敦賀の名所 松本零士ロード

 かつては東京とパリを結ぶ「欧亜国際連絡列車」が敦賀港駅を経由して走り、敦賀は「日本でも有数の鉄道と港の町」でした。交通の要衝の近代の宿場町で、欧州に渡航する人が、東京から敦賀まで列車を乗り継いできていたわけです。
 昨年85歳で亡くなられた松本零士さんは同市出身。銀河鉄道やヤマトの着想に敦賀を発着する列車や船のイメージがあったのでしょう。
 1999年に敦賀港開港100周年を記念して、市のイメージである「科学都市」「港」「駅」と敦賀市の将来像を重ね合わせて、「宇宙戦艦ヤマト」のブロンズ像12体、「銀河鉄道999」のブロンズ像18体の計28体のモニュメントを敦賀駅から気比神宮までのシンボルロードに設置されています。かつてのドラマのシーンを思い出し、たどりながら散歩するのも楽しいです。
人口減少の地方都市のならいで、商店街には閉まっている店も多かったですが、これからまた松本零士も見れなかった新幹線が来たのをきっかけに若者たちが街の未来を目指して欲しいものです。

福井県の賭け、未来はどうなる北陸新幹線 – 天使の星座 (seizafpkotodama.com)

福井県の賭け、未来はどうなる北陸新幹線

 明治以前の旧越前国と若狭国が今の福井県です。現在の福井県というのは、失礼ながらややマイナーな県、とくに首都圏からは遠くて県名、県庁所在地、位置などもなかなかクイズでも完全正解できないぐらいではと思います。北陸3県の中でも、百万石の金沢と能登半島のある石川県、黒部ダム、立山のある富山に比べると、福井は一番知られていないのではと思います。
 その福井県にこの2024年3月新幹線が延伸開業し、大いに注目されています。
 とは言え東京から福井まで乗り換えなしでいけるということで、逆に関西や名古屋方面からは直通の特急がなくなり、敦賀乗り換えとなります。運賃も上がるわりには乗り換えの面倒が生まれ、距離は長くないのでそれほど時短効果もありません。


 関西からは一番近い、中部北陸の県の一つですが歴史的にも文化的にも近畿の影響は大きいいところです。実は廃藩置県後の一時期、明治9年今の福井県は嶺北地方を石川県、嶺南いわゆる若狭と敦賀あたりまでを滋賀県と合併して消滅していた時代もあります。嶺南地域といわれる旧若狭国は近畿の天気予報にも入り、中部都の中間とも言えます。

 明治14年、福井城のあった福井市を県庁として47都道府県の一つ福井県は誕生します。敦賀も日本海の重要な港湾で、鉄道の要衝でもありましたが、南部であるため、やはりどこの地域からも便利な福井が選ばれました。歴史好きには源氏物語にも描かれた国府の武生、戦国時代朝倉市の一乗谷、柴田勝家の北の庄があったあたりが越前の中心と言えます。
 若狭地方は、今回の敦賀延伸後はたして小浜ルートで新幹線は来るのか微妙なところで、いずれにせよあと十数年は開業のめどは立ちません。

 北陸新幹線の敦賀延伸は福井に何をもたらすのでしょうか。かつて欧州へつなぐ交通の要衝でもあった敦賀ですが、現在の人口は8万程度で地方の小都市で新幹線の終着駅としては、他の都市と格が違うのは否めません。県庁のある福井市を含めて、東京とのつながりを新たに強力にして、なおかつ関西や中京とのつながりを持ち続けるという独自色でどこまで勢いを取り戻せるでしょう。地震被害を受けた石川県とともに、福井が日本海側のモデルケースとして地方再生、過疎化、人口減少、高齢化という課題をクリアしていけるのか、新たな局面を迎えます。

