一期一会の意味

 こんなことなら、もう少しアイツと喋ったりしたのに、、、

 一期一会(いちごいちえ)とは、茶道に由来する日本のことわざ・四字熟語です。
 私は歓送迎会などの挨拶で、好んでこの言葉を使います。大勢の飲み会、数人の飲み会でも、そのメンバーその人とまた同じよう集まれて会話ができるかというと、なかなかそんな保証はないものです。実際の6人以上のメンバーを、同じように集めるだけでも難しいものだと話しました。
 茶会に臨む際には、その機会は二度と繰り返されることのない、一生に一度の出会いであるということを心得て、亭主・客ともに互いに誠意を尽くす心構えを意味するです。茶会に限らず、広く「あなたとこうして出会っているこの時間は、二度と巡っては来ないたった一度きりのものです。だから、この一瞬を大切に思い、今出来る最高のおもてなしをしましょう」という含意で用いられ、さらに「これからも何度でも会うことはあるだろうが、もしかしたら二度とは会えないかもしれないという覚悟で人には接しなさい」と言う言葉通りです。


 還暦を過ぎたら、人生の師や先輩の訃報にも接することも増えます。
 そして、さらに悲しいことに同じ学び舎で過ごした友、職場で切磋琢磨した同年代の悲報も耳に入ります。いくら平均寿命が延びても60も過ぎればいつ亡くなっても当たり前と思っていても、自分と自分の周りだけは違うとバイアスがかかっているものです。

 一生に一度だけの機会「一期一会」という言葉の持つ意味も、自分が年齢を重ねるにつれさらに深いモノに変わってきた気がします。

 千利休の言葉かともされますが、献杯はお酒で。

コイバナ? DV離婚?大阪で酔いつぶれた可愛い人 

 化粧品メーカー時代の大阪での最後に近いコイバナ 都会であることは変わりないのですが大阪の街と京都の街の違いは何なのかと思うと、大阪は関西のおばちゃん含め人が多く、海が近いので川幅の広いこと、あちこちの地下鉄と高架の都市高速が走っていることでしょうか。
 大阪時代に一番美しくスタイルも良かったのは前に書いた伊東美咲似スーパーモデル級のIさんだったとは思いますが、同時期に一緒にお仕事させてもらったOさんは高くとまる感じの無い母性的で可愛い人でした。
 Oさんははじめて仕事で一緒になったのは、応援で行った滋賀県の事務所でしたが、その時の新しい配属で戸惑うとても優しい声で私の名前を呼んで、満面の笑顔で迎えてくれました。色白の童顔で優しい表情なのですが、スレンダーというよりはグラマーという言葉が合うような体系の人でした。男性目線で恐縮なぐらいですが、大きな胸をされていて、歩くと胸も揺れますし、タイトでやや短めなスカートでよく柄のあるタイツを穿かれ引き締まった脚でモンローウォークのように歩く後ろ姿もコケティッシュさがありました。
 仕事ぶりも真面目で献身的で、美容教育のスタッフとして企業相手の企画や商談に現場目線でさまざまな情報を集め、勉強をして考察してくれていました。その相談や提案を持ってくるときの声と表情の愛苦しさには癒されました。
 Oさんの仕事である美容の情報に関して、メーカー主導のヨイショ系雑誌ではなく、私は自分でLDKなどのメーカー忖度のない雑誌やネット記事を共有して密に協力していました。彼女の主宰するセミナーや社内外の教育は好評を得ていたはずです。

