母の気持ちを懐かしく思う

 アイルランド民謡、ロンドンデリーでも知られるデニーボーイの歌詞が、最近どうも頭から離れません。
 戦争にいってしまう子供を案じた母の歌なのですが、何となく現代の出世レースや単身赴任などを浮かべます。
 母親や妻は出世や勝利より、負けてもいいから無事を願う。母性とはそういうものかと思います。家を掃除し、衣類や食事を準備して帰りを待っていただろう母がいたことを思い出しました。
 みんながみんな勝者や支配者にはなれないですから、無事なる帰還が家を守るものにとって何よりなのでしょう。

忘れかけていた彼女の思い出

 自分も忘れかけていた20代で友達以上恋人未満であり続けた女性の夢をみました。彼女のことを久しぶりに思い出しました。
 今年は何となく青春群像劇みたいなドラマとか、もどかしいラブコメが印象に残ったからかもしれません。チャラい恋愛ではなく、仕事とか生き方みたいなテーマで学生時代の仲間の男女が描かれていたりしたせいでしょうか。
 実際に恋愛感情を表に出さないシャイな男女のつきあいって今時そう多くはないのでリアリティないと思ったりもしました。
 しかしよく思い出してみると、若い頃本当にシャイでなかなか結婚を前提にお付き合いしましょうとは進まなかった自分がいました。
 その夢、仲間と同窓会のように集まった席で、当たり前のように寄り添い彼女から背中に手を回してきた。
 未だになぜあの時結婚すると言ってくれなったかを責められているような、もどかしさとやはりあれは恋愛だったのかというある種の安ど感がありいました
 あの時勇気をもって告白し、それを受け容れてくれるか確信も持てなかった。仕事でも一人前でない上、結婚までの恋愛の道筋や相手の深い心理の分からない若輩でした。
 もう30年以上前になるので、思い出すのも断片的で、社会人になって大阪に3年、その後広島に赴任した頃まで帰省する度に二人で会って他愛のない近況報告的話をしていました。
 それもデートスポットに行くでもなく、繁華街を歩くか公園散歩、彼女の家でゴロゴロしてたとかでした。
 化粧品会社にいたので多くの女性との関係に悩み、仕事にも悩んで相談をしていたような気もします。そして彼女の気持ちや悩みはあまり勘ぐっていなかったのでしょう。
 化粧品会社には美魔女のような妖艶な女性が多いということに彼女は「妖艶はパスですね」と自分はそういう女性とは勝負にならないという意味の宣言をしていました。元々地味な顔立ちで隣の友人がひまわりならば可憐な野菊のようなタイプの方でした。
 力づくのような恋愛が嫌いだということをサークルの中の本人のメモで見かけて私はそれはそれでちょっと慎重になっていました。
 いろんな要素が公園の迷路のような遊具で追いかけっこをした時、真正面でぶつかりかけた時抱きしめるような間合いがあったようですが、結局手を握ったぐらいまででした。
 今から思えば20代の後半なんて結婚には早いのですが、当時は女性は25過ぎたらクリスマスケーキとも言われ、何だか気持ちのはっきりしない先輩にいつまでも未練は持たずか、彼女が結婚するという話を聞きました。
 直接聞いたのか、彼女の友人からかもう忘れましたが、異性なので当時は当然式や披露宴には呼ばれずお祝いを家に直接家に持っていくことになりました。
 少し洒落たお祝いだったとは思います。
 その前から交際は聞いていまして、彼女の家で時間差ですれ違ったこともあるようです。まあ彼女が二股というわけではないでしょう。たぶんその時、私も別に交際している人や好きな人はいた時もありました。
 でもお祝いの大きなパネルに入った写真だか絵だかを渡し、彼女に部屋で話し込んだ日は特別でした。もう結婚は1週間後ぐらいの最後の休日の夜です。
 彼女は私との思い出を細かくつぶさに一つ一つ饒舌に話し出しました。私が合いの手を挟み返事をするやいなや途切れなく、私が忘れかけていたような場所や言動まで漏らさずに話しだしました。
 思えばその時彼女はマリッジブルーで何かにとりつかれていたのかもしれません。あえて彼女は私から絶対に話を切らせない。この時間が永遠に続くのを望んでいるようなトークが続きました。それでも常識的な時間ではない深夜になりつつありました。
 自分からは止められない空気だったものの、こんなに微細に語っていてはとうてい今夜中に終わらないと思い始めた頃、彼女の母親が入ってきて彼女を呼び出し諭したようです。
 何を母親に諭されたのかは分かりませんが「もう遅いので、」ということで話としては半ばのまま、日付が変わる前には彼女の家を出ました。
 あの夜も、大逆転で結婚を止めてプロポーズをするという選択肢はあったのでしょうか。
 そこまでの強い気持ちは無かったからこその今とは思います。人生にタラレバは無いのです。
 このエピソードはまあ良識ある人に言わせるとあり得ない鈍感と非常識といわれています。
 あの時結婚していれば、数年後今の妻に出会うことも、今の愛息たちが産まれることはなかったという運命なのは間違いないでしょう。
 