3月16日からの時刻表を見て 未来の日本

 駅の時刻表掲示板や紙で配られるポケット時刻表がどんどんなくなる時代ですが、マニアにとっては分厚い時刻表は必須の愛読誌です。私もさすがに毎月ではないですが、大きな改正がある春には買います。
 3月16日改正は北陸新幹線延伸が路線図に反映され、敦賀~福井は北陸本線ではなく新たにできた「ハピラインふくい」と石川県の部分は「IRいしかわ鉄道」となります。北陸本線とは「北陸」とは言え、米原から敦賀の45キロmあまりの短い区間になり、大部分が滋賀県で長浜以南米原までは愛称「琵琶湖線」ですのでもう改称してもよさそうなぐらいです。
 写真の時刻表もかろうじて三セクでJRのページのくくりには入り、普通電車の本数はそれなりですが、福井県内を乗り通す電車は少なく、サンダーバードやしらさぎ、かつては寝台特急まで縦横に走った優等列車は皆無となり寂しいものです。
 京阪神からはそれなりで東京から遠い北陸、福井県のこの交通体系の変革はどうでるでしょう。金沢延伸が成功のビジネスモデルでしたが、福井、敦賀というのは関西圏、中京圏に近かっただけに、東京一極加速の仲間入りを果たすのか、少なくとも福井と京都、大阪、名古屋は特急乗り換えで確実に運賃は上がり不便となります。
 富山、石川も新幹線ができ、関西からの乗り換え需要は減りました。その分東京からが増えてペイはできているのですが、今後も大丈夫なのかというのかという面と、関西が相対的な地盤沈下につながるのでは思います。
 そして、今回の能登半島地震とその後のインフラ復興の遅れで見られる、新幹線はあっても一部の恩恵はあっても偏りがあり、地域全体のインフラ整備など住民の環境、産業の活性につながっていないのではという疑問が沸きます・
 リニアも含めて、地方への新幹線は未来の日本にとって重要で必要だとは思いますが、環境も含めてその地方の経済を回しどう再生、活性化していくかを見極めて進めないとと思います。一時的に大手ゼネコンや外資はじめ東京の資本が潤い、地元に住む人の教育や、買い物、医療、住環境などが配慮され、この地域に住んだらいいなと思えるようにしないと、未来の日本はないのです。

日本の鉄道は150年やはりスゴイ

 昨年が日本に新橋~横浜に鉄道が走って150年ということで、いくつかの書籍が上梓されていました。
 写真も多く豪華な本も多いので、今年になって借りて何冊か読ませてもらいました。
 鉄道好きで、鉄道の番組もよく見ます。新型車両の紹介が話題になりますが、綿々と続いた過去からの車両やシステムの技術と先人の血のにじむ努力で築いた路線があってこその成果です。
私は理系ではないですが、蒸気機関車をはじめ、ブレーキのシステム、新幹線の進化などは趣味から学びました。素人が考えても日本の鉄道関係者のあくなき努力と英知にはすごいものがあります。鉄道会社の開発者、技術者は本当に時代を読み、経営者や市民のため使命感をもって仕事をされてきたのが、いくつの書籍や報道でもよくわかります。

 日本は明治維新当時世界の先進国から離れた島国で、機関車など最初はイギリスなど欧米から輸入していました。当然、コスト的にも割高で線路の敷設、駅や施設の工事にも巨額の資金がかかりました。初期の頃は近距離でも庶民の乗れるようなものではなく、とんでもない贅沢な乗り物でした。それが逆に転じ、狭軌で始まった日本に合った機関車を作成しはじめ、技術陣が形成されていくのです。
 そして、国産に頼らないといけない状況から、その技術陣は厳しい条件に中で様々な本家を上回るモノを産みだします。
 狭軌の限られた空間で効率的に作業できる蒸気機関車、カーブの多い山岳路線で乗り心地良く高速で走れる振り子電車などは、いかにも日本的に進化しました。
 戦中戦後の疲弊期を経て、高度経済成長の大量の物流と通勤輸送にも、求められる変化に対応して、迅速に新型の車両や施設を作り出したのが鉄道会社であり、その技術陣でした。大量輸送を、正確な時間と安全を確保しつつ、高頻度で実現したのは日本人の几帳面さと真面目さ、勤勉さが成し遂げた、世界に誇れる電車とその運行システムのスゴ技です。