 それでも教育スタッフの上司は厳しいパワハラ系の女性、セクハラ系の幹部、取引先もあって大変な面もあったようです。
 ある時は、肝心のその優しい声が全くでなくなり、筆談で過ごしておられるときもありました。その体調の変化は1~2週間は続きました。
 また、ある時な声をかけるにはややためらうのですが、タイツのおみ足に痣のようなものが見えることがあり、「ケガをしたのか」と聞くと、「いろいろな病気と付き合っているんです。気にしないでください」とやんわりと優しい声のままでも毅然と返されました。なぜそれならスカートでなくパンツを穿かないかとも思うのですが、足が太く短いのでパンツスタイルはとても嫌なのだそうです。このあたりの女性のこだわりはわからないものです。
 後で噂のように聞きましたが、OさんもIさん同様に、子供がありながらも離婚されていて、原因は配偶者の暴力いわゆるDVだそうです。
 Oさんの体調不良や脚の痣が何が原因かは訊いていないのでわからないままです。
 ある夏の夜だったと思います。大阪の街で同僚とお酒を飲んでいて店から出てあるいている時、別の女性グループの飲み会の帰り道に遭遇して、大きな声でOさんに声をかけられました。足元もふらつくほど心地よく酔っぱらっていて、私に寄りかかってきました。
 Oさんは他の面々には、私に送ってもらうように告げて、ほとんど抱きついてくるような感じで私に支えられました。
 普段社内では清楚でコツコツと仕事をするイメージなのが酔って豹変した感じで「ダイジョウブ、大丈夫、まだ飲める」とも言いながら呂律もまわらないぐらいですが、しかたなく他の連中とは「お持ち帰り」のような印象で見送られて、もう一軒二人でハシゴ。
 さんざんそこでも飲んで、しばらく中央大通りの高架から、空を見上げながら歩きました。こちらも酔っていますし「大阪で生まれた女」「悲しい色やね」的歌詞で、酔いしれるフォークソングか演歌のような世界です。
 聞いていた法円坂のマンションは御堂筋の本町から地下鉄で終電までは時間もあり、たった2駅です。タクシーには半端な距離ですが地下の駅までの上り下りが面倒です。歩けない距離ではないのですがここまで酔っぱらってる女性をつれて大阪の深夜を2駅間も歩くのもまた何とも微妙です。やはりタクシーかと思いましたが、案の定近場NGで3台拒否、あきらめて地下鉄の駅に戻りふらふらの彼女を引っ張ってエレベーターを探して歩き、何とか肩抱いて改札をのけて電車まで行き座らせると寝そうになるので話しかける。駅につくと立たせて下ろすのが大変で火事場のクソ力よろしくお姫様だっこで抱えながら電車をおりてエレベーターから改札を目指し、ようやく少し歩けるようになったのでマンションまでの部屋まで何とか送り届ける。
 そこでさすがにこちらも酔いも回り、体力もつき、京都まで帰る方法もホテルを取る思いつかないほどで、彼女をとりあえずはベッドに寝かせると、ソファーなのか絨毯なのかにばったりでした。


 翌朝は気まずい「やってしまった」状態で、あんまり何も覚えてない彼女ですが、さっぱりした爽やかな対応でシャワーを用意してくれて、朝食を準備してくれました。
 簡単な朝食をとって、別々に出勤でした。
 それ以降は、Oさんとは少し距離おいて深酒やめていました。
 Oさんは当時のパワハラ上司は更迭されて、その後のポストに就かれ、管理職の道に進まれましたが、その後は知りません。

コイバナ? 仕事のパートナーはスーパーモデル 大阪時代 – 天使の星座 (seizafpkotodama.com)

阪急電車10分間のコイバナ – 天使の星座 (seizafpkotodama.com)

追悼:伊藤淳二元カネボウ会長  書評『天命』

 

 先日99歳で亡くなられていたという報道があった伊藤淳二(いとう じゅんじ)氏は、私が入社した時の鐘紡の社長でした。1922年(大正12年)中国青島生まれで、戦後すぐの1947(昭和23)年、慶應大学卒業後に鐘淵紡績(カネボウ)に入社され当時のオーナー社長・武藤絲治(むとう いとじ / 1903〜1970)の後継者指名を受け、1968(昭和43)年、45歳の若さで大逆転、クーデター人事で社長となった人物です。カネボウは経営多角化を推し進め、1984(昭和59)年、会長に就任、社長就任のストーリーは城山三郎のビジネス小説『役員室午後三時』 主人公藤堂のモデルとなりました。
 