理想の仕事につけるか

 今NHKの朝ドラで気象予報士のドラマをやっています。現代の東北の被災地を舞台に、いろんな青春群像やその親の宿命等も描いています。
 気象予報士というのが今時なのか、それでも長丁場のドラマのでその職業に憧れ努力して、苦労しながら仕事につき成長していくものです。有名人の企業家や芸術家が描かれることも多いので、サクセスストーリーが多くなるのがドラマです。
 現実には子供や若い頃に抱いた理想の仕事についている人はどのくらいいるのでしょうか。
親の稼業、親子で目指したアスリート、親と喧嘩して家を出てやりたい職業を選んだ人の話も聞きます。
 どちらかというと、夢を描いた理想の仕事ではなく、むしろとりあえずお金を稼ぐために就職する方が多数の気がします。不況とか就職氷河期というと、希望した業界や職種にほど遠い状況にもなりました。また○○士や、○○ナーといった資格も厳しい場合もあります。
 私なども大学を出る特、そこそこの大学なので、そこそこの企業をという程度の理想も野望も少ない就職活動でした。
 今思うと若い時間にもっと勉強して、広い視野を持てればと思います。何もしなかったわけではなく、考えなかったわけでもないのですが。
 みんながトップアスリートにも、大企業の創業者、経営者になれるわけではありません。親や身の回りに感化され、選択したものが全体として社会を支えるのかもしれません。
 私は何となく化粧品に携わりました。造船の業界、歌舞伎役者、お茶の家元、お寺の住職、和菓子や着物や漬物の老舗、ハンマー投げの選手、そういう選択はやはりあり得ないところでそれぞれの人が社会を支えるようになっているのだと思います。
 もちろん、家を継がない立場の人は特に考えれば何にでもなれる可能性は大きいです。

紙の手帳が店先に並ぶ季節

 本屋さんや文具店に来年の手帳が並ぶようなシーズンとなりました。おせちやクリスマス、年賀状の予約同様年末年始の準備を見かけると気忙しく感じます。
第一線のビジネスマンだった時期もモバイルとノートパソコンを持ち歩きながらも紙の手帳は併用していました。
 長年の完全アナログの昭和時代からの習慣とも思えますが、紙に文字を書くことでの記憶と思考がすっきりするからでもあります。
 私的には定年後は有期契約で毎年3月で満了となり、4月以降手帳にスケジュールをびっしり書くような仕事を続けるのかわからないので、購入を少しためらいがちとなります。
 せいぜい2000円前後までの出費なので、たぶん買うでしょう。スーツ等の服の方が買うかどうか決断が難しいところです。
 学校関係の方は、4月はじまりのを使うのかもしれません。スケジューリングの関係で、年度替わり前はいずれにせよ2冊の手帳を併用するようになります。当然新年度の手帳はある程度早めに入手する必要があります。
 今の年の締めくくりをして、新しい年への新たな気持ちを整える。
 とても大切なことです。年末の気忙しさの中で自人生という名の長いマラソンの、ラップタイム、マイルストーンを確かめる大事な時期です。

虹は吉兆か

にわか雨が上がって太陽が出ている時、意識して後ろを見ると虹を見つけることがあります。
180度続くものも90度までで切れるのもあります。
虹は凶兆とされ、飛竜にもたとえられましたが、今は吉兆とする説もあります。
西洋占星術では、吉凶という事象の捉え方はしません。
星や星座、天体現象にはそれぞれ昔から意味付けされました。いろいろなことはどちらにもつながり流れる可能性があると考えます。
流れ星も凶兆と昔はとらえられていました。今は願い事が叶うといわれています。おみくじや、今日の運勢等も吉凶が示されても、それをうまく転じることです。
キレイな虹を見れば嬉しくなりますし、何かいいことがあるに違いないと前向きに考えていいと思います。

