平均寿命,平均余命,健康寿命

ファイナンシャルプラン、社会保険、年金などでは平均寿命とかの言葉がよく聞かれます。残りの人生の期間を算出し、どのくらいの支出に備えるのかです。
 平均寿命も、毎年伸びています。男性でも81歳ぐらいになってきています。若くして事故などで亡くなった人もいますから、今の中高年の方の余命はそこからさらに少し先となります。
「長いなあ」と感じる人もいれば「まだまだ生きられる」と思う人もいます。人生100年時代というのは、生物学的にも実証されているようで、目だとか内蔵などのパーツは120年以上もつようになっているそうです。脳科学の話で聞くと、100歳まで脳は成長するそうで、還暦というのは成熟してから期間としてはまだ半分なのだそうです。

 それでも、著名人の訃報などを目にすると、60代後半から増えだし、70代に入るとイッキに増えます。持病や事故、不規則な生活など、自分にはあてはまらないと楽観する人もいますが。100歳まで生きる人が平均を上げていることを考えると、60歳ぐらいから亡くなっている人はかなりいるわけです。平均の数値を植え付けられると、多くの人がそのポイントで一斉に亡くなるように思われますが、そんなことはないのは少し考えればわかります。
 繰り下げの年金制度で、年の年金額を増やそうと貰うのを遅らせても結局貰えないとか使うこともなく死ぬ可能性はここにあります。優雅な老後と思いながらも、結局はこの年齢になると命はあっても、病気で療養という可能性もあります。健康寿命は平均寿命マイナス10と言われます。そうなると、まだまだしっかり歩き、活動できる期間は案外残り少ないのが中高年の現実です。
 だからこそ、いろいろ健康に気を使いながら、お金は大切にしつつ使い、やっておきたいことをやり、会いたい人に会う、悔いのない毎日を過ごすのがベターと思います。

法律や取り決めで縛りたがる人びと

 個人的にはあんまりオリンピックに興味は深くなく、とくに普段見ないスポーツをにわかに「NIPPON」と叫んで応援しだすのだけは恥ずかしいと思ってる非国民です。
 今回、女子体操の日本代表でチームの主将でもあった選手が19歳での飲酒喫煙の発覚で、出場辞退となりました。
 体操チームや他競技含め日本チーム全体にも衝撃を与えたニュースでした。
 4年に一度のひのき舞台を前に過酷な練習を積んできたであろう本人の無念さ、同僚や応援してきた人に迷惑をかけたと思う責任からの苦渋を想像するだけで、本人が心配で可哀そうにも思います。
 ネット投稿などでは多少の擁護はあっても、概ね批判の投稿が多いようです。いかにも正義のように、潔癖に、国の代表が違反はいけないと宣う人もいます。
 通報した人がいるから、事実が明るみに出たわけで、酔って騒いだとか他人に迷惑をかけたわけでもありません。
 いかにもチクられて足を引っ張られたようにも見えます。
 女子の体操というイメージからも、今後の彼女の復帰も難しいかもしれませんし、19歳とは言え4年後はこの種の競技年齢としては厳しい年代にも差し掛かります。一人の人間が青春をかけたものがエセ正義漢に奪われた、少なくとも失われたわけです。
 正直。たかが飲酒や喫煙、それも常習ではないとしたら、そこまで社会的制裁が必要かと思います。
 お酒は20歳からと言われますが。私も高校生ぐらいから、父にビールぐらいは勧められ口にしていました。
 喫煙割合は減っているとしても、20歳未満で、お酒もたばこも口にしていない人がどのくらいの割合なのでしょうか。
 法律違反でいうと。高速道路や広い国道で制限速度を10キロオーバーぐらいを経験していないドライバーの割合の方が少ないでしょう。
「そういうと広い道の制限速度が低すぎる!』と運転がうまいから大丈夫だと反論する人がいますが、それは法治国家への反逆です。それなら「飲酒の20歳も高すぎる」から守らなくても迷惑かけなきゃ大丈夫になります。だから、その程度です何年か経って、メダリストとしてバラエティ番組で、20歳前に酒飲んでましたカミングアップしても笑いを取る程度、そのぐらいのものです。
 こんなことが大きく報道され、個人の努力が全否定される偏った世の中がなんともです。

