一期一会の意味

 こんなことなら、もう少しアイツと喋ったりしたのに、、、

 一期一会(いちごいちえ)とは、茶道に由来する日本のことわざ・四字熟語です。
 私は歓送迎会などの挨拶で、好んでこの言葉を使います。大勢の飲み会、数人の飲み会でも、そのメンバーその人とまた同じよう集まれて会話ができるかというと、なかなかそんな保証はないものです。実際の6人以上のメンバーを、同じように集めるだけでも難しいものだと話しました。
 茶会に臨む際には、その機会は二度と繰り返されることのない、一生に一度の出会いであるということを心得て、亭主・客ともに互いに誠意を尽くす心構えを意味するです。茶会に限らず、広く「あなたとこうして出会っているこの時間は、二度と巡っては来ないたった一度きりのものです。だから、この一瞬を大切に思い、今出来る最高のおもてなしをしましょう」という含意で用いられ、さらに「これからも何度でも会うことはあるだろうが、もしかしたら二度とは会えないかもしれないという覚悟で人には接しなさい」と言う言葉通りです。


 還暦を過ぎたら、人生の師や先輩の訃報にも接することも増えます。
 そして、さらに悲しいことに同じ学び舎で過ごした友、職場で切磋琢磨した同年代の悲報も耳に入ります。いくら平均寿命が延びても60も過ぎればいつ亡くなっても当たり前と思っていても、自分と自分の周りだけは違うとバイアスがかかっているものです。

 一生に一度だけの機会「一期一会」という言葉の持つ意味も、自分が年齢を重ねるにつれさらに深いモノに変わってきた気がします。

 千利休の言葉かともされますが、献杯はお酒で。

コイバナ? DV離婚?大阪で酔いつぶれた可愛い人 

 化粧品メーカー時代の大阪での最後に近いコイバナ 都会であることは変わりないのですが大阪の街と京都の街の違いは何なのかと思うと、大阪は関西のおばちゃん含め人が多く、海が近いので川幅の広いこと、あちこちの地下鉄と高架の都市高速が走っていることでしょうか。
 大阪時代に一番美しくスタイルも良かったのは前に書いた伊東美咲似スーパーモデル級のIさんだったとは思いますが、同時期に一緒にお仕事させてもらったOさんは高くとまる感じの無い母性的で可愛い人でした。
 Oさんははじめて仕事で一緒になったのは、応援で行った滋賀県の事務所でしたが、その時の新しい配属で戸惑うとても優しい声で私の名前を呼んで、満面の笑顔で迎えてくれました。色白の童顔で優しい表情なのですが、スレンダーというよりはグラマーという言葉が合うような体系の人でした。男性目線で恐縮なぐらいですが、大きな胸をされていて、歩くと胸も揺れますし、タイトでやや短めなスカートでよく柄のあるタイツを穿かれ引き締まった脚でモンローウォークのように歩く後ろ姿もコケティッシュさがありました。
 仕事ぶりも真面目で献身的で、美容教育のスタッフとして企業相手の企画や商談に現場目線でさまざまな情報を集め、勉強をして考察してくれていました。その相談や提案を持ってくるときの声と表情の愛苦しさには癒されました。
 Oさんの仕事である美容の情報に関して、メーカー主導のヨイショ系雑誌ではなく、私は自分でLDKなどのメーカー忖度のない雑誌やネット記事を共有して密に協力していました。彼女の主宰するセミナーや社内外の教育は好評を得ていたはずです。

