本大震災の被災地の十年-。撮影総枚数15万4937枚の写真の中から、津波被害が甚大だった岩手、宮城、福島の写真を選び抜き、紡ぎ上げたルポルタージュ』とされています。カメラマンとして技術も含め、使命と情熱を持った良い仕事をされた本だと思います。

 東北という人口減少、少子高齢化の日本の中でも過疎の地域が多い中で、一部は復興を終えたところと、これから先が見えない厳しい状況の地区は多いのではと言われています。
 担い手やら子供が居なくて、産業や文化、インフラ、住宅地が放棄されていくところも当然あり、そこに全国からの復興税はじめ国費をこれ以上投入しても仕方ない判断が下されるのでしょう。
 仕方がないこととはいえ、津波がその時に流したものと、10年以上かかって人のあきらめで流していくものがるのです。

「あげまん さげまん」という言葉

こういう言葉も今は不適切といわれるかもしれません。男性視点的なところもありますが、「あげまん さげまん」という言葉があります。最近の言葉だと「勝ち組、負け組」というのがあってそれを導く運のような人間の出会いを表していたかもしれません。
 ある人といっしょにいると、運が上がり出世するなど「勝ち組」に入れる。その人は勝者にとって「あげまん」と言われます。逆にその人と付き合うと運が下がり、悪い目に合うのが「さげまん」と言われています。
 語源には諸説あるそうです。
「まん」とは「間」が転化したもので、運気・潮目・出会い・巡り合わせの意味(関西方言では「まん(間)が良い/悪い」のように使う)という説があり、これなら基本女性蔑視にはあたりません。
 もう一つはいわゆる女性器の俗称を略したものではないかというのがあり、男女関係を持った相手の運気を上げ、より良い巡り合わせにする女性を「あげまん」、不運な巡り合わせにする女性を「さげまん」と称するようになったというもので、ここから男性の「さげちん」、「あげちん」という言葉も俗には使われるようです。
 「運」の潮目となる出会いととると、相手の人物というよりも本人にとってのタイミング、元々の性質や相性などによるとことが大きくなります。
「性器俗称説」をとると、他責的な考えになるとともに、では相手の人物自身にとってはどうなるのかと考えると矛盾もあります。
 その人とその相手が、幸せな関係を築けて、能力を引き出せて出世したり、お金持ちになれたのは、それぞれの素質や相性、努力なのであって、一方的にどちらかに起因するものではないと思います。
 再婚して幸せになり、前のパートナーとの時代は不幸ばかりだったとしても、その相手が「あげまん」なのか、その時と経済や景気の違いとか、失敗から本人も経験して改善しているなどの努力、背景などの条件を全て見ないと検証はできません。むしろ、再婚がきっかけで「運」の潮目が変わったと見る説の通りなのかもしれません。
 それにしても、相性なのか運命なのか、学生時代からの友達で卒業後すぐ連れ添い、長く幸せな家庭でそこそこ出世した人などを見ると、お互いが「あげまん」なのかとも思いますがこれも検証はできません。
「割れ鍋に綴じ蓋」というポンコツ同志みたいな絶対すぐわかれると揶揄された夫婦で結構長続きして、成功している人もいます。
「相性」というのはやはりあるのではないかとも思います。「あげまん」と言われるような人は才能も努力もしているような気がします。
 

一汁一菜

味噌汁が一品と、干物などのおかずが一品,シンプルな一汁一菜。
高度経済成長期ぐらいまで、日本ではこんな食事がどこの家庭でも当たり前で、むしろ恵まれていいたのです。
 刺身も今ほど鮮度流通が難しく、レアステーキなど肉食もそれほど一般的ではない時代、寿司やてんぷら、とんかつ、すき焼きなどは晴れの日に食せるかどうかです。
 栄養バランス面などで何種類も食材を食べたほうがいいとも言われます。それも間違いではないですが、フルコースや松花堂弁当のようにだんだんと各家庭でも外食や給食でも何皿もオカズが当たり前になりました。そして、毎日その種類は変わり、人により値段もピンキリです。いつの頃か賞味期限が設けられ、日が過ぎた食材はカビや湿りを確かめるとかせず火を通すとかの工夫もなくポイ捨ての時代です。

 東日本大震災を想起する3.11が近づき、能登半島で炊事も食事も満足いまない状況に避難されている方、断水のままの人も多い中、「飽食」とも言われる今の日本人は一汁一菜を見直すときかもしれません。

使い捨てカイロいつから 不適切時代の発明

 もう春を迎えようって時ですが、使い捨てカイロ、昭和末期の発明の話題です。
 私はあまり使い捨てカイロのお世話にはなっていません。でも明らかに外で立って待つとか、作業の日以外はよく使いました。日常的には今は真冬でもそれほどは使いません。
 これが出したのが昭和52年ごろからなので、中学や高校では使っていないわけです。
 何で暖とってなのかと思います。ベンジンか何か入れる丸いヤツ。ズボン下、腹巻、下着やら防寒具が多かったのかもです。
 そういえば、布団の中に電気アンカもありました。
 昭和末期に滋賀県の彦根にあった会社の社宅が木造で密閉性が低く、本当に布団かぶっても寒くてたまらなかったです。
 今は家の構造も断熱、保温性が高いのでしょう。暖房も衣類もいいものがあります。
 登場当時のホカロンは100円カイロと言われ、使い捨てなので学生や独身にはやや高いものだったかもしれません。
 今は大きなパックやハコに入って1個あたり15円~20円程度ではないでしょうか。