 モータリゼーションの時代で、特に地方では相対的な鉄道の輸送機関としての地位は下がった昨今です。
 かつては機関区や貨物駅のある大きなヤードを持った鉄道施設が地方にもたくさんあり、転車台や、石炭や水の補給などの要員もたくさんいる鉄道の街とも呼ばれました。
 下手をすると令和の世では、そんな駅でさえ合理化で駅員がいるかいないかに成り下がり、ICカード対応機のみが寂しく立っているかもしれません。この省力化も日本の技術ならではです。
 駅員や乗務員が苦労して、手計算で発券しハサミでパンチしていた切符はもはや紙ごとなくなり自動発券の販売機さえなくなりつつあり、ICカードに淘汰されています。
 150年というと、本当にいろいろと栄枯盛衰があったはずです。
 近代史というにふさわしいボリュームです。

阪急電車10分間のコイバナ

 数年前、阪急電車の西院駅に西大路通りの従来からの改札口だけでなく、東側に嵐電直結の改札ができて乗り換えがスムーズになったため大阪通勤時代、京都地下鉄経由JR利用から京福電車経由阪急利用に切り替えた時がありました。今、私の娘もこのルートで梅田に通っています。
 運賃が安く、所要時間があまり変わらず、梅田が始発になるため着席率がアップするためです。
 大阪時代は長かったものの最初は支社が京橋で京阪経由、その後本町といっても西の信濃橋、立売堀のあたりでしたたからJR通勤時代のあとは、梅田からでも天神橋筋六丁目からでも阪急に入るようにしていました。
 前置きが長くなりましたが、そんな阪急時代に梅田から帰りの電車でたまに一緒になった女性のお話。