 それでも教育スタッフの上司は厳しいパワハラ系の女性、セクハラ系の幹部、取引先もあって大変な面もあったようです。
 ある時は、肝心のその優しい声が全くでなくなり、筆談で過ごしておられるときもありました。その体調の変化は1~2週間は続きました。
 また、ある時な声をかけるにはややためらうのですが、タイツのおみ足に痣のようなものが見えることがあり、「ケガをしたのか」と聞くと、「いろいろな病気と付き合っているんです。気にしないでください」とやんわりと優しい声のままでも毅然と返されました。なぜそれならスカートでなくパンツを穿かないかとも思うのですが、足が太く短いのでパンツスタイルはとても嫌なのだそうです。このあたりの女性のこだわりはわからないものです。
 後で噂のように聞きましたが、OさんもIさん同様に、子供がありながらも離婚されていて、原因は配偶者の暴力いわゆるDVだそうです。
 Oさんの体調不良や脚の痣が何が原因かは訊いていないのでわからないままです。
 ある夏の夜だったと思います。大阪の街で同僚とお酒を飲んでいて店から出てあるいている時、別の女性グループの飲み会の帰り道に遭遇して、大きな声でOさんに声をかけられました。足元もふらつくほど心地よく酔っぱらっていて、私に寄りかかってきました。
 Oさんは他の面々には、私に送ってもらうように告げて、ほとんど抱きついてくるような感じで私に支えられました。
 普段社内では清楚でコツコツと仕事をするイメージなのが酔って豹変した感じで「ダイジョウブ、大丈夫、まだ飲める」とも言いながら呂律もまわらないぐらいですが、しかたなく他の連中とは「お持ち帰り」のような印象で見送られて、もう一軒二人でハシゴ。
 さんざんそこでも飲んで、しばらく中央大通りの高架から、空を見上げながら歩きました。こちらも酔っていますし「大阪で生まれた女」「悲しい色やね」的歌詞で、酔いしれるフォークソングか演歌のような世界です。
 聞いていた法円坂のマンションは御堂筋の本町から地下鉄で終電までは時間もあり、たった2駅です。タクシーには半端な距離ですが地下の駅までの上り下りが面倒です。歩けない距離ではないのですがここまで酔っぱらってる女性をつれて大阪の深夜を2駅間も歩くのもまた何とも微妙です。やはりタクシーかと思いましたが、案の定近場NGで3台拒否、あきらめて地下鉄の駅に戻りふらふらの彼女を引っ張ってエレベーターを探して歩き、何とか肩抱いて改札をのけて電車まで行き座らせると寝そうになるので話しかける。駅につくと立たせて下ろすのが大変で火事場のクソ力よろしくお姫様だっこで抱えながら電車をおりてエレベーターから改札を目指し、ようやく少し歩けるようになったのでマンションまでの部屋まで何とか送り届ける。
 そこでさすがにこちらも酔いも回り、体力もつき、京都まで帰る方法もホテルを取る思いつかないほどで、彼女をとりあえずはベッドに寝かせると、ソファーなのか絨毯なのかにばったりでした。


 翌朝は気まずい「やってしまった」状態で、あんまり何も覚えてない彼女ですが、さっぱりした爽やかな対応でシャワーを用意してくれて、朝食を準備してくれました。
 簡単な朝食をとって、別々に出勤でした。
 それ以降は、Oさんとは少し距離おいて深酒やめていました。
 Oさんは当時のパワハラ上司は更迭されて、その後のポストに就かれ、管理職の道に進まれましたが、その後は知りません。

コイバナ? 仕事のパートナーはスーパーモデル 大阪時代 – 天使の星座 (seizafpkotodama.com)

阪急電車10分間のコイバナ – 天使の星座 (seizafpkotodama.com)

追悼:伊藤淳二元カネボウ会長  書評『天命』

 

 先日99歳で亡くなられていたという報道があった伊藤淳二(いとう じゅんじ)氏は、私が入社した時の鐘紡の社長でした。1922年(大正12年)中国青島生まれで、戦後すぐの1947(昭和23)年、慶應大学卒業後に鐘淵紡績(カネボウ)に入社され当時のオーナー社長・武藤絲治(むとう いとじ / 1903〜1970)の後継者指名を受け、1968(昭和43)年、45歳の若さで大逆転、クーデター人事で社長となった人物です。カネボウは経営多角化を推し進め、1984(昭和59)年、会長に就任、社長就任のストーリーは城山三郎のビジネス小説『役員室午後三時』 主人公藤堂のモデルとなりました。
 

 1985(昭和60)年の御巣鷹山の日航機事故後、政府(中曽根康弘首相)からの強い要請で日本航空副会長(翌年に会長)に招聘される。わずか1年で辞任しました。この経緯が山崎豊子『沈まぬ太陽』- 登場人物の国見会長のモデルとなりました。だいぶ美化されて、映画では石坂浩二が演じ繊維工場でを自ら糸を扱い差配している場面がありましたが、この当時すでに現場にいるような人ではなく、随分とデフォルメというか男前に描かれ映像化されていました。