 1985(昭和60)年の御巣鷹山の日航機事故後、政府(中曽根康弘首相)からの強い要請で日本航空副会長(翌年に会長)に招聘される。わずか1年で辞任しました。この経緯が山崎豊子『沈まぬ太陽』- 登場人物の国見会長のモデルとなりました。だいぶ美化されて、映画では石坂浩二が演じ繊維工場でを自ら糸を扱い差配している場面がありましたが、この当時すでに現場にいるような人ではなく、随分とデフォルメというか男前に描かれ映像化されていました。

 伊藤氏も今ではすっかり過去の経営者扱いですが、著名な作家の小説のモデルに二度もなった人物はそういないでしょう。 屈辱的失敗で日航会長を解任され、カネボウ専任に戻られるのですが、その後も会長として院政をはり、過去の成功にとらわれ傀儡的社長がコロコロ変わるだけで改革が進まぬまま、坂道を転がるように、事実上の経営破綻に落ちます。

「天命」は論語をはじめ彼が出会った様々な含蓄ある言葉を中心に生き方を著しています。多く方の書評や最近のコメントではその中身は古臭いという、褒めていても古き良き時代的なものです。時代としては少しあとになる稲盛和夫の著作に比べても、難解で衒学、知的顕示欲の強さが垣間見れます。
 ちなみに伊藤淳二は、社内で「知命教室」という幹部勉強会のようなもの、論語プラス経営という頭の痛くなるようなのをやっていて、それも社内で冊子が出回ってきて、ヨイショ的な内容が多いのですが、やはり博学であり衒学趣味でした。


「美しい人生とは美しい晩年を送り得る人、人生の一瞬一瞬をかみしめ「今」に燃え、毎日毎日を精いっぱい送る人であろう」という言葉には、大いに共感する部分もあります。

 しかし彼の晩年はどうだったのでしょう。博学でもありますが、稲盛和夫のフィロソフィーに比べると点が線につながらないような少し現実と合わなくなって、経営者としての評価は随分下がりました。
 自己顕示欲が強すぎ、後輩などの意見を受け容れての修正が難しいところがやがて綻びにつながったのではと思います。
 現実の社会は論語に心酔する一流大学出の向学心溢れた人間ばかりではなく、礼節や忠誠よりも私欲が優先するのが通例です。伊藤の思い、考えは本当の意味で浸透するわけではなく、権力者への盲従に支えられていたのかもしれません。

 そして、「未完の如くして完結して居る。果たされない様で果たされて居る。大切なことは、その時、自分の可能性の全てを尽くしたか否かであるように思う」という言葉で『天命』の最後を締めくくっています。
 日航会長時代でミゾをつけ、結局は鐘紡の栄華さえ砂上の楼閣のように崩れ去り、最後は大株主として元経営者として情けないような泥仕合も見せてしまいました。それでも未完と言っている以上矛盾ではないのかもしれません。
 未完であるが一時代を築き、実はそれなりの完結をしている。99歳まで永らえ、目的を果たし得なかったそういう生涯がありかもしれないです。

伊藤淳二と稲盛和夫 日航改革二人の明暗 – 天使の星座 (seizafpkotodama.com)