夢破れ何処へ帰る「成人世代」友情と希望

 隣りを歩いて行くやつは
 誰もが幸せのぼり坂
 ころんでいるのは自分だけ
 誰もが心でそう思う
 (中島みゆき「成人世代」2番の歌詞より) 
 若い頃20代後半、30代に入る前だと思います。私は一人の中学高校と同じクラスだった友人を失いました。
 学生時代,ずっと私より優秀だったと思います。高校の頃学園祭で一緒に演劇をやり彼は主役をやり切りました。
 実家はウチと同じような家業で、長男だった彼もはじめ業界の大手メーカーに就職するようい聞いていましたが、結局事情が変わり大学卒業後すぐに家業を継ぎ新しい支店を任されるのでした。
 ドラッグストアも家電量販もコンビニもなく、商店街や町の個人商店がまだ活気にあふれていた頃です。化粧品は定価販売で、家賃や従業員の給料を払っても儲かるケースも多く、同族で出店をして、社長や専務、店長を占めるケースも多かったのです。
 それでも、今よりは地域での出店の規制が厳しく、新店の準備には資金も時間もかかりました。
 時代はバブル期を迎えるのに、それでも成功する事業とそうでない場合の格差はある意味今以上にありました。
 彼の人生は暗転したようです。同窓で就職して会社に入ったものがそろそろ「主任や〇〇長」になるような話を聞く頃、事業に行き詰まった彼は、行き場を失ったのか未来を自ら閉ざしました。
 告別式に行った私は読経とともに語られた、彼の短い生涯に目を潤ませ身体が震えました。

  確かに、サラリーマンになれば安定した給料があり、保証があり、何年か勤めれば肩書もつきます。でも昭和のこの時代、パワハラを訴えたり、有給を楽に取れた時代でもありません。まして事業を興した者、家業を継いだ者の中には、準風満帆に見えて苦労をしている場合は多いのです。

 どんな集まりの中でも、やはり格差への妬みのようなものはあったようです。

 久しぶりに同窓の集まりに顔を出すの勇気がいるものです。数人の顔のわかる仲間内でもそうです。
 簡単そうに勢いよく回される大きな縄跳びに「さあ入れ」と言われるようなものです。
 でも入ってみると、簡単なことですし、誰もが最初はドキドキだったこともわかります。
 一人でいると、ついつい誰もが幸せののぼり坂をかけているように見え、転んでとどまっているのが自分だけと思ってしまい勝ちです。でもそんなことはない。友達とは、そんな希望のヒントを与えられる存在かと思います。

あこがれたヒーローたちの老い

 現代はストイックな管理とたゆまぬ努力、そしてビジュアルもそなえたアスリート、イチローや大谷はメジャーリーグで記録を乗り換える時代です。
 40年ほどまえのヒーローたちは、ハングリーから、やんちゃな成り上がり、はみ出した叩き上げの人間が多かったです。
 そんな昭和の子供時代に憧れた、ヒーローたち。アスリートやアーティストなんてこじゃれた呼び名も無かったです。
 歌謡曲、フォークソングなどの歌手、ドラマや映画の俳優、野球や相撲、プロレスの名手、強者、、、昭和の子供が憧れたヒーローは時代を経て確実に老い、鬼籍に入る人も増えました。
 野球だと指導者や解説者になり、やがて活舌が悪くなったのかテレビの出番が減ったと思えば、長嶋さん、張本も江夏もクロマティまで車いすの姿で、現役を時代を知る者に少し衝撃を与えました。
 元気ならば、訃報よりも良いのですが、若き現役時代の颯爽とした姿を想うと痛々しく寂しくなるものです。
 