 伊藤氏も今ではすっかり過去の経営者扱いですが、著名な作家の小説のモデルに二度もなった人物はそういないでしょう。 屈辱的失敗で日航会長を解任され、カネボウ専任に戻られるのですが、その後も会長として院政をはり、過去の成功にとらわれ傀儡的社長がコロコロ変わるだけで改革が進まぬまま、坂道を転がるように、事実上の経営破綻に落ちます。

「天命」は論語をはじめ彼が出会った様々な含蓄ある言葉を中心に生き方を著しています。多く方の書評や最近のコメントではその中身は古臭いという、褒めていても古き良き時代的なものです。時代としては少しあとになる稲盛和夫の著作に比べても、難解で衒学、知的顕示欲の強さが垣間見れます。
 ちなみに伊藤淳二は、社内で「知命教室」という幹部勉強会のようなもの、論語プラス経営という頭の痛くなるようなのをやっていて、それも社内で冊子が出回ってきて、ヨイショ的な内容が多いのですが、やはり博学であり衒学趣味でした。


「美しい人生とは美しい晩年を送り得る人、人生の一瞬一瞬をかみしめ「今」に燃え、毎日毎日を精いっぱい送る人であろう」という言葉には、大いに共感する部分もあります。

 しかし彼の晩年はどうだったのでしょう。博学でもありますが、稲盛和夫のフィロソフィーに比べると点が線につながらないような少し現実と合わなくなって、経営者としての評価は随分下がりました。
 自己顕示欲が強すぎ、後輩などの意見を受け容れての修正が難しいところがやがて綻びにつながったのではと思います。
 現実の社会は論語に心酔する一流大学出の向学心溢れた人間ばかりではなく、礼節や忠誠よりも私欲が優先するのが通例です。伊藤の思い、考えは本当の意味で浸透するわけではなく、権力者への盲従に支えられていたのかもしれません。

 そして、「未完の如くして完結して居る。果たされない様で果たされて居る。大切なことは、その時、自分の可能性の全てを尽くしたか否かであるように思う」という言葉で『天命』の最後を締めくくっています。
 日航会長時代でミゾをつけ、結局は鐘紡の栄華さえ砂上の楼閣のように崩れ去り、最後は大株主として元経営者として情けないような泥仕合も見せてしまいました。それでも未完と言っている以上矛盾ではないのかもしれません。
 未完であるが一時代を築き、実はそれなりの完結をしている。99歳まで永らえ、目的を果たし得なかったそういう生涯がありかもしれないです。

伊藤淳二と稲盛和夫 日航改革二人の明暗 – 天使の星座 (seizafpkotodama.com)

やはりみんな世間は言いたいことが言えない

  半沢直樹も日曜日夜に、サラリーマンにとっては明日の仕事を思い出しながらもスカッとする爽快なドラマでした。同じ原作者とは言え、女性版半沢直樹で二番煎じのさらにリメイク版で先週から「花咲舞が黙ってない」が放送されています。
 同じパターンで銀行の不正を追及し、主人公は過去の慣習も「できないと思いこまず、誰かが声を上げないと変わらない」とポジティブ名言をし、今流行り「キックバック」も追及します。
 こんなに言えるのは、本当の会社じゃない荒唐無稽すぎるとも言われそうですが、やはり一つ一つのことに、一人一人が「黙ってない」で変えていく速度は鈍り、もしくは止まったままです。
 不正発覚で瀕死の業績にある会社や某国政政党も、何人も出てきた「半沢直樹」や「花咲舞」の話を聞かず握り潰してきた報いでしょうか。
 それを言い出すと、いろんなところで古い慣習を打破できず老害とも呼べる人が禅譲して優待しないで権力にしがみつくことにより、若い人が生き生きと力を発揮できないようになった日本という国の病巣さえ見えてきそうです。
 テレビを見てキャラを楽しむだけでなく、それぞれの立場で正しいことを「お言葉ですが、、」と前置きしても言いやすい場所にしないとと思います。
 