 ほとんど忘れかけていて名前や仕事内容もうろ覚えですが、事務系の経理か企画か何かの仕事で助けていただいたか、助けたかで顔見知り程度でした。細面のキレイ系の方だったとは思います。仮のR子さんとしておきましょう。
 ある帰りの電車で、偶然隣のつり革を掴んでいるそのR子さんと目が合いお互いびっくりしてしまいました。同じ会社からでて、地下鉄に乗り阪急の梅田まで行ってから、偶然同じ車両の同じ位置なのでした。私は京都まででしたが、R子さんは大阪府内の途中までなので10分ほどの間です。
 何を話していたかも、あまり覚えていない程度でしたが、どこまで乗るのかとか、夕ご飯はどうするのとか、社内の噂話と他愛のない世間話でした。
 それでも、お互いに降りる駅の階段の位置などで、その同じ車両に乗るのか、何回か出くわすことがあり、何となくお互いの仕事や家庭の愚痴や、見ているドラマだったり出身や会社に入る前の経歴など会話が弾んだものです。年齢は不詳でしたが結婚して中学のお子さんもおられ、およそは想像できました。
 なかなか楽しい会話ができ少し楽しみな時間でした。
 ある日彼女、いきなり「井上さん、離婚を考えたことはないですか」と聞かれました。
 私は自の経験で何度か考えた時の事と、家族の病気やら転勤での複雑になった時期の気持ちの揺れ、思いとどまった状況を率直に話し、R子さんは真剣にうなづいていました。R子さんのお相手はもう少し粗暴な感じで、酒癖が悪く金銭にもルーズで、自身も何度も離婚を考え、都度思いとどまっている話をしました。結婚した以上、見えなかった面もありながら好きな面ももちろんあるのでしょう。
 それでも、一番最大の理由は、「離婚するのにはパワーがすごくいって面倒くさいですよね」と最後は二人で笑っていました。電車が急ブレーキをかけて、R子さんの身体が私に寄ってきて思わずドキッとしました。
 人身事故かなとも思いだしたが、ほどなく電車が動き出しました。
「私ね、この時間が好きなん。たまにこのままずっと、井上さんとこんな風に面白い話して電車に乗っていたいと思うの」
 私は少し照れて、肯定的な話をしました。
 それから、何日か経ったある日。R子さんは退社する私を呼び止めて一緒に帰ろうと誘いました。
「もう、こうして阪急に乗っておしゃべりするのも最後、私退社するねん、山陰に行くの。主人が実家の島根の仕事に就くんでね」
「それは、寂しくなりますね」
「悩んだんやけどね。井上さんもお元気でね」
 LINEでメッセージを交換するのはまだ一般的ではなく、ちょっと危ないとも感じて、連絡先も聞かず本当にその時、阪急電車から降りる彼女を見送るのが最後でした。後ろ姿が美しく細いおみ足なのが印象的でした。
 JRよりは混雑はマシでも梅田から、茨木市の混雑したアーバンな路線はシュッとしたR子さんに良く似合っている感じで、そっちの地方の方には失礼ですが、山陰本線や一畑電車は似合いそうにあいません。
 R子さんが降りるその阪急の駅にそのままいっしょに行きたい気持ちを抑え、扉がゆっくり閉まり発車していきます。R子さんが振り返ってやや寂しげな表情で手を振っていました。
 数えたら、数回の、ほんの10分間の阪急電車でのホンの少しのときめきトークは延べ1~2時間で思い出の彼方に消えていきました。
 阪急の梅田が大阪梅田と名前を変え、大阪の勤めから変わっても何回となく仕事や遊びで大阪へは阪急を利用しています。R子さんの駅ではそう思わないのですが、千里線と交わる淡路駅付近で先の電車が止まっていて駅に入れず待たされることがよくあります。イライラするほどではないのですが、R子さんと帰るあの楽しい時間にこの遅延があったらと思うことはありました。
 その遅延も、淡路駅付近が高架化されると解消されそうですが、いまだに完成する目処はしありません。
 R子さん今はどうしてるのかと淡路駅間で止めるたびに考える時があります。

もう切符の券売機すらなくなっていく駅

 ある私鉄で、ICカードのチャージはできて、もちろん改札はあるけれど普通の切符を買う券売機はなくした駅がいくつかでき始めました。
 かつては自販機があったところは、使い切った切符や古いカードを捨てるゴミ箱のようなスペースになっています。
 もちろん鉄道ができた頃は、切符は全て硬券で窓口で手売りして、改札は駅員が切符にハサミを入れていました。それが自動券売機で切符を客が路線図と料金を確かめ、お金を入れて買うのが当たり前になり、券売機は沢山あっても、行楽シーズンやら混雑の時は長い行列ができていました。
 自動改札機ができ、切符を即座に読み込んで切符切りの駅員は不要のシステムができましrた。やがてその切符すらICカードにとって替わられ、激減してきてたどりついたのが今回の券売機削減です。
 硬券の切符が懐かしいと思っていたら、もう切符そのものを知らない世代が出てきているのです。
 かつて、沢山の券売機があった痕跡が残り、今や駅員さえいなくなろうとする駅、未来が読み切れなかった駅の構造も何だか哀れ、情けないです。
 何年か経つと、自動運転も始まり、また新たに無くなって変わるものができるでしょう。
 

1975年、映画「新幹線大爆破」の頃

 昔の映画を観ていると、当時の鉄道の車両や風景、その役割すらがその時代らしく出てきて驚きます。
 松本清張の「点と線」「張り込み」などは新幹線以前の昭和40年頃の長距離は夜行列車が当たり前の時代が映像に残っています。
 「新幹線大爆破」はようやく山陽新幹線が博多まで開業した年の作品です。1両のみの禁煙車が登場するのは翌年からで、乗客が平気でタバコをくゆらせていました。もちろん丸いゼロ系列車で2階建ての100系は1985年の登場です。