西武大津店の思い出

 西武グループの創業者・故堤康次郎氏の出身地である滋賀県に、県下初の百貨店として1976年にオープン。開業初日は約13万もの人が詰めかけたことからも、県民からの期待がいかに大きかったかがうかがえます。
 先日びわこ博が小学校3年生の時、大阪万博1970年が小学校の5年生でしたから、私はオープン当時は高校生だったのです。
 当時は京都の大丸、高島屋、藤井大丸、丸物といったデパートしか知らず、多層建ての繁華街にある形態ではない西武は新鮮でした。
 高島屋や大丸といった老舗が高級品も扱いながらも、子供向けの玩具売り場や食堂、遊具が充実していたためか、売り場としての西武百貨店はやや物足りない感じもありました。その後トレンディとか言われるブランドが席捲する少し前の話です。
 その後、会社に入り滋賀県で営業にも周り、30歳てま頃、平和堂や当時でき始めたダイエーや西友なども担当した後西武百貨店も担当することになりました。
 今思うと、バンカラな野暮ったい独身でしたが、滋賀で最も垢抜けた商業施設を背伸びして担当させていただきました。
 当時、カネボウ化粧品としても初めてHF(アシェフ)という百貨店ブランドを作りようやくチャネル別流通に力を入れだした時でした。全国的にも百貨店ではそこにしかない外資が強く、そこら中の店にあるカネボウや資生堂は差別化に苦戦していたのです。今では考えられない強引な販売方法のアプローチデモというのが頻繁に行われ、普段は2名体制の派遣でしたが、デモやイベントだと各課の美容部員が動員され、ノルマがかかり大変いキツイ仕事でした。会場の設営、撤去、毎日の朝夕礼もあり休日フル出勤となり、当時会社の拠点は彦根になったため彦根と大津を何度も往復しました。実家が京都なので実家に戻って通えばといわれましたが、大津~京都もハンパな距離で携帯もパソコンもない当時は家に帰ると連絡などが厄介でうまくいかないものです。
 それで実家の電話で長話して、また返信があると取り次いだ母が、「彼女」かと期待した子もいますが、それは全くの誤解でした。

1968年大阪万博のプレ万博が滋賀で開かれていた!

 

 関西2度目の万博をあと1年後に控えて、かつての大阪万博にプレ万博があったことを思い出しました。
 例の西武百貨店大津店のラストを舞台にした「成瀬は天下を取りに行く」が本屋大賞を受賞しまして、再読して新作も読み書評を書こうとして西武大津店のオープンを調べていると「びわこ大博覧会」の会場址に建った事実に行き当たりました。
 滋賀ローカルの話題ですが、同博覧会は、大津市制70周年・滋賀県政100周年の記念行事として琵琶湖や滋賀県の未来像を捉えるべく開催され、また2年後に控えた日本万国博覧会への序曲と位置づけられていたそうです。このアーチ形の看板に描かれるているのは大津絵ですね。会場にはびわこ館(テーマ館、のちに市立科学館)、未来館などが並び、会期中の入場者は98万5000人を記録したそうです。西武百貨店現在のOH!MEやアヤハ、マックスバリュなどのあるにおの浜一体はこの埋め立て地にできたのです。
 1970年の大阪万博でさえ、小学生の5年生でしたから、この通称「びわこ博」は小学3年生でした。それでも、親に連れて行ってもらい、この埋め立て地の一部何だか舗装が水はけ悪いようなところをうねうねと歩いた記憶はあります。プレ万博としては大成功の動員だったとされていますが、私の親や兄はショボかった私がつまならそうだったと覚えています。
 今回はプレ万博どころではないのでしょう。
 西武百貨店大津店の思い出と、「成瀬」のレビューは明日以降にしましょう。