西武大津店の思い出

 西武グループの創業者・故堤康次郎氏の出身地である滋賀県に、県下初の百貨店として1976年にオープン。開業初日は約13万もの人が詰めかけたことからも、県民からの期待がいかに大きかったかがうかがえます。
 先日びわこ博が小学校3年生の時、大阪万博1970年が小学校の5年生でしたから、私はオープン当時は高校生だったのです。
 当時は京都の大丸、高島屋、藤井大丸、丸物といったデパートしか知らず、多層建ての繁華街にある形態ではない西武は新鮮でした。
 高島屋や大丸といった老舗が高級品も扱いながらも、子供向けの玩具売り場や食堂、遊具が充実していたためか、売り場としての西武百貨店はやや物足りない感じもありました。その後トレンディとか言われるブランドが席捲する少し前の話です。
 その後、会社に入り滋賀県で営業にも周り、30歳てま頃、平和堂や当時でき始めたダイエーや西友なども担当した後西武百貨店も担当することになりました。
 今思うと、バンカラな野暮ったい独身でしたが、滋賀で最も垢抜けた商業施設を背伸びして担当させていただきました。
 当時、カネボウ化粧品としても初めてHF(アシェフ)という百貨店ブランドを作りようやくチャネル別流通に力を入れだした時でした。全国的にも百貨店ではそこにしかない外資が強く、そこら中の店にあるカネボウや資生堂は差別化に苦戦していたのです。今では考えられない強引な販売方法のアプローチデモというのが頻繁に行われ、普段は2名体制の派遣でしたが、デモやイベントだと各課の美容部員が動員され、ノルマがかかり大変いキツイ仕事でした。会場の設営、撤去、毎日の朝夕礼もあり休日フル出勤となり、当時会社の拠点は彦根になったため彦根と大津を何度も往復しました。実家が京都なので実家に戻って通えばといわれましたが、大津~京都もハンパな距離で携帯もパソコンもない当時は家に帰ると連絡などが厄介でうまくいかないものです。
 それで実家の電話で長話して、また返信があると取り次いだ母が、「彼女」かと期待した子もいますが、それは全くの誤解でした。

1968年大阪万博のプレ万博が滋賀で開かれていた!

 

 関西2度目の万博をあと1年後に控えて、かつての大阪万博にプレ万博があったことを思い出しました。
 例の西武百貨店大津店のラストを舞台にした「成瀬は天下を取りに行く」が本屋大賞を受賞しまして、再読して新作も読み書評を書こうとして西武大津店のオープンを調べていると「びわこ大博覧会」の会場址に建った事実に行き当たりました。
 滋賀ローカルの話題ですが、同博覧会は、大津市制70周年・滋賀県政100周年の記念行事として琵琶湖や滋賀県の未来像を捉えるべく開催され、また2年後に控えた日本万国博覧会への序曲と位置づけられていたそうです。このアーチ形の看板に描かれるているのは大津絵ですね。会場にはびわこ館(テーマ館、のちに市立科学館)、未来館などが並び、会期中の入場者は98万5000人を記録したそうです。西武百貨店現在のOH!MEやアヤハ、マックスバリュなどのあるにおの浜一体はこの埋め立て地にできたのです。
 1970年の大阪万博でさえ、小学生の5年生でしたから、この通称「びわこ博」は小学3年生でした。それでも、親に連れて行ってもらい、この埋め立て地の一部何だか舗装が水はけ悪いようなところをうねうねと歩いた記憶はあります。プレ万博としては大成功の動員だったとされていますが、私の親や兄はショボかった私がつまならそうだったと覚えています。
 今回はプレ万博どころではないのでしょう。
 西武百貨店大津店の思い出と、「成瀬」のレビューは明日以降にしましょう。