 使い捨てカイロですが、中身は鉄粉や水、活性炭、塩類、保水材が入っています。そして使い捨てカイロを開けることにより空気を窮して、鉄が酸化することで、熱が発生するという原理になっています。使い捨てカイロの原理自体は簡単で、中学生でも理解できる科学?化学なのか「理科」です。
 ロッテという会社は最初はお菓子に使うための脱酸素剤を作っている時に偶然脱酸素剤が熱を発していることに気づき、工学メーカーとともに開発したそうです。この酸化と熱の持続時間の折り合いが難しく、使い捨てカイロの発明の際には、上記の原料の配分に試行錯誤の嵐だったそうです。
 いずれにせよ、日本人のすごい発明ですね。

定年退職の後輩も多数

 定年退職後の職場で、年下の方が60歳定年を迎えるのを聞いたり、元いた会社の後輩も定年退職や、早期退職、再雇用継続を辞める、などなどの話を聞きます。
 自分が60歳きっちりで新卒から勤めた会社を退職して早くも5年経つのかと感慨深くなってしまいます。
 また後に続く人達、若い人たちのこれからにほんの少しでも役に立つ後ろ姿をみせたいものです。
 なんだかんだで、4月以降もまだ働くこととなりました。せっかく覚えかけやりかけもありますが雇っていただけること仕事があることには感謝し、天命と思って奉公しようと思います。天命は大げさで僭越かもしれないので、運というか縁のようなものでしょうか。
 60歳以上の生き方はそれこそ千差万別になります。今までの年齢は多くはどういう働き方をしていたかというものから分かれていきましたが、これからは働いていない生き方の人の割合も増えます。
 かなりニッチな趣味かと思っていた廃線ウォークで話題が合った人もいますし、化石や岩石のマニア、文房具の専門家で自分でボールペンなどをカスタマイズする人など、聞けば深いいろいろおられるものです。
 いずれにせよ、自分の生き方をよく見つめ直し縁を感じる世代が増えているのだとはおもいます。

人は何のために生きて来たか分かる歌があった

 ろくでもない1日ってありますよね。いくら心の広い人でも、難癖ばかりつけられてやりたいことができず時間が過ぎた1日。そんな日に限って巡り会わせが悪く、天気も体調も悪いような最悪のイライラが募るような日が私にもたまに来ます。
 先日も仕事でもさんざんみたいな一日の帰り、天気予報に反して、みぞれ交じりの雨です。しかも風も強く、服もかなり濡れるほどです。
 今日はいいことの無い日だと、泣きたくなるような気持ちでの信号が変わるのを待つ交差点で、お母さんの自転車の後部座席に合羽を着せられた子供が寒そうにしています。
 小さな折り畳みの傘、信号待ちの短い時間ですが、子供にだけでも雨がかからぬように差しかけてやりました。母親には見えないまま、信号が変わると自転車は走り去りました。子供ははにかんだ笑顔で手を振りました。自分が雨の打たれる状況は変わらず、むしろ濡れ方が激しくなったわけですが、気持ちは一変してモヤモヤもイライラも、悪い一日という気持ちは消えました。

その人はさっき僕が拾った
素敵なものを今の僕以上に
必要としている人だと
言う事が分かった

惜しいような気もしたけど
僕は それをあげる事にした(中略)

結局僕は そんな事を何度も繰り返し
最後には何も見つけられないまま
ここまで来た道を振り返ってみたら

僕のあげたものでたくさんの
人が幸せそうに笑っていて
それを見た時の気持ちが僕の
探していたものだとわかった

今までで一番素敵なものを
僕は とうとう拾う事が出来た
槇原敬之さんの「僕が一番欲しかったもの 」歌詞より抜粋です。

 前半の歌詞は、素敵なものを見つけては人に譲り、そんなことを繰り返している内に、時間だけ過ぎてしまったという嘆きでしょうか。
 人生の終焉が近づく頃、自分がこれまで歩いてきた人生を振り返ってみると大金持ちになったり、名誉や地位を得た者に比べ「虚しい価値のない人生を送ったかな?お金も残らないし、モノもたくさん持っていない。結局、いいことはあまりなかったかな?」
 そんなことはないでしょうと後半の歌詞は否定します。
 自分がこれまで人に譲り続けてきたものは、その人たちの笑顔とともに心に焼き付き、人生を豊かに彩ったはずです。たとえ、わかりやすくお礼を言われなくとも、人に譲った時の自分自身は輝いているのです。
 がめつく奪った時よりも爽やかな顔になっています。
 
 人生の目的は奪うことや貰うことではなく、大切なものを他人に与えることなのです。このことに気づけば、肥大する物欲をある程度断ち切り、幸福感がジワジワと増してきます。
 春を待つ驟雨の中、そういうものだなあと思いました。