子供の頃の外食 お子様ランチとクリームソーダが至福の定番だった

昭和34年生まれ、商店街の商売家で育ちました。子供の頃の商店街は、全国でもかなり早いアーケードを作り、近隣からの集客も多いそれは賑わった店ばかりで、今のようにマンションやシャッターの閉まった店、活気のない高齢者経営の店はなく、高度成長期で日曜日も休みでは無く、みんなが遅くまで遮二無二元気に働いていました。
うちの様に店舗と住居が一緒のケースが多く、内風呂がまだ少なく、店が閉まる8時以降に銭湯に行ってくつろぐ家人が多かったのを思い出します。
今も週休二日制のサラリーマンより商売家は休みは少ないでしょうが、当時は月に一度25日が定休日でした。日曜日に店を閉めて折れば、今のターミナルテナントなみに損で、他にも迷惑をかけ暗黙の顰蹙を買う雰囲気だったのかもしれません。
今は大手や通販にお客を奪われた多くの業種のお店が閉まるか細々と開け、まあ洒落た飲食やファッション、雑貨店、ドラッグストアは入り商店街は維持されていますが、日曜日は個人の店はほぼお休みのようです。
それを想うと昭和40年代みんなよく働いたのです。そして子供の私にとって定休日は親と遊べる月に一度のワクワクするような楽しみな一日でした。
日曜日と重なると遠出ができ、平日でも小学生の帰宅時間はそれほど遅くはありませんので、ちょっとお出かけぐらいはできました。
母がメインで店頭に出る商売なので、普段の労いもあり、何か月に一度かは外食に行きました。当時ファミレス等はなく、デパートの屋上か、近所に1軒あった洋食屋、おでかけと聞くと本当に嬉しかった。
母には悪いけれど、今ほど手軽なレシピも。加工食品も素材も調味料もない時代で、商売やってるので店屋物とお手軽な料理主体でした。
今思うと家でも手のこんだ料理は美味しいし、ファミレス程度の洋食などより美味しいものはいっぱい食べらる時代でになりました。
この頃、ハンバーグとエビフライのお子様ランチ、食後にクリームソーダが定番でした。それが子供には至福であり至高だったのです。
確かに小学生の友達の中にほんの一部、他のビフテキ、焼肉とか鍋とかもっといい店にいっている子もいました。しかし、多くはあの洋食店が最大至高だったか、それすらも行ったことのない庶民の子ばかりでした。
そして、小学校のこの頃、商売も鰻登りに栄えたのでしょうか。ようやく日曜日が月2回ほど定休日になり、私立の中学にまで行けるほどに恵まれました。
老舗の料亭、割烹、レストラン等は存在し成長していたわけで、世の中にはそこを利用していたリッチな人はいたわけです。世間には本当にお金持ちがたくさんいて、美味しいものが沢山があることを知ったのはもう少し大きくなってからです。
あの洋食店も、撤退はしましたが、京都のあちこちにその後継店はあり、もっと進化をしていました。

悪女の思い出

写真はイメージです

概ね、私と仲良かった女性は仕事もでき、お酒も好き、歌が上手い美人でした。
私もカラオケが好きで三次会ぐらいまでお付き合いして飲んで、さらに深夜、終電がなくなってカラオケボックスで過ごしたりしました。
家やホテルに連れていくともうお互いヘベレケで、化粧も落ちた彼女はさすがに年齢相応なのですが、朝になると見事に化けてでてくるからスゴイもんでした。すっぴんの彼女は、ずいぶん盛ってるのがわかるほどですが、それはそれでかわいいです。
話してることも、本当は嘘半分、分かりやすいような嘘をつくのですが、それはそれでまた可愛いのでした。
それ以上、近づいたらもう戻れない。そんな悪女とぎりぎり「お互いが特別」な関係が続きました。
悪女と言ったら怒られるか、でも中島みゆきの初期曲「悪女」「あした」等で描かれる寂しげで強がりなところが似ている。悪いというかズルいのはこっちかもしれない。結婚しているのはこちら、別れて孤独なのはそちらなのだから。(中略)
満天の星空を散歩したこともありました。いつか二人ともこの世になくなり、あの小さな瞬きのような存在になるのかというと妙に納得して、そんなこと言うのって変わってるって言ってくれました。

女性の多い会社にい37年勤めてたのですが、そんなに女性遍歴があるわけではありません。
社内婚の多い中、結婚は学生時代からの相手でもなく社内恋愛ではなく比較的遅く36歳でした。
化粧品会社の中には、向上心や上昇志向が強く、女性を武器に出世する人も多かったです。
エリアの幹部や本社の経営幹部層や人事などにつながりを持ち,社内的地位やお金や恋愛を手に入れる人が多かったです。。
私なんかと付き合っても、何の権勢も人脈、お金もないのですが、まあ適当な遊び相手だったのでしょう。
女性が旬である時期は、残念ながら短いような気をします。でも彼女の場合お化粧はもちろん、エステや外科的なものにも相当お金をかけてました。それがそれでまた何というのか切ないような悲しいような女性としての愛くるしさがありました。