 関西ではアンチ巨人の阪神ファンも多く、双方とも江夏のふてぶてしさは強烈な印象でした。私はパリーグの近鉄ファンで、広島時代に日本シリーズで痛い目に遇いました。

【燃えよ左腕 江夏豊 この本の梗概】中学では「やんちゃな少年同士の決闘が日常茶飯事」で、高校からは「弱い球団で巨人など強い者を倒すことを生きがい」にし、「三振か四球か」ノーコンでカーブもほうれぬままドラフト1位で阪神入団。契約金は「800万円の札束を見てみたかった」と一括現金でもらい、プロに入ると「勝っては繁華街に繰り出し、毎晩お祭り騒ぎ」「もらったらもらった分使って、人よりいいものを食べ、いい服を着て、いい女性と付き合う。これぞプロ野球選手ではないか」。奪三振記録は「取るなら王(貞治)さんしかない」と実行し、甲子園伝統の一戦、巨人・阪神戦では逃げずに真っ向勝負。縦ジマのエースは“最強の敵役”として巨人ファンをも魅了した。南海移籍後は、野村克也監督に「野球界にいっぺん、革命を起こしてみろよ」と言われ、意気に感じてストッパーに転向、これが広島移籍後にあの「江夏の21球」につながったのか。日本ハム移籍後は、複雑な家庭環境で育ったがゆえに大沢啓二監督に「父」を見て奮闘。最後は大リーグに挑戦し引退しました。野球のロマンを追い求め、独得の美学をつらぬき通す男の履歴書。


 今はレールも決まっている感じでこういう人は詣でてこないかな。

 そういう意味では相撲やプロレスは短命なのかと思います。俳優さんは、個人さはあるけどまだ、少し長生きな人もおられます。

 別のジャンルで子供の憧れ(特に男の子)だったのが特撮ヒーローです。昨年3月「帰ってきたウルトラマン」の俳優団次郎さんは亡くなりましたが、初代マン黒部進やセブン森次晃司、仮面ライダー1号藤岡弘、から2号佐々木剛V3宮内洋までのレジェンド俳優は健在です。かなりくたびれた姿でも精いっぱい、変身ポーズをとったりされています。


 今よりは時代を彩るスターやヒーローの数は少なく、多様化しないため誰も知って憧れていた時代。もう少し我々もみんなも頑張ろうと思います。

京都宗仁地区

 

 京都駅から東へ僅か5分ほど歩くと、一等地ともいえる交通至便の場所に京都芸術大学が移転してきました。ここは宗仁地区と言われた場所です。
 大学からさらに東に入るこの建物は柳原という地域にあったことから柳原銀行と呼ばれたものです。現在記念館としてなってます。
 かつて、このエリアは京都市内でもインフラも経済支援も遅れたいわゆる被差別地域でした。
 今でこそ、鴨川は河原を恋人同士が均等感覚に寄りそう恋人たちのスポットで、木屋町や高瀬川は風情や活気のある歓楽街です。しかし、平安京の端の鴨川はかつて治水にも苦労をした土地で、定住するのは難しく、平将門、石田三成や石川五右衛門らの刑場の河原として知られていました。処刑に関わる仕事や、牛馬を殺し、革を細工する仕事は穢れた仕事として忌み嫌われて、不遇な土地を与えられて住まわされていました。その一つが平安京の京都市の南東部、宗仁地区です。
 言葉を選ぶこと、どうもためらい勝ちになりますが、どう表現しても差別の時代であり不適切な言葉や表現も溢れていた時代からのことですし、あまり表現を抑えても内容が伝わらなくなります。ご容赦ください。
 私の亡くなった母やら祖母などは戦前、戦後を通じて、この地区について他の噂されていたいくつかの地域同様「近づくな」と言い伝えられて来ました。京都の旧市内に住んでいた人にとって、他のさまざまな都の慣習と同様に、伝わっていったものなのでしょう。
 そしてそう言った差別は、結婚や教育、ビジネスの場面にも暗然と存在していたのです。