 高倉健、丹波哲郎、宇津井健、千葉真一、志村喬ら当時の東映のオールスターキャストでの娯楽サスペンス大作です。
 「暴走機関車」「夜空の大空港」にサスペンス部分などでアイデアを得ているところもあり、また後の映画、ドラマにオマージュや影響を与えた要素も多い映画でした。
 撮影協力を交渉したところ、安全を謳い文句にしていた国鉄は、刺激的な映画のタイトルに難色をしめし、協力をしていないのでセットやミニチュア、はめ込み合成になっているところは映画屋さんの意地が見え、愛嬌のあるところもあります。それでも指令室や東京駅などをかなり大がかりなセットで作り、実際に犯人が脅しに爆破するSLを購入するなど、当時ならではの破格のお金のかけようです。
 興行的には、まだ新幹線が全国に及んでいない時代で、面白いお金をかけた映画なのに元が取れるほどヒットはしなかったようです。映画を観たファンにはウケたようで、評価は高かったようです。
 鉄道ファンからもマニア的な厳しい指摘は多くあり、実際にはあの設定では爆破してしまうだろうとの指摘も問題もありましたが、結局面白かったとの評価はあったようです。
 航空機パニックなみに、お医者さんが乗車していないかの放送があったり、まだまだ新幹線は高値の花だった時代で、高度成長への暴走が止まらない世相でした。
 当時、爆破テロなどの模倣犯を心配されて、国鉄が上映中止を要望したほどでした。
 ほとんどの電車が完全禁煙になり、地方にも新幹線が走り出した今に至るまで、爆破などの大事故は起こっていないことは、国鉄とそれを引き継いだJRの鉄道マン、関係者の努力は見逃せません。 

北陸新幹線 楽しみばかりではない

 2024年3月ダイヤ改正で、大きなエポックと変化は北陸新幹線の敦賀延伸開業とその影響です。
1月1日の能登地震では、一瞬誰も開業が延期と危ぶんだものですが、被災地とはやや離れてもおり、3月以降は北陸支援の輸送、旅行などのアクセスとしても利用されそうです。
 こうやって見ると能登半島は大きく、かつて石川県は加賀と能登に分かれていたのも分かります。
 県南部の山代温泉など加賀温泉郷や県庁のある金沢から、能登半島の先までは新幹線で富山、新潟と回って長野なでいける距離感があります。

 しかし、この北陸新幹線は本当に大阪まで到達するのか、リニアとともに一体いつなのかルートの選定や実現可能性とともに難しいところです。
 ここでは敦賀までの、今回の延伸だけ考えてみましょう。
 金沢延伸は予想以上に好評で、新幹線効果での首都圏からの観光客はじめブームとも呼べるほどの成功と言われています。
 長野までは、五輪のタイミングもあり、早期に開業し、一時長野新幹線と言われていたものですが、新潟県南部、富山、石川と首都圏が直結したのでから、その効果は大きいものでした。
 