コイバナ? 仕事のパートナーはスーパーモデル 大阪時代

 本人も日本人離れした体格の大谷翔平選手、奥さんも元アスリートで高身長の美人でした。
あそこまでの体格のお相手だとさすがに150㎝ぐらいの女性だと釣り合わないように思います。
 もちろん、身長差のカップルも世の中にはあります。女性の方が背が高い場合もあります。
 私自身の好みとか言っても始まりませんが、170㎝ちょっとなので、横に並ぶのは160ぐらいまでがやはりいいように思います。今までお付き合いした女性も全て150センチ前半で、まあ平均的な日本人女性か、少し低いぐらいでしょうか。
 時代が移るにしたがい、同じ身長でも足が長くスタイルの良い方が増えだしました。
 初恋をしたような時代、同年代の女性たち昭和の女子は、みんな当たり前に小さく丸っこい感じでしたが、今の女優さんやアナウンサーの人や、大卒の子らは本当に細くてスタイルもいい。
 私はあんまり背が高くてスタイルの良い美人系は苦手で、化粧品会社でもそういう人は「ああキレイだな」ぐらいで全くつき合えるとか思いいたらず、かえって落ち着いてそっけない態度になってしまうようでした。その態度が結構、冷静で安心感を与えて好感を持たれた時があります。
 ある時、大阪で勤務しているとき、当時でいうと伊東美咲さんや武井咲さん、今はキャスターになられた膳場貴子さんのような本当に女優さんやモデルさんのような女性Iさんという方がおられました。私が少しお茶ら気を淹れながら毎月企業対策のプレゼンをするのをとても熱心に聞いておられ、上司を通じてその伊東美咲さん(仮)が「とても楽しみにしている。井上課長(当時)が大好き」と伝わってきました。
 確かに、当時企業としても自主回収白斑の対応もあり厳しい仕事が続いていて、私のプレゼンは一服の癒しだったようです。それでも、男女の「好き」である年齢ではありませんし、お互いに結婚もして子供もいるのでそういう意識は全くありませんでした。
 顧客や部下の対応に北大阪地区を同行して回る機会もあったのですが、気楽に打ち合わせがてら食事にも行き、送って帰るような時もありました。
 しかし、どうも社内では変な噂が立ちました。困ったことに伊東美咲さんは、ビジネスネームこそ変えていないのですが。中学生のお子さんはいらっしゃるものの離婚されて、バツイチのシングルマザーだという話なのです。
 確かにスタイルも良く美しい人ですし、あざとい裏の顔があるとも思えないタイプなのですが、このまま沼に落ちてしまうのは悩むところでした。
 結構多くの男性はこっそりと不倫に入るような会社でしたが、そこはもうちょっと私には無理でした。身長は私と釣り合わないくらい高くはなくて160㎝ぐらいまでですが、やはり私には150㎝ちょっとの平凡なスタイルと容姿のお相手が分相応なのです。
 

津波が10年で流したもの 書評:津波を乗り越えた町々

 2021年の上梓なので被災直後から10年、津波の被災地を追った写真集です。復興は徐々に進んでいるとも見えるし、まだまだ全然とも言う人もいるでしょう。
 ある図書館の内容紹介では『一人の写真家がファインダー越しに見つめ続けた、東日本大震災の被災地の十年-。撮影総枚数15万4937枚の写真の中から、津波被害が甚大だった岩手、宮城、福島の写真を選び抜き、紡ぎ上げたルポルタージュ』とされています。カメラマンとして技術も含め、使命と情熱を持った良い仕事をされた本だと思います。

 東北という人口減少、少子高齢化の日本の中でも過疎の地域が多い中で、一部は復興を終えたところと、これから先が見えない厳しい状況の地区は多いのではと言われています。
 担い手やら子供が居なくて、産業や文化、インフラ、住宅地が放棄されていくところも当然あり、そこに全国からの復興税はじめ国費をこれ以上投入しても仕方ない判断が下されるのでしょう。
 仕方がないこととはいえ、津波がその時に流したものと、10年以上かかって人のあきらめで流していくものがるのです。