所得倍増

戦後の奇跡的な日本の経済成長、池田勇人首相によって発表された所得倍増計画は、10年間で国民所得を26兆円に倍増させることを目標にしたものでした。実はこの所得倍増計画が発表された当初、経済学者、有識者の中は「何を馬鹿げたことを」というような意見を言うものも多かったのです。戦争に負けて、大きなダメージを受けた貧しい日本が、そんな奇跡のような経済成長ができるわけはない、と世界からも馬鹿にされ専門家には鼻で笑われたそうです。
もちろん国民もすぐ信じ切っていたわけではないでしょうが、安保で軍事費がいらないので当面、いろんな国内のプロジェクトを成功させ、中小企業の支援まで含み、粛々と進行されました。日本国民の所得、GDPはほぼ目標通りに成長していったのです。
戦略の分かりやすさ、目標の明確化、それを信じて頑張った国民の真面目な頑張りの結実でした。
あの時はこうだったというのは簡単です。東京オリンピック一つとってもそうかもしれません。当時だってこれからの産業に興亡を簡単に予想などできませんでした。
一度、夢を実現し、富んでしまって時代を経た日本人はなかなか次の本当の夢を信じることができないのでしょうか。
もう富をそこそこ持ってしまい、失いたくないだけの大人や老人には無理です。若者が夢に実現に必死に汗をかけるように、せめて大人は夢の描き方を教えサポートにまわるべきです。

秋の夜は長い

午後6時を過ぎると日が沈み、もうあたりは暗くなるようになりました。昼間は30℃前後はあっても、夜は涼しいかさむいくらいになる10月です。これから、また来月にかけ一気に気温は下がり、日の入りも早くなります。
星を眺め、夜を楽しむような季節になります。
ウォーキングや、鉄道廃線跡散策、星の観察、スポーツ観戦、コロナが収まって外に出たい、良い季節になりました。
味覚も美味しい、緊急事態宣言も終わり、飲み食いはしてみたいところですね。

引退を労い、ただそれだけ #岩田稔投手

この時期の例年スポーツ界から、引退のニュースを聞きます。
横綱 白鳳や、ハンカチ王子斎藤佑樹の報にも感慨がありました。
私にとっては、阪神の岩田稔投手が今シーズン限りの引退を表明したことが、少しショックでした。
1型糖尿病を患いながら、「自分が頑張ることで、同じように糖尿病と戦っている人たちを勇気づけていきたい」の思いに当時小学生だった息子が大変勇気づけられました。糖尿病ではないものの腎臓の慢性疾患を患い、仙台の病院から京都に移った2008年頃です。東北楽天の応援は親に引っ張られた感じでしたが、関西では友達が阪神を応援しているので、自分で学校から帰ると阪神戦を観戦して応援しはじめました。
糖尿病を患いインスリン注射を打ちながら、ローテーションに入ってWBCに選ばれるほど活躍する岩田投手の話に、息子は勇気づけられたようです。
この頃、妻も乳がんの嫡出手術から薬物療法を受け入退院、残された娘とともに、結構厳しい家庭生活で、会社の仕事もなかなか集中できないほど父娘とも心が病みかけていました。
一度、奮発して4人そろって阪神対中日戦を大阪ドームの内野席で見にいきました。息子とても嬉しかったようで、新聞を切り抜いて絵日記にしていました。
どん底とは言えたこの時期、4人とも何とか明るく振舞って、乗り切れたことを今でもよく頑張れたと思い返せます。
その後、何とか毎年の生検で小康状態を繰り返し、小児慢性特定疾患から指定難病にキャリーオーバーはしたものの、息子は大学を卒業して企業にも就職できました。妻も当時の癌のステージでは多くライフイベントを諦めかけたほどだったのが、考えれなキャンサーサバイバーとなって通常に生活しています。
岩田投手自身が多くの糖尿病を患いながらも頑張った先輩に励まされ、自ら基金も作り慈善活動をされていました。
いろんな思いの詰まった引退発表、号泣されていた姿にこちらも目頭が熱くなりました。
アスリートの引退は年齢的には若く、まだこれからの人生の方が長いので、それもまた大変ですが、それぞれ素晴らしい現役生活を胸に刻みながら、元気で頑張って欲しいです。