 インフラの贈れたこの地区には、昭和の高度成長期でもバラックのような建物がほとんどで、雨風をやっとしのぐものの、エアコンはおろか、上下水道、ガスや電気のライフラインまで遅れて、今の大災害にあった被災地の避難所以下のレベルのインフラが、高度経済成長も終わり、バブル景気頃まで整備されずに残っていたのです。
 京都市が中心に、立ち退きを進めて多くは公営住宅に生まれ変わりました。外観の変化とともに随分と昔のような差別は減ったとは聞きます。
 そこまで至るのに、多くの苦労があり、いろいろな政治のかけひき暗闘があったとも聞きます。
 現在、写真の建物は、同地区の皮革業者などが融資をうけるために創業された日本で唯一の差別地区のための銀行でした。
 都は美しい、政治や観光、宗教の中心でありながら、上品さゆえ一方で穢れを誰よりも忌み嫌うことで、根深い差別を産んだ都市でもあるのです。
 今も不自然に残る空き地や、バラックの住宅はあります。京都の町は、美しいだけではなく、格差解消の厳しい葛藤の場でもあったのです。差別とかイジメのような行動は、無意識の中に誰もがしてしまいます。そこに悪気がないことそのものも問題なのです。幸い、令和の世の中は、さまざまな視点で物事を見て、考えられるような時代です。
 情報は入手しやすくなりました。自分が楽しみ、稼ぎ、自分の立場を守ることが果たして、人を傷つけることがないか、さまざまな視点で考えることも大事でしょう。
 

裁判所に愛はあるのか?

 法曹を扱ったドラマで、「家庭裁判所」は愛の裁判所という誕生の経緯が語られています。一般には家裁と地裁、高裁の違いが分かりにくいと思います。
 「地方裁判所」は、刑事的な処罰を受けるか、家庭内においては、刑罰が特定している人物を担当する裁判所です。その上で、「地方裁判所」は、被告となる人物が再犯を犯す場合、裁判を行う場所となります。
 愛の裁判所と表現された「家庭裁判所」は、その名の通り、夫婦間や親子など家庭内の事件を扱います。事務的に法に照らし審判を仰ぐ場で、離婚などを事務的に行ったり、暴力事件においては被害者に慰謝料の請求などを事務的に行います。また、再犯の防止策なども講じますが、暴力事件など刑事事件のような大きな犯罪は扱いません。
 家庭裁判所は、家庭に特化したカウンセリングやその後の人生のコーチングという「愛」は、その設立経緯からも求めらてれます。単に司法試験に合格し、頭がよくて法の条文を覚えておればよいものではありません。

「地方裁判所」は刑事事件を扱い、初めから罪人の疑いがあると被告を扱い、一審で審議を行います。「家庭裁判所」の役割は暴力事件においては再犯防止に当たり、これに従わない場合、観護措置を裁判所側が取り、少年側を強制的に、少年鑑別所に収容可能です。