コイバナ? 仕事のパートナーはスーパーモデル 大阪時代

 本人も日本人離れした体格の大谷翔平選手、奥さんも元アスリートで高身長の美人でした。
あそこまでの体格のお相手だとさすがに150㎝ぐらいの女性だと釣り合わないように思います。
 もちろん、身長差のカップルも世の中にはあります。女性の方が背が高い場合もあります。
 私自身の好みとか言っても始まりませんが、170㎝ちょっとなので、横に並ぶのは160ぐらいまでがやはりいいように思います。今までお付き合いした女性も全て150センチ前半で、まあ平均的な日本人女性か、少し低いぐらいでしょうか。
 時代が移るにしたがい、同じ身長でも足が長くスタイルの良い方が増えだしました。
 初恋をしたような時代、同年代の女性たち昭和の女子は、みんな当たり前に小さく丸っこい感じでしたが、今の女優さんやアナウンサーの人や、大卒の子らは本当に細くてスタイルもいい。
 私はあんまり背が高くてスタイルの良い美人系は苦手で、化粧品会社でもそういう人は「ああキレイだな」ぐらいで全くつき合えるとか思いいたらず、かえって落ち着いてそっけない態度になってしまうようでした。その態度が結構、冷静で安心感を与えて好感を持たれた時があります。
 ある時、大阪で勤務しているとき、当時でいうと伊東美咲さんや武井咲さん、今はキャスターになられた膳場貴子さんのような本当に女優さんやモデルさんのような女性Iさんという方がおられました。私が少しお茶ら気を淹れながら毎月企業対策のプレゼンをするのをとても熱心に聞いておられ、上司を通じてその伊東美咲さん(仮)が「とても楽しみにしている。井上課長(当時)が大好き」と伝わってきました。
 確かに、当時企業としても自主回収白斑の対応もあり厳しい仕事が続いていて、私のプレゼンは一服の癒しだったようです。それでも、男女の「好き」である年齢ではありませんし、お互いに結婚もして子供もいるのでそういう意識は全くありませんでした。
 顧客や部下の対応に北大阪地区を同行して回る機会もあったのですが、気楽に打ち合わせがてら食事にも行き、送って帰るような時もありました。
 しかし、どうも社内では変な噂が立ちました。困ったことに伊東美咲さんは、ビジネスネームこそ変えていないのですが。中学生のお子さんはいらっしゃるものの離婚されて、バツイチのシングルマザーだという話なのです。
 確かにスタイルも良く美しい人ですし、あざとい裏の顔があるとも思えないタイプなのですが、このまま沼に落ちてしまうのは悩むところでした。
 結構多くの男性はこっそりと不倫に入るような会社でしたが、そこはもうちょっと私には無理でした。身長は私と釣り合わないくらい高くはなくて160㎝ぐらいまでですが、やはり私には150㎝ちょっとの平凡なスタイルと容姿のお相手が分相応なのです。
 

年金より減り続ける退職金 大問題

 京都市を財政破綻寸前に追い込んだ門川大作市長だが、今般4期を満了して2億の退職金を貰い悠々退任します。リニア反対で注目され、職業差別発言で辞職した静岡県川勝知事も4期目途中なので1億近い退職金を貰って逃げ切るようです。
 優雅な話、首長は自治体トップで大変な激務だからと一般市民は納得するでしょうか。
確かに4期16年とは言え、世間では15年程度働いて自己都合で辞めれば500~600万がせいぜいの退職金相場です。
 国会議員や総理大臣に比べても、地方首長の退職金は自治体にもよりますが、改革の進んだ大阪など一部除き軒並み高額です。
 これは、戦前まで首長は公選ではなく、中央が任官していた名残を引き継ぎ改革されていないところからきているようです。
 一般の公務員や企業に働く人は大卒で37年働いても、20年前は平均3000万円もらえたものが現在では2000万円程度に落ち込んでいます。川勝氏や門川氏のような年齢で、第二の就職をしたら、1億どころかゼロの場合も多いでしょう。60歳から再就職で退職金制度があったとしても10年勤めてもせいぜい100万にもならないでしょう。よほどオイシイ天下りで、理事や顧問、嘱託に就いても現役37年の2000万を超えるような退職金は民間ではあり得ません。
 しかし、彼らの減額や辞退をアピールしても、多少溜飲が下がっても庶民が貰える退職金が増える訳がないのです。
 前にも書きましたが、春闘の労使協議でベースアップや、ボーナスでは大きく騒がれ注目されますが、この20年間でひそかに退職金規定はどんどん改悪、減額されてきたののです。
 定年後のマネーライフの不安と言われる時代で、年金では足りないことが良く話題になりますが、年金給付の増額は年金財政、少子高齢化の構造で難しいのは誰でもわかるはずです。であれば大企業を中心に、給与や賞与とともに退職金も増額しなければ安心して働けないし、良い人材も集まりません。就職の情報に、給与や賞与、労働時間は書いてあっても退職金は制度ありとしか書かれていません。
 企業にとって負担ではありますが、確定給付企業年金、中小企業退職金共済は法人税非課税です。ここらの充実で若者も含めて働く人の不安を取り除かないと社会は殺伐と暗くなります。比較的若い段階でも、退職金と失業給付でしばらく休んでやリスキリングやリカレントで次の就職に備えられるようにできるのです。