 今回の石川県南部から福井県までのルートは微妙です。
 確かに、東京からダイレクトに石川県の南部の加賀温泉郷や、福井県のあわら温泉、福井市、敦賀市へと結ばれることでこの地域への観光客は増えるでしょう。
 もともと関西の奥座敷的な役割の温泉街、経済圏としても関西との結びつきが強かった福井は、直通の特急がなくなり、10分程度のわずかな時間短縮で料金の高騰と乗り換えのわずらわしさで不便になります。
 東京一極集中の加速です。そのバランスの問題です。富山は、前回の金沢延伸で関西からは不便になり乗り継ぎでの関西方面の往復が1~2割減り、首都圏との往来でそれ以上カバーしました。関西依存の高い今度のこの地域はどうでしょう。
 今回は関西からの直通のなくなる金沢からがその影響を受けだします。金沢はターミナルではなく通過駅になり、県以南と福井が首都圏からの流動を奪い合うライバルになります。
 もうひとつ敦賀にとっては、もともと米原経由名古屋から東京というルートがあり料金は2580円高く、時間も30分ほどかかり、乗り換えがないだけで利便が上がったとはいいづらいところです。
 かつて、港町として栄え、鉄道ができてもシベリア鉄道へ連絡する交通の要衝だった敦賀で私はこの町は好きですが、再度注目される今回の再ターミナル化でどうなるか、なかなか微妙なところです。
 この図の北陸新幹線とリニア見れば見るほどよく作るものだと思う距離で、時間的に完成を自分では見れそうにないですが、東海道一本の代替ルートとしても必要ではあり、未来にちゃんと残るのか期待と不安があります。
 
 
 

熊本から能登へ そして三陸、阪神からも 1.17

今日は阪神淡路大震災から29年経った1月17日です。能登で今年も大地震があり、感情的に走り直ぐに被災地支援にかけつけることがパフォーマンスで迷惑と是非が論じられます。いずれにせよ被災の支援、復興支援は地道に継続してお金のかかることです。 

 熊本地震で被災して運休となっていた南阿蘇鉄道(以下南鉄)・立野―中松間が昨年2023年7月15日に復旧し、7年3カ月ぶりに全線再開を果たしました。

 南鉄は南阿蘇村、高森町など沿線自治体が出資する第三セクターの鉄道会社。熊本から大分方面に延びるJR豊肥本線の立野駅を起点として、熊本県の阿蘇カルデラの南側を走って高森駅に至る17.7kmの路線を運営しています。もともとは国鉄高森線でしたが、JR化前のいわゆる第一次の赤字ローカル線廃止方針となったことを受けて同社が継承しました。草村社長は高森町長が務めています。そして吉良清一副社長は南阿蘇村の村長など資本面、経営面で沿線自治体と一体化しています。
 2016年4月14日、熊本地震が南鉄を直撃しました。一部区間が比較的軽微で3カ月後に運転再開したものの、立野―中松間は第一白川橋梁など重要インフラが被災。「廃線を考えるほど甚大な被害を受けた」と言われ、なにせ被災直前の同社の売上高は1億円程度でした。これに対して、試算された復旧費用の総額は65~70億円ともされ、とても負担できる金額ではなく廃止という暗雲が漂いました。
 地域の公共交通機関として通学や通院の乗客に不可欠な存在であり、ローカル移住促進にも重要なツールである。何より、地域にとって観光は産業の柱で、雄大な阿蘇を眺めながらゆっくりと走るトロッコ列車はその象徴ともいえ、鉄道の廃止がもたらす観光への悪影響は避けたい。「鉄道での復旧しかない」という経営決断により、ありとあらゆる関係者への努力を積み重ねたそうです。
 
 そして、その前の東日本大震災から3年で復旧にこぎつけた三陸鉄道のスキームも参照していました。その三陸鉄道はJR山田線区間を移管されて全線開通半年後の2019年10月台風で再び被害を受けて甚大な被害で7割が不通区間になり翌年3月にようやく全線復活。それこそ励まし合うように南鉄が7年3か月ぶりに復旧した年、コロナ禍がほぼ終息して三陸鉄道にも新駅も開業、朝ドラテーマの観光列車も走り始めたばかりでした。

 個人的な想像ですが、田舎の町長、村長とて決して暇ではなくさまざまな仕事、議会もあるはずですし、決して給料を上げて働いたわけでもないでしょう。身を切る改革とアピールしたわけでもないでしょう。頭が下がる思いです。