「あげまん さげまん」という言葉

こういう言葉も今は不適切といわれるかもしれません。男性視点的なところもありますが、「あげまん さげまん」という言葉があります。最近の言葉だと「勝ち組、負け組」というのがあってそれを導く運のような人間の出会いを表していたかもしれません。
 ある人といっしょにいると、運が上がり出世するなど「勝ち組」に入れる。その人は勝者にとって「あげまん」と言われます。逆にその人と付き合うと運が下がり、悪い目に合うのが「さげまん」と言われています。
 語源には諸説あるそうです。
「まん」とは「間」が転化したもので、運気・潮目・出会い・巡り合わせの意味(関西方言では「まん(間)が良い/悪い」のように使う)という説があり、これなら基本女性蔑視にはあたりません。
 もう一つはいわゆる女性器の俗称を略したものではないかというのがあり、男女関係を持った相手の運気を上げ、より良い巡り合わせにする女性を「あげまん」、不運な巡り合わせにする女性を「さげまん」と称するようになったというもので、ここから男性の「さげちん」、「あげちん」という言葉も俗には使われるようです。
 「運」の潮目となる出会いととると、相手の人物というよりも本人にとってのタイミング、元々の性質や相性などによるとことが大きくなります。
「性器俗称説」をとると、他責的な考えになるとともに、では相手の人物自身にとってはどうなるのかと考えると矛盾もあります。
 その人とその相手が、幸せな関係を築けて、能力を引き出せて出世したり、お金持ちになれたのは、それぞれの素質や相性、努力なのであって、一方的にどちらかに起因するものではないと思います。
 再婚して幸せになり、前のパートナーとの時代は不幸ばかりだったとしても、その相手が「あげまん」なのか、その時と経済や景気の違いとか、失敗から本人も経験して改善しているなどの努力、背景などの条件を全て見ないと検証はできません。むしろ、再婚がきっかけで「運」の潮目が変わったと見る説の通りなのかもしれません。
 それにしても、相性なのか運命なのか、学生時代からの友達で卒業後すぐ連れ添い、長く幸せな家庭でそこそこ出世した人などを見ると、お互いが「あげまん」なのかとも思いますがこれも検証はできません。
「割れ鍋に綴じ蓋」というポンコツ同志みたいな絶対すぐわかれると揶揄された夫婦で結構長続きして、成功している人もいます。
「相性」というのはやはりあるのではないかとも思います。「あげまん」と言われるような人は才能も努力もしているような気がします。
 

使い捨てカイロいつから 不適切時代の発明

 もう春を迎えようって時ですが、使い捨てカイロ、昭和末期の発明の話題です。
 私はあまり使い捨てカイロのお世話にはなっていません。でも明らかに外で立って待つとか、作業の日以外はよく使いました。日常的には今は真冬でもそれほどは使いません。
 これが出したのが昭和52年ごろからなので、中学や高校では使っていないわけです。
 何で暖とってなのかと思います。ベンジンか何か入れる丸いヤツ。ズボン下、腹巻、下着やら防寒具が多かったのかもです。
 そういえば、布団の中に電気アンカもありました。
 昭和末期に滋賀県の彦根にあった会社の社宅が木造で密閉性が低く、本当に布団かぶっても寒くてたまらなかったです。
 今は家の構造も断熱、保温性が高いのでしょう。暖房も衣類もいいものがあります。
 登場当時のホカロンは100円カイロと言われ、使い捨てなので学生や独身にはやや高いものだったかもしれません。
 今は大きなパックやハコに入って1個あたり15円~20円程度ではないでしょうか。

 使い捨てカイロですが、中身は鉄粉や水、活性炭、塩類、保水材が入っています。そして使い捨てカイロを開けることにより空気を窮して、鉄が酸化することで、熱が発生するという原理になっています。使い捨てカイロの原理自体は簡単で、中学生でも理解できる科学?化学なのか「理科」です。
 ロッテという会社は最初はお菓子に使うための脱酸素剤を作っている時に偶然脱酸素剤が熱を発していることに気づき、工学メーカーとともに開発したそうです。この酸化と熱の持続時間の折り合いが難しく、使い捨てカイロの発明の際には、上記の原料の配分に試行錯誤の嵐だったそうです。
 いずれにせよ、日本人のすごい発明ですね。

阪急電車10分間のコイバナ

 数年前、阪急電車の西院駅に西大路通りの従来からの改札口だけでなく、東側に嵐電直結の改札ができて乗り換えがスムーズになったため大阪通勤時代、京都地下鉄経由JR利用から京福電車経由阪急利用に切り替えた時がありました。今、私の娘もこのルートで梅田に通っています。
 運賃が安く、所要時間があまり変わらず、梅田が始発になるため着席率がアップするためです。
 大阪時代は長かったものの最初は支社が京橋で京阪経由、その後本町といっても西の信濃橋、立売堀のあたりでしたたからJR通勤時代のあとは、梅田からでも天神橋筋六丁目からでも阪急に入るようにしていました。
 前置きが長くなりましたが、そんな阪急時代に梅田から帰りの電車でたまに一緒になった女性のお話。