平安貴族でも権力争い 本当の幸せ

お金があっても、モノをたくさん持っていても、エライ地位を得たとしても、それが絶対的に幸せかとは限らないものです。
 これに対してはそんなことはない貧乏で、貯金はおろか日々の糧もなければ心が荒み幸せになれるわけがないという反証もあり、それもやっかいなことに事実でしょう。衣食足りて礼節を知るという言葉もあり、やはり最低限お金はないと勉強もできないとは言えこれも一面の真実です。
 今年の大河ドラマ「光る君へ」で描かれている紫式部の書いた平安時代の貴族でも、現代の政治やビジネスの社会でも権力を握り、富を肥やすため権謀術策を企み、家族を顧みず、同僚の足を引っ張ったりしても本当に幸せをつかめるものではないのです。お金がないことは苦しいものですが、お金は少し毒を持っており心を驕らせ、乱れさせるものです。
 お金がなく、子供の頃から満足な勉強もできずを、いい学校にもいけずたいした仕事にも就けなかったといじけて世を儚む人もおれば、その厳しい条件でもコツコツ働き、少ないものを分け与えながら、努力を重ねやがて素晴らしい人間とあがめられた人もいます。
 結局日本や世界のどこかの貧しい人を助けることは、人の道を沢山紹介することです。
 誰かに多くを与えず、自分とせいぜい家族、取り巻きにだけ残して死んでいく人生はつまらないものです。
 たとえば親の金とコネで学校、会社と進み、親の資産を引き継ぎ少しは苦労したか、それでも大した苦労ではなく一見恵まれた人生の人がいます。それでも結局良い仕事はできず誰かに何かを与えることもなくいい年になり老後、健康を害することと死ぬことに恐怖する人はどこかで人生にやり足りないのです。
 そのことをとても空しく感じ、人生を嘆く人がいます。結局、恵まれた境遇で大した努力も分配もせず、富と権力、地位の維持だけに過ごした時は、仏教でいう六道、地獄に落ちるようなものです。修行をするとか、徳を積むというほどではなくとも、限らた時間の中でやれる可能性のあることは燃え尽きるぐらいまでやれば死ぬ恐怖とか、地獄に行くなどの思いはなく、やり切った満足で生涯を終えられるのではと思います。
 とてもそんな域には達せず、私自身もがき苦しんではいるものです。
 そのことは、よく考えて見れば分かることですが、それが分からない人が多いのです。それでも人の足を引っ張り罵ってまで出世しなくて良かったと思える時があります。

セルフレジ広がる かつてあった感動ムービー

 08年9月にフォレスト出版から発売の木下晴弘著の「涙の数だけ大きくなれる!」 で紹介されている「レジ打ちの女性」という感動ムービーがありました。歌はKOKIAさんの 「小さなうた」です。15年ほど前の作品ですが、心に響くストーリーと、癒しのある音楽に思わず泣ける作 品です。動画サイトで今でも見られます。
 自己啓発セミナーみたいなところが好きそうな(本当にそっち系かな)、取引先の社長さんが気に入って社員教育やらに使っていて、そこの幹部教育の修了式にオブザーバー参加した時動画を見ました。
 確かに暑苦しい感動する内容ですけど、10年以上経ってレジそのものが、当時のようにピアノのタイピングのようにレジを打つことはバーコード読みになって、さらに完全セルフレジになりレジ打ちのパートの人員すらいなくなってしまっていました。
 内容はネタバレなりますが。かつてピアノが好きであった、フリーターのような主人公が転職を繰り返し、もう実家に帰ろうとした矢先、母の手紙でピアノのことを思い出し発奮して行列のできるレジ打ち名人にるというものです。
 単純作業でも、どんな仕事でも直ぐ投げ出さずに、相手の気持ちや仕事の本質を知り、努力してやれば面白くなり人がついてくる。間違いではないですし、今も色褪せる内容ではないです。
 それでも、社会の急速な変化で仕事をイヤになった人が、さらに増えつつある時代です。今またどこかで感動ムービーは作られているのでしょうか。
 AIが何でも分析し、仕事の多くがこなされる時代、人間に残るのは結構難しい泥臭いキツイものかもしれません。それでも、それだからこそ、感動できるようなものを掴んだ人が、楽しく心地よく仕事でき、素晴らしい人生、天使が舞い降りるような生き方ができるような気がします。