 この南阿蘇鉄道が今、今年1月1日に壊滅的被害を受けた石川県の三セク「のと鉄道」に県下他2社(肥薩おれんじ鉄道、くまがわ鉄道)とともに募金を募り、エールを送っています。
 1月17日は関西では阪神淡路大震災が思い起こされますが、断続的に能登は余震も続き不明者の捜索、避難している方、断水などライフラインが未だ復旧していない状況が続いています。
 私も熊本にはふるさと納税もして、ネットで南鉄の切符やグッズを買ったりしていましたが、なかなか全国各地大変です。関西の方、全国の方も、特に富裕層の方、優雅な旅のファンの方、興味のある方は落ち着いたら能登の支援、ファンドなどもお願いします。
 

1995年の大震災が促進したもの 兵庫県のローカル線

 先日、兵庫県の山陽線加古川からの加古川線に乗り、その中間駅、西脇市駅(当時野村)から分岐していた鍛冶屋線の廃線散策に行きました。
 JR西日本では昨年和田岬線から103系が引退したため加古川線と播但線、JR九州の筑肥線だけとなりました。
 鉄道好きでない人から103系ってなんだと言われると、国鉄が作った通勤型電車で山手線などを席捲した黄緑モノトーンの四角い電車で、過去現在通じ日本一の製造数を誇りました。国鉄車両を多く引き継ぎ改造延命で永らえさせていた西日本ですが、いよいよ残りわずかとなりました。電化されたとはいえ兵庫県中西部のローカル運用で1両もしくは2両の運用でほのぼのと田園や山間を走っています。
 この加古川線は西側の姫路から北に向かう播但線と並び、兵庫県を南北に結び、それぞれ但馬地方の山陰側に結んでいました。比較的人口の多い山陽側に比べ、北へ向かうほど賑わいはなくなり、車両も少なくなります。
 播但線が途中までしか電化していないのに対し、加古川線は2004年に全線電化されました。すでに支線の鍛冶屋線や三木鉄道(旧三木線)が廃止、粟生で連絡する北条線が三セク化して、神戸電鉄粟生線も乗客減で赤字に苦しむ加古川線もモータリゼーションの並で厳しい中でした。なぜ加古川線が、古い103系の1両で北部は2~3時間に1本の過疎ダイヤとはいえこの時期に電化されたのでしょうか。
 そのきっかけは1995年の阪神淡路大震災でした。分断された京阪神~山陽への山陽線はじめ私鉄の代替ルートとして、播但線、加古川線が迂回路の役割を果たしました。このように非常時の備えとしての意義が再認識された路線でもあるのですが、どちらも非電化で貧弱な輸送力で気動車も不足しており、単線とはいえ、トンネルの少ない架線の工事がしやすい加古川線は電化が進められたのでした。


 それでも、西脇市以北の福知山線谷川駅までの区間は、JR西日本の電化区間の営業系数ワーストで、大雨での遅延も多く、地元と廃止の協議も進み今や存亡の危機ではあります。103系の後継電車が颯爽と走る可能性は低いかもしれません。
 私も震災の時、このう回路で谷川駅を利用した時があります。その時は山間の谷川駅が大変な混雑で、福知山から乗り換える、京都に向かうディーゼル特急も指定がとれないほどでした。しかし、震災から数年経つと、谷川駅は乗換駅とは思えないほど閑散とした小駅に戻っていました。
 山陰線も城崎まで電化されましたが、整備が進む高速道路はそれ以上で新しいモータリゼーションの波が鉄道の存在を脅かします。
 バスやトラックの業者、乗用車のお客は道路を作り、維持する心配はないので、そもそも鉄道は公共交通としては不利です。
 西脇市という、小さな市も街中を貫いた鍛冶屋線が無くなり、代替のバスすら走っていない典型的なクルマだけが主となる移動手段の街です。
 加古川線の沿線の、社や、小野、瀧野はじめ、日本全国の多くの地方でこれからどんどんこういった廃線跡を遊歩道にするしかない街が増えていくのでしょう。