 私は現在、地方裁判所の民事で、「配偶者の度重なる暴力により、地方裁判所に保護命令を申し立て」いわゆるDV案件を受付る仕事もしていました。
 家裁と地裁の境い目のようですが、この場合はもう家庭内に留まらず、パートナーの度重なる暴力により、地方裁判所側に保護して貰いたいと望んだ例です。事実関係も確かめないといけませんが、財産の散逸を早急に防ぐ保全事件とともに、緊急と秘匿を重んじて迅速な対応が求められるのです。
 違いは、家庭内でも暴力行為である場合、家庭裁判所が該当する裁判所ですが、こういうケースは配偶者に再犯の可能性がある点がすでに刑事事件であるとされるのです。
 ちなみに配偶者という言葉を使いました、夫とは限らず加害者側が妻という場合もあります。
 肉体的に男女に優劣、強弱の差が決まってないこともありますし、料理に異物を入れるとか、睡眠中に加害するとかもあります。愛し合って結婚したはずなのにと、心情的には悲しくなる場合があります。
 単に事務手続きとは言え、裁判官の決定を伝えると、その人の人生に大きな影響を与えます。その場で怒りや憤りをぶつける人も、後で凄惨、過酷な結果になったと聞く場合もあります。
 人と人のもめごと、人生、パートナーとの運命は予期できぬものです。そこには「愛」「救い」を求める悲しみが見えます。
 家庭裁判所に「愛」が必要と前段で書きましたが、その境い目からの地方裁判所、高等裁判所、最高裁に必要がないとも言えません。法に照らし、厳しい決定を出さないといけないのですが、それを決め伝えるにも「愛」がないと救いがありません
 裁判官も事務官も弁護士、検事その他の法曹関係者も、悪法や実態に合わなくなりつつある法律を曲げることはできず、後追いでくる法律を待たねばならないときもあります。
 そこで人を救えるのは、心に愛があるかだけです。
 難しい試験に合格し、優秀な資格を取り、地位や名誉を持つと、賢くて法や決め事をよく知っていても、そこに驕りがあれば、家庭や恵まれない人を顧みなくなります。
 世の中にはこんなことがいっぱいあります。頭のいい人は、ルールを知ってそれが正しいと押し切りますが、それで勝ちにはならないのです。

役人はわざと難しい言葉を使うのか

  日本語というのは、漢字にしろ言葉そのものにしても本当に種類が多く、組み合わせは無限かと思います。
 業界にも、それぞれ用語が多く、次々と外来語やらIT関連の言葉も浸食してきています。
 それぞれ、業界には特有の言葉があり、略語もあって、一般の人が聞いてもわかりにくい音は多いです。
 店舗などで、お客様に聞こえてもダイレクトにわかりにくくする暗号のような場合もあります。トイレで席を外すなどをAとかBで伝えるなどですね。
 市役所で保険年金の仕事をしていても、「生保」というと生命保険の事かと思いきや、その組織内では「生活保護」の意味だったりしました。
 年金や雇用保険の手続きなどの、言葉もやはり難解ですし、年度や期間などもわかりにくいです。社会保険の年度は所得の確定を待った8月始まりとかですし、それを平気で年度にしてしまいます。
 法律や行政手続きは、弁護士や〇〇士などのお世話になりますが、まず日常生活で使わない言葉から入らないといけません。裁判に関してはもう日常の一般で使わない用語、書けない言葉がいっぱいです。「しかるべく」なども普段の生活で使うと、変人です。

 それでも、役所の方などは、わざと難しくして特権をむさぼるようなつもりではありません。真面目に目の前のことを丁寧に間違いなく、決められた通りやろうとされています。それだけにますます厄介なのですが。

税金を使う?お仕事

 この道具が何かすぐ分かる方は、一般には少ないのではと思います。
 私も公務を生業にするまで、そんな存在も知りませんでした。
 これは法務省や裁判所の御用達、東京の小さな?ハンコ会社の作っている収入印紙の消印器です。
 デジタル化とはいえ、私の仕事である司法事務ではまだ、電子データが不可で収入印紙での課税申し立てが中心で、この消印器をゴロリと回し、1500円也とか時には20万円とかの収入印紙を、瞬殺しております。高額の印紙は、偽造防止などもちろん意匠もそれなり凝っていますが、お札に比べれば金額の割に『これがそんなに高額』とは思えないほど小さく、最初の頃特に慎重に扱っていました。
 行政や司法では、他の手段での直接間接の納税を財源とするものと、印紙税法で定まった課税文書の手続きによる税金の2しゅるいがあります。
 10万円の小さな紙きれに、市民の方のいろいろな思いがこめられているというのもまた気付くと重いものです。
 守秘義務にもなり、詳細は書けませんが、司法の手続きは、本人の一生、名誉の全て、場合により生命に関わるものです。
 安易にデジタル化もできませんが、デジタルの波はきます。他の行政や司法事務には波が来ています。

 契約書や領収書に収入印紙の貼り付けが必要とする根拠になっているのが「印紙税法」です。「印紙税法第3条」では、課税文書を「作成」した人に印紙税を納める義務が生じるとされています。

 そして、具体的な「作成」の内容について述べているのが国税庁の「印紙税基本通達」です。「印紙税基本通達第44条」に書かれている「作成」の意義の中には、「相手に交付する目的で作成される課税文書を交付したとき」とあり、電子データを「送信」する行為は「交付したとき」に当たりません。

 そのため、電子化された契約書・領収書の発行には、印紙税がかからなくなるとされているのです。
 デジタル化となると〇〇士は要らなくなるとよく言われますが、公認会計士、弁理士、行政書士、社労士、税理士などは多かれ少なかれデジタルで代替され、仕事は減るでしょう。
 裁判官や検事はむしろAIでも可能かもしれません。
 しかし、弁護士や司法書士はまだある程度必要だと思います。
 裁判所の事務方、弁護士事務所のパラリーガルなども、まだまだ必要でしょう。問題はここは絶対聖域みたいな部分がデジタルにできなくても、何とかそれ以外のものはデジタル化し、省力化して効率を図るべきです。頼る方も人間がやるからではなく、デジタル化の書式などは自分で勉強するべきです。その過程で問題も冷静に整理できるでしょう。
 役人や法曹にかかる人は、基本真面目に決められたルールを守ります、先んじて、法律や仕組みを変えることを企図しないとどんどん硬直化します。デジタル化も最も最後になって、それまで税金を消印し続けるのではもったいないです。

一歩間違うと人生破産

 大手化粧品メーカーに勤めていた当時は思っていなかったのですが、やはり華やかな業界にいたことを改めて思います。
 化粧品の業界でももちろん、お客さんや取引先はけっこうお上品ではない厳しい人もおられましたし、上司も怖い人もいました。部下はとんでもなく理解力がなく、出来の悪いもの、育ちの悪いのもいろいろいました。社内でもいろいろ気を使い、我慢したり汗を流し泥臭いこともやりました。
 それでも、定年後公的機関に勤めまして、役所を訪ねてくる相談に来るという多くの人は、失礼な言い方ですが、もっともっと厳しい環境、貧しい生活をされているのです。一時期は自営業ではぶりが良かったり、一流の会社のサラリーマンでもやはり、落ちる時はどん底まで落ちるものです。

 特定の事案はもちろん守秘義務で語りませんが、人生を誤ってしまうストーリーを見てしまうケースは格段に増えました。
 一般の社会でも、仲良い夫婦もいれば、仲が悪く喧嘩になり、暴力を振るうとかの夫婦は見たり、聞いたりするでしょう。その最悪のケースが相談に来るわけです。
 ギャンブルや浪費、犯罪に手を染め、借金にまみれる、大谷さんの通訳ではないですが、無名の人でもそんな転落の人生はざらにあります。
 投資の失敗、突然の事故や病気、不況や裏切り、「まさか」のどんでん返しはドラマの話だけではないのです。

保険というのも、保険会社の儲けや宣伝、人件費も考えるとなかなか率が良いとは限りません。それでも掛け捨てでも保険をかけた時ぐらいの蓄えは必要でしょう。健康やクルマの運転などはある程度自覚で大きな損失につながらないようにはできます。保証人やローンなどは慎重に考えないと、学費や住宅ローンでにっちもさっちもいかない破産もよくあります。
 私自身でも振り返ると30代後半から40代、50すぎくらいまで住宅ローンを抱え、子供二人を大学に行かせてた時代が、年収はそこそこでも一番可処分所得が少なくしんどい生活でした。結婚式の祝儀や歓送迎の飲み会などに、自腹で1万円~3万円、餞別込みで課長は12、000円とか言われると、待てよ!みたいな感じでした。
 先の読めない時代でも40代にもなれば、生涯のライフプラン設計は必要です。最悪、最悪を考えると楽しくないので、いろいろ盛り込みながらも、まずはこのぐらい遊ぶには、このぐらい小遣いもらうにはどれだけ働くか稼ぐかから始めないと、お金の計算に慣れていきましょう。投資や社会保険の言葉、その仕組みも難しいですが覚えていきましょう。
 

プロスポーツを観るということ

 何か、少し前までコロナ禍でオリンピックを東京でやるやらんと散々喧々諤々議論があり、結局やって良かったのか、汚職などの負の遺産も残って評価も分かれるところです。

 スポーツを応援して観るという純粋な娯楽としては、新しい競技も増え東京五輪も盛り上がり、パリも始まれば、普段マイナーなスポーツも含めてNIPPON!で盛り上がるのでしょう。
 私はスポーツ観るのは好きですが、プレイを楽しく見るのが好きで、「国だとかひいきが勝てばいいというとか勝たねば!」という勝利至上みたいなガチガチ応援で見るのが好きではありません。
 何かノルマ課せられた営業みたいな姿見せられても、暑苦しくなるだけですから、そうなるとチケットを買ってとか時間を割いて楽しむものではないからです。
 MLBとか、欧州のBIGクラブのサッカーだと見てるだけで、すごいなあというのがスポーツの醍醐味です。国内や学生とかでもこれはと思うビックプレイが時に出ますし懸命な姿もいいです。ィギュアスケート、体操、アーテイストスイミング、スケボーとか本来見て楽しめばいいのに、細かい数値化や審判の主観など政治経済みたいなのが入って、それをハラハラして憤るも何か本質と違うような気がします。
 勝利を目指す、高い技術を競うのは間違いではないのですが、選考クリア、出場、メダルとか勝利ばかり至上にする姿がおかしくなるのです。
 
 ルールやレギュレーションの隙のようなものはどのスポーツにもありますし、審判が故意か偶然か目をつむることもあります。でも、そんなズルのような形で勝ち上がっても、勝っても見ている方はちっとも面白くありません。
 こういうと、そうだなと思う人もあるかもしれませんが、実際には多くのファンやギャラリーは自国やひいきが結果として「勝てばいい」のです。
 サッカーやプロ野球などでも、熱心なファンでもどうもこういう見方ができなくて、勝利至上の応援や贔屓の引き倒しのような、楽しくもない応援になってしまい、お金をかける割に不満ばかりで楽しくない観戦になる人がいます。
 昔は戦争の軍隊のよう、自国の競技を応援していましたし、敗戦後もプロレスなどで、ルールや決まりはどうでもよくて日本人が最後に勝てばいいという観戦が主でした。
 結果だけで満足や不満なら、ニュースアプリで見ているか結果を追えばよいだけです。負ければ不満が溜まり、首脳陣や選手批判でウサ晴らすのが楽しむのような人もいますが、レベルが低い残念さです。
 中には真剣にずぶの素人が、自分が采配した方が上位にいけると信じ切って、なおかつ負けたことに口惜しがっていますから、もはや幼児です。
 相手があるのですから。勝つことも負けることもあるのが競技です。勝ち負けは当たり前に受け容れないとストレスが溜まります。
 比較的ストレスが少ないのが、大谷翔平のメジャーの野球です。大谷が出る前でも時折見られる、スピーディなプレイには驚き、感動するのではないでしょうか。大谷がホームランを打って活躍したらエンゼルスやドジャーズの負けはまあ勝てればいいけど、ほぼどうでもいい、競技を見る姿勢はそれがいいのです。
 海外のメジャーだからではなくて、他のスポーツでもそうです。「どっちも頑張れ」で見る方が楽しいです。