 ほとんど忘れかけていて名前や仕事内容もうろ覚えですが、事務系の経理か企画か何かの仕事で助けていただいたか、助けたかで顔見知り程度でした。細面のキレイ系の方だったとは思います。仮のR子さんとしておきましょう。
 ある帰りの電車で、偶然隣のつり革を掴んでいるそのR子さんと目が合いお互いびっくりしてしまいました。同じ会社からでて、地下鉄に乗り阪急の梅田まで行ってから、偶然同じ車両の同じ位置なのでした。私は京都まででしたが、R子さんは大阪府内の途中までなので10分ほどの間です。
 何を話していたかも、あまり覚えていない程度でしたが、どこまで乗るのかとか、夕ご飯はどうするのとか、社内の噂話と他愛のない世間話でした。
 それでも、お互いに降りる駅の階段の位置などで、その同じ車両に乗るのか、何回か出くわすことがあり、何となくお互いの仕事や家庭の愚痴や、見ているドラマだったり出身や会社に入る前の経歴など会話が弾んだものです。年齢は不詳でしたが結婚して中学のお子さんもおられ、およそは想像できました。
 なかなか楽しい会話ができ少し楽しみな時間でした。
 ある日彼女、いきなり「井上さん、離婚を考えたことはないですか」と聞かれました。
 私は自の経験で何度か考えた時の事と、家族の病気やら転勤での複雑になった時期の気持ちの揺れ、思いとどまった状況を率直に話し、R子さんは真剣にうなづいていました。R子さんのお相手はもう少し粗暴な感じで、酒癖が悪く金銭にもルーズで、自身も何度も離婚を考え、都度思いとどまっている話をしました。結婚した以上、見えなかった面もありながら好きな面ももちろんあるのでしょう。
 それでも、一番最大の理由は、「離婚するのにはパワーがすごくいって面倒くさいですよね」と最後は二人で笑っていました。電車が急ブレーキをかけて、R子さんの身体が私に寄ってきて思わずドキッとしました。
 人身事故かなとも思いだしたが、ほどなく電車が動き出しました。
「私ね、この時間が好きなん。たまにこのままずっと、井上さんとこんな風に面白い話して電車に乗っていたいと思うの」
 私は少し照れて、肯定的な話をしました。
 それから、何日か経ったある日。R子さんは退社する私を呼び止めて一緒に帰ろうと誘いました。
「もう、こうして阪急に乗っておしゃべりするのも最後、私退社するねん、山陰に行くの。主人が実家の島根の仕事に就くんでね」
「それは、寂しくなりますね」
「悩んだんやけどね。井上さんもお元気でね」
 LINEでメッセージを交換するのはまだ一般的ではなく、ちょっと危ないとも感じて、連絡先も聞かず本当にその時、阪急電車から降りる彼女を見送るのが最後でした。後ろ姿が美しく細いおみ足なのが印象的でした。
 JRよりは混雑はマシでも梅田から、茨木市の混雑したアーバンな路線はシュッとしたR子さんに良く似合っている感じで、そっちの地方の方には失礼ですが、山陰本線や一畑電車は似合いそうにあいません。
 R子さんが降りるその阪急の駅にそのままいっしょに行きたい気持ちを抑え、扉がゆっくり閉まり発車していきます。R子さんが振り返ってやや寂しげな表情で手を振っていました。
 数えたら、数回の、ほんの10分間の阪急電車でのホンの少しのときめきトークは延べ1~2時間で思い出の彼方に消えていきました。
 阪急の梅田が大阪梅田と名前を変え、大阪の勤めから変わっても何回となく仕事や遊びで大阪へは阪急を利用しています。R子さんの駅ではそう思わないのですが、千里線と交わる淡路駅付近で先の電車が止まっていて駅に入れず待たされることがよくあります。イライラするほどではないのですが、R子さんと帰るあの楽しい時間にこの遅延があったらと思うことはありました。
 その遅延も、淡路駅付近が高架化されると解消されそうですが、いまだに完成する目処はしありません。
 R子さん今はどうしてるのかと淡路駅間で止めるたびに考